最後に『何が望みか?』と身体を抱き寄せた。
これの事だから、見当違いの事を言うだろうと覚悟を決めて尋ねた。余の顔を見上げて、
「最後の日の出を見たいですわ」
そんな事であろうと思った。
インバルトが浴室に消えてからかなり長い時間が経っている。
様子を見に行って良い物かどうか、悩んで浴室前の扉で考える事三十分。
「インバルト、入るぞ」
鍵も何もかかっていないドアを開き、バスルーム手前のパウダールームのカーテンに手をかけて開くと、
「どうかしたの……」
「きゃぁぁぁぁぁ!」
絶叫と共に床に音を立てて落ちる小物。
「へ、陛下。もう少しお待ちください」
ガウンを羽織り、髪をタオルで包んだインバルトが鏡台の前に座っていた。落とした小物をを拾い上げて渡すが、此方を観ない。
「どうした?」
「髪は濡れておりますし、お化粧もまだですから。お部屋のほうでお待ちください」
育ちのいい女は、髪が濡れたまま人前に出る事はないのだそうだ。髪を梳くのも人前でする事を嫌う、それらを知ったのはこの国を手に入れてからであったが。
この国の身分の高い女は、結婚すれば夫の前に出る時は必ず化粧を施すのも決まりだ。
この国で最も身分が高く、育ちの良い娘はそれを頑なに守ってくれていた。余は髪の濡れた、結婚後化粧をしていないインバルトなど見た事はない。
化粧をしていないインバルトを見たのは八年前。初めて会った時だけだ。
許可を与えた記憶のない化粧品が並ぶ鏡台。
「落として中身が割れたのではないか?」
「あ……キサから貸してもらった大切な物でしたのに……」
「……」
「キサに、お化粧の方法習いましたの。とっても綺麗に……とは言いましても元がありますから……。キサは本当にお化粧が上手で……ついつい……」
”死化粧を頼んだら喧嘩になってしまいました”
考えなしで悪かったと反省しております、そう割れたチークを見ながら呟いた。
「それは新しいのを買って返しておく」
「陛下?」
「全財産をあの男に奪われたとしても、働いて買って返す……心配するな」
どんな顔をして良いのか、全く解らんな。
泣いているのかと思った、震えているのではないかと考えた……結局、此方の行動とは全く違うことばかりを仕出かすインバルト。
髪を包んでいるタオルを取ると、中から濡れている豊かな赤い髪が零れ落ちた。
「陛下……」
「化粧をしなくていい、髪もそのままでいい」
座っているインバルトを後ろから抱きしめ、肩に顔を埋めた。お前が泣いていてくれたなら”俺”は泣かないで済んだだろう。泣きもしないで、
「最後ですから……練習したのです……一番綺麗なお化粧の仕方を。最後に一番綺麗な姿を陛下に……それ程、き、綺麗にはならないのですけれど。少しは華やかに見えるように」
最後と言う。はっきりと言い切るお前の横顔に、何と言葉をかければ良いのか?
「お前が最後だというのなら、最後に素顔を見せてくれるか?」
「は、恥ずかし……」
「とても可愛らしいぞ、インバルト」
随分と昔にかけてやれば良かったとしか思えない言葉が口から零れ、それ以上は出てこなかった。
余は眠りは浅い、情事の後であろうがそれに変わりはない。
隣に寝ていたインバルトが身を起こし、隣に座り余の顔を覗き込んできた。サァァァという流れる髪音と、暫くの制止。目を閉じたまま、寝たふりをしたまま待っていた。
何があるのかは解からないが、余は待っていた。
寝顔が観たいというのならば黙って目を閉じていようではないか。
暫くすると枕元にあった余の手にゆっくりと触れ、恐る恐る……起こさないようにゆっくりと手を持ち上げた。
今更起きているという訳にもいかず、黙って寝たふりをしているとインバルトは手の甲を頬に軽く押し当て、小さな声で話し始めた。それは間違いなく独り言であった、余に向けてではあるが独り言。
「この言葉が正しいのかはわかりませんけれど、精一杯の語彙を集めてみました……陛下、お慕いしております。どうぞ末永くお元気で」
手の甲の一部が熱く、そして濡れた。直ぐにインバルトは手を放しその涙を拭って、腕をそっとシーツの中に入れ、直ぐに自分もその中に入ってきた。
外気に少し触れていた身体は冷たく
「インバルト」
「陛下? 起こしてしまいましたか」
「明日の朝は早く起きるのであろう。……身体が冷えている、近くに寄れ」
それを抱きしめて……寝る事はできなかった。聞こえてきた寝息に安堵し、その寝顔を見つめたまま夜明けを迎える。
『観たい』と言っていた朝日を見せる為、その頬に触れて最後の目覚めを告げた。
「朝日が昇り始めたぞ、インバルト」
*
泣く事はもう諦めた。
落ちた自分の手が床に触れて目を覚ます。
何の夢も観ていないのに、俺は寝ながら泣いている。寝起きの顔を掌で拭うと、悲惨なものだ。
最初は苦痛で泣く事をどうにか止めようと思ったが、一年もこの状態だと慣れて来る。
もうメセアにもハーフポートにも知られている、どうでも良い事だが。ソファーの傍に湯を張った洗面器とタオルが置かれている。
夜中に起きて顔を洗って再び寝る……一晩に五度も顔を洗わなければならない程泣いている事もあった。
何か夢を見て泣いているのならばどうにでもなるだろうが、何も観ないでこの状態だ。
もう、泣く事は諦めた。
原因は永遠に取り除けないのだから、諦めるしかない。
*
まだ僅かに星が残っている明け方の蒼さを見せ始めた空を、共にソファーに座りながら見つめる。
インバルトの手には白い秋桜。それを握った手を上から握り締めて無言で空を見上げていた。徐徐に明るさを取り戻す空、
「陛下、ありがとうございます」
「何がだ?」
「一人でしたら不安で寝られなかったと思いますわ」
「そうか……明けの明星が消える」
次にあの星が現れた時、それがインバルトの最後だ。暫く手を握り締め、立ち上がって
「インバルト、お前は好き嫌いは?」
「はい?」
「昼食は食えんだろうが、朝食くらいは軽くとれるだろう。作ってくる、待っていろ」
「陛下が?」
「この場に俺以外誰が居る? 着替えて待っていろ」
「はいっ!」
何を作って食べさせたのか全く思い出せない。ただ嬉しそうにしていた事しか思い出せない。