繋いだこの手はそのままに −193
《さあ、言え。言ってみろ》
頭の中で響くラードルストルバイアの声。誘惑であろうか。
なにを言えと……囁くのだ?
《解っているんだろう? さあ、言えよ。シャロセルテのように》
―― 皇帝になどなりたくはなかった! ――
《このことばがひきがねで おれが おもてに あらわれた。さあ おもえ。おもう だけで おまえ は じゆう に なれる。おれが おま え を くい こ ろす》
……もしかしてラードルストルバイアは余に「皇帝になどになりたくはなかった!」と言わせたいのであろうか? それは……それは。なにがあったとしても言うことはできないし思うこともない
「皇帝であることはやめない!」
余は弱いから、一度でもそう思ってしまえばもう立ち上がることはできない。玉座から逃げ出して……逃げ出して。
ラードルストルバイアの姿は見えないが、笑ったような気がした。
《お前の勝ちだ。お前はシャロセルテ以上の男だ、自信を持てよ》
”ばさり”と音がし、飛んでいったような……
そんな事はない。そんな事はない! 違うのだ! ちが……
「起きてください。ナイトオリバルド様」
「……」
「どうなさいました?」
ロガの声に目を開くと、そこは……小さな家だった。ロガの昔住んでいた家よりは大きいが。
「あ……お、おはよう」
「おはようございます」
ロガは起床し着替えなどを全て終えていた。
……なんだろう? なにかが、こう……違う。なにが違うのだろう?
**********
「お前は明日から、こいつを朝起こせ」
「?」
「経緯は省くが、誰もがこいつには寝たいだけ寝せることにしている。でもよ、それは”誰も”の意図に反してるんだよ。こいつが目覚めてさえいれば、俺は目を覚まさない」
「ゼーク様が目覚めることを恐れているのですね?」
「そうだ。それに……誰の人生でもそうだが、こいつの人生には限りがある。その中でお前と会話をしたり、触れ合ったりしたいと希望してる。残り百年近くだったらいいだろうが、こいつには寝過ぎてる余裕はねえ。起きて話せ。だからお前が起こせ。こいつはこの二十五年間、一度も起こされたことがねえ」
「皇帝だから? ですよね」
「そうだな。まあ話すことが鬱陶しかったら寝かせておいてもいいぜ」
「起こします。毎日定時にしっかりと起こさせていただきます」
**********
「おはようございます」
すでに朝食は運び込まれておったようだ。
「バスケットに入れてもらいました」
かなり大きめのバスケットの蓋をロガが開く。
中には料理の他に食器類も並べられていた。
「ナイトオリバルド様、まずはトイレ済ませてください。それから食べましょう」
「お、おお。その前に歯でも磨くか」
歯を磨いてから、一人でトイレへとはいる。
「せめて三十分以内に……」
あまりロガを待たせるわけにはいかない。
―― 二十五分後 ――
「ふう……三十分以内に無事終わった。……あれ? ロガ」
洋服を着直して部屋へと戻ると……抜け殻だった。全ての部屋を確認してもロガはいない。先程あったバスケットも。
「ロガ?」
玄関の扉が開き、その扉が閉じないように椅子が置かれていた。
余は建物から出て周囲を見回す。
草原の中をロガが歩いている。バスケットを両手で持って、どこかへと向かっていた。二つの月の下、歩き続けている。
「ロガ!」
大声で名を叫んだが、声が届いていないようでロガはそのまま離れて行く。
「ロガ!」
もう一度叫んで、余は駆け出した。
なぜか体は重く感じられる。走る速さそのものは変わらない筈なのに、どうしてこんなにも重いのだろう。
「ロガ!」
叫んでもまだ振り返ってくれない。もしかしたら、余は”ロガ”と叫んでいるつもりで、なにか違う言葉でも発しているのだろうか?
あと少しでロガに辿り着けると感じた時、ロガが振り返って……
《あほぉぉ! 死ね馬鹿野郎が!》
体を一瞬にしてラードルストルバイアに乗っ取られた。膝から力が抜けて前のめりになる。駆け上がっていた丘の斜面に転がると同時に、ロガが反対側に転がって行くのが見えた。
―― ロガが! ロガが!
