繋いだこの手はそのままに −151
逃げなくてはならない程の感情。そして遠ざけたロガ。
シュスタークの濡れた髪が乾いた頃、テーブルには食事が並べられ、テーブルには既にロガが座っていた。
周囲には人はおらず、ロガ一人だけ。
タバイやミスカネイア、タウトライバなどが、落ち着いたばかりのシュスタークのことを考えて、人払いをするようにした。
「ナイトオリバルド様」
ロガは椅子から飛び降りる。ロガがシュスタークと同じ高さのテーブルにつくためには、自身の身長では座り辛い椅子を用いる必要があった。
飛び降りて丸テーブルの向かい側のシュスタークの椅子を引く。
「ナイトオリバルド様、お腹空いたでしょう」
「あ……ああ。ロガも座ってくれ」
シュスタークは自ら椅子を引いてテーブルに近付き、ロガが再び席につくのを待った。
テーブルの上に並べられた大量の料理。一皿をのぞいて、全てがシュスターク用の皿に盛りつけられている。ロガの料理は、ロガの前にある浅い皿の一品だけ。
「ナイトオリバルド様、食べましょう」
ロガが食前酒代わりの水が入ったグラスを差し出す。
「ああ……ロガ、それだけで良いのか?」
乾杯したグラスを置き、スプーンを手に持って皿をかき混ぜるロガに声をかけた。
「はい! あの……ちょっと食べてなかったから、いきなり食べちゃ駄目なんだそうで。ミスカネイアさんに叱られました」
痩けた頬を赤らめて、だが屈託無く微笑む。
「そ、そうか」
どうして食事をしなかったのか? など聞く必要もないこと。
久しぶりの食事をスプーンで口に運び、
「ナイトオリバルド様、どうしました?」
またロガは微笑む。
奴隷たちが住む区画で、二人で墓地の脇で弁当を広げて食べていた頃と同じような笑顔。シュスタークはフォークを持ったまま、鮮やかに盛りつけられた料理に視線を落とした。
「ロガ……余は、三日どころか一年近く食べなくても死にはしないから……そんなに心配してくれなくていい。教えなくて悪かった、だから……その……あんまりな。人間……いやロガは食べないと体に悪いのだろう?」
シュスタークの体機能を持ってすれば、水すら必要とせずに一年は”持つ”
「……」
ロガは持っていたスプーンを皿に置き、正面のシュスタークを見つめた。
黒くありながら輝く長髪。真珠のような光沢をもつ白い肌。左右が違う瞳。
ロガが帝星に連れてゆかれた日、宇宙から観た海にも似た蒼と、何事かが起こった《塔を覆っていた蔦》のような翠。
血の気がないようにも見える色のない唇。
「ロガ? なぜ、泣く!」
目の前にいる”ナイトオリバルド”という存在と、自分は全く違う世界に生きているのだと感じた時、涙が溢れ出した。
「ナイトオリバルド様……」
「泣かないでくれ、ロガ! 泣かないでくれ」
シュスタークは椅子から立ち上がり、ロガの隣へと行く抱き締めようと手を伸ばした。
「ナイトオリバルド様……あの……いやです」
「な、何が?」
「心配しないなんて、できません」
ロガの肩の上で止まった手が、わずかにと揺れる。
「ロガ……」
「言いたいことはあるんですけど、上手く言えないのがもどかしいんですけど、私はナイトオリバルド様のこと……ナイトオリバルド様のこと……」
「ロガ!」
言いたいことが渦巻いて流されてしまい、言葉にできなかったロガは、苦しさのあまり泣いてしまった。
ロガ自身、なぜこんなにも涙が流れるのか? 声を上げて泣いてしまうのか? 解らないのだが、これしか意志を伝える方法がないとばかりに泣き声があがり、堰を切ったように涙が溢れる。
目の前で”おろおろ”しているシュスタークを観て、泣き止まなくてはと思いながらも、
「ナイトオリバルド様が……」
言いたいことが出てこない。
「ロガ……ロガ! 痛いところはないんだな? 無いのだよな?」
シュスタークは椅子に座ったまま泣いているロガを優しく抱き締めて、
「心配してくれて、ありがとう。余はこの通りだから、ロガに一杯心配させてしまうから、だから心配して欲しくなかったが……ありがたいし、そのロガに心配し……ロガに心配して貰うと、ロガが心配で倒れるのではないかと心配になるので! だからロガが!」
何時もの如