《黙れ!》
ラードルストルバイアは体の自由を返してくれない。
なだらかな丘から落ちきり、ゆっくりと余の体は起き上がることになる。
「ラードルストルバッ!」
《馬鹿か。あの勢いで人間に激突してみろ! 死ぬぞ。間違いなく即死だ》
「……」
《お前、自分が時速何キロだして走ってたか解るか?》
「あ、あの……」
《っとによ。まさか本当に危機から救う羽目になるとは、思ってもみなかったぜ。それも……》
「?」
ラードルストルバイアの言葉の意味は解らなかった、解説してくれなかったからだ。だが次の行動は説明をもらえたから解った。
「そうだ! ロガが……って、なんだ? ラードルストルバイア」
体の支配権を返してもらえたので、立ち上がろうとしたら、腕だけ支配下に置かれて顔を撫でられた。
「顔に塵でも付いておったか?」
《はあ……今程度の衝撃で人間の頭は吹っ飛ぶんだぜ》
「……」
《気つけろ。ったくよお》
撫でられたとしか感じられなかった。あの程度の感触で人間の、ロガの頭が吹っ飛ぶと?
「あ……あのな! ラードルストルバイア!」
《手前は人間なんて食えねえよ。抱こうがなにしようが、絶対に食えねえから、安心して抱け》
「だ、だが!」
《食えたらいいな。お前の精神がそこまで狂ってたらさぞ幸せだろう。あのシャロセルテですら、覚悟を決めて食ったシャロセルテですら最初は吐いた。情けない面で吐いたぜ、泣いて鼻水垂らして、胃液ももどし続けた》
「……」
《そんなの簡単に食えるもんじゃねえよ。リスカートーフォンの生まれついての食人狂たちでもあるまいし。心配するだけ無駄だ。お前が恐れるシャロセルテは生まれつき食えるような男じゃなかった》
「あ、ああ…… 」
《それとな、俺お前の奴隷の首絞めた。……って状況でな》
突然「記憶」が造り上げられた。余が単身で撃って出ると言う、少し前の出来事だ。
「ラードルストルバイア?」
余の視界に映る、首を絞められているロガ。
《中々の娘だと認めるぞ。怖がらなかったんだよ。奴隷娘は一度たりとも怖がらなかった。さ、その奴隷娘はさっき、お前の勢いにあおられて斜面から転がり落ちてた。とっとと近づけ。でもゆっくりだ》
「あのなラードルストルバイア」
―― お前、意外と鋭いじゃねえか ――
《シュスターシュスターク・ベルレー・イフロターヌ・ナイトオリバルド・クルティルーデ・ザロナティウス・エディグレイス・ラフィアナ・ソンデベルディオン・バルト・シャディロデヒュラ・ヒドリケイジュ。あるいはエターナ・ケスヴァーンターン=ゼオン・ヴェッティンスィアーン=ルクレツィア・アルカルターヴァ=アシュ・アリラシュ・リスカートーフォン=アエロディク・アルリエラ……相変わらず皇帝ってのは馬鹿みてえに長い名前だ。じゃあな! 馬鹿、幸せにな!》
―― 消えるわけではないから、”さようなら”とは言えなかった。”また会おう”というのもラードルストルバイアの意思に反する気がした。だからなにも言えず終いだった ――
ラードルストルバイアはもう戻ってはこない。話しかけても答えはしないだろう。
はっきりと聞いたわけではないが……間違いはない。余は立ち上がり、言われた通り逸る気持ちを抑えながらロガの元へと近付いていった。
斜面を登る。
さっき蹴り上げ千切れた草が、強い匂いを発している。そこから斜面を見下ろすと、緑の海の中に、柔らかな金髪が僅かに見えた。
「ロガ」
斜面を滑り降りて近付く。
「ロガ。済まない! 大丈夫か? 怪我はないか?」
草原に横たわったままだったロガはゆっくりと体を起こして、普通に会話してくれた。
「怪我は……ちょっと右のこめかみ近くを擦ったくらいですから」
金髪に隠れている状態だったので、手で髪をよけるとロガの言った通りだった。
「急いで治療するために戻ろう」
「このくらい平気ですよ」
「だ、だが!」
「このくらいは大丈夫ですから」
どうしてだろうな? ロガにキスしたくなった。
不思議だったのは、なにも言っていないのにロガも同じ気持ちなってくれたことだ。
互いに顔を近づけてキスをした。
薄紫の空と青と赤の、日中でもはっきりと解る大きな月。大地は濃い緑色の草に覆われて、風がそよぐ都度揺れる。
閉じていた目蓋を開くと、すこし遅れてロガも目蓋を開いた。
瞳に余の姿と月が映っていた。ほぼ同時に絡めていた指も離れる。
「ナイトオリバルド様。朝ご飯にしましょう」
「うん」
斜面を滑り落ちるとき、ロガはバスケットから手を離したので少し離れたところにあった。その傍へと近寄り、朝食の用意をする。
バスケットを開き、シートを敷いて日よけを建てる。
ソーサーにカップを置き、温かい紅茶がポットから注がれる。
「どうぞ、ナイトオリバルド様」
「ありがとう」
バスケットにはハート形をしたパンケーキが五段重ねられているケースがあった。
「綺麗な形ですね」
専用のバターをのせ、温かいメープルシロップをその上にかける。ロガの瞳によく似た色だ。
「切り分けて食べるのがもったいないくらいです」
「そうだな。しばらく黙ってみてようか」
そう言った余だが、空腹がそれを許さなかった。
腹が酷い音を立てて、空腹を周囲に伝えてしまったのだ。
「やっぱり食べましょう」
「す、すまない」
もう少し格好良くだな……無理か。なにせ余だからな。
食後にもう一杯紅茶を飲みながら、周囲を眺める。
「ナイトオリバルド様」
「なんだ? ロガ」
「ナイトオリバルド様が私の名前を叫んだの聞こえてました。最初から聞こえてました」
「……」
「その時に時計を見たんです。私が家を出てから二十分は経ってました。丘から落ちて真っ先にしたことは時間の確認。時計を見たらナイトオリバルド様の声を聞いてから五分もしないうちに追いつかれちゃいました」
「急ぎすぎて大怪我をさせるところであった。悪かった」
「私、ナイトオリバルド様のように走るの速くないです。たぶん、とっても遅いです。ナイトオリバルド様は私に歩調を合わせてくださるでしょうけれど、それは同時に”シュスターシュスターク”の歩みも遅くなる。本来ならナサニエルパウダさんのようなシュスターと同じ速さで進んでゆける方が良いのではないかと……それでも私の手を取って、歩ませてくださいますか?」
歩くはここで歩くことだけではないことは解る。
「ゆっくりでよい。一緒に来てくれ、最後まで」
だから余は手を取る。余の歩みも早くはない、目指したいものはあるが、時間は足りない。だがロガを手放したくはない。
「はい」
ロガが食器を片付け、シートも畳む。
余は日よけを「収納」と書かれたボタンを押して小さくするのみであったが。それらをバスケットにしまいロックをかけて、ロガが右手に持った。
「余が持つぞ」
「いいえ。私に持たせてください」
「……ああ」
空いているほうの手を握り合い戻ることにした。
「とこでどこから来たんでしたっけ?」
ロガは周囲を見回しながら、目印になるものを探しはじめた。景色がどれも同じなので、余もまったくわからない。月の傾きや影で解る者もおろうが、そういう事ができることは知っていても、使い方は知らない。どうし……
「あれは……」
「どうなさいました? ナイトオリバルド様」
「あ……タバイが……」
昨晩休んだ建物の背後にある丘に、大きな白地に金で皇帝紋が描かれた帝国軍大軍旗を持ったタバイが立っておった。月が傾き支柱が輝きを持つ。
「いま光った方ですか」
ロガも輝きに気付いた。
「……ああ!」
何故だろうか? 何故なのであろうか?
軍旗を持っているタバイの姿が目の飛び込んできたら、泣きたくなった。どうしてだろうな。手の甲で涙を拭いながら、
「さあ、いこうか……ロガ」
声をかけたが、泣き声だとすぐに知られてしまうような声になっていた。
「はい。ナイトオリバルド様のこをと待っている人たちのところへ、戻りましょう」
ロガの言葉を聞いたら涙が溢れてきた。
そうだな……そうだな……腕で顔を拭いながら、ロガの手を引き歩く。
ゆっくりだった筈だが、ロガを追いかけた時よりもずっと時間はかかった筈だが、すぐに辿り着いてしまったように感じた。
余の人生は今ロガとあるいた時間と同じように、すぐに終わってしまうのだろうな。いままで生きて来た人生も悪くはなかったが、この先は今までよりも少し長いくらいの期間はあるが、幸せで瞬くまに終わるのだろう。
「ナイトオリバルド様」
瞬くまに終わる程の幸せを持ち生きてゆく。その幸せをこの宇宙にいる全ての者に分けることができたなら……
「なんだ? ロガ」
「この先も二人だけで食事しましょうね。一週間に一度くらいは二人きりで。子供が出来ても時間を作って」
―― 死ぬそのときまで皇帝で在り続ける貴方と二人きりの時間を ――
「ああ! そうだ……なあ!」
皇帝であることは悪くはないぞ! 皇帝は止めないぞ! ラードルストルバイア! 聞こえてるだろう! 返事はせんでもよい! 皇帝は、悪くはないぞ! これからザロナティオンに見せてやるぞ!
「待たせたなタバイ」
「待たせたなど」
「ロガ、先に戻っていてくれ」
「はい」
ロガはバスケットを持ったまま進み、手を高く掲げた。同時にタバイも手を掲げる。合図を受けて移動艇が降りてきた。
中から現れたのは……ダーク=ダーマ? えっと……帝国軍大将の服着てるし……余が知らない誰かであろう。実際ロガは”ご無事でしたか”と声をかけておるし。
ロガとダーク=ダーマがカレンティンシスの旗艦へと戻る為に離陸したのを、手を振って見送った。
「タバイ。デウデシオンは?」
「いまだ生死不明の状態です」
「そうか。タバイよ」
「はい」
「余はな、いままで一度もデウデシオンが死ぬということを考えたことがなかった。デウデシオンは余よりも長生きすると知っていたから、死ぬとは思わなかった」
余にとってデウデシオンは絶対。
死ぬとは思ったこともない存在であった。
「…………」
「余亡き後、ロガのことを任せようと思っておった。生死不明の現在、死んでいるとは思わぬが、デウデシオンにもしものことがないとは言い切れぬから……誰かもう一人くらいに依頼したほうが良いであろうな」
デウデシオンもまた”死”があるのだ。
それに気付かないほど愚かであり、それに気付かないふりをする程に依存しておった。この状況を変えることは出来ぬであろう。
デウデシオンに余が依存しておる。それがデウデシオンの権力そのものだからだ。
だから余はデウデシオンが生きていたら、またデウデシオンを帝国宰相のままにしておき、大事を任せる。
今までと違うといえばそれが「意識して」行うこと。
余の意識の変化など感じ取って貰う必要もなければ、言うこともない。だが余は……デウデシオンから権力を与えたままにしておこう。そうでなければザウディンダルを……
「はい。それと僭越ながら、兄は陛下が思っているほど長く生きるかどうか」
「どういうことだ?」
「ザウディンダルのことがあります。ザウディンダルの寿命は残り二十五年あるかないか。弟が泡と消える時、兄が正気でいられるのかどうか。自殺しないとも言い切れません。兄は狂い、私は兄を殺さなくてはならないかも知れません」
「そうか……そうだな。人は寿命だけで生きるわけではないものな。誰かと共に生きるのだ、誰か共に滅びることもあろう。タバイ、知らせてくれたこと感謝する」
ザウディンダルよ……そなたは余の……
「感謝など」
「タバイよ」
「はい」
「一つだけ言っておく。もしもデウデシオンがザウディンダルを失って狂い、殺す以外の道がなくなった時、それは余が行うべきことだ。忠臣に与えられる全ての栄誉を与えて殺そう。だから気に病むな。お前はいつまでもデウデシオンの弟であれ。余はいつまでもデウデシオンの皇帝である」
そなたに権力を与えて依存した皇帝のたった一つの”皇帝としての仕事”だ。
「御意」
―― 帝国宰相パスパーダ大公。人臣最高位「副帝」の地位を皇帝シュスタークより与えられる ――
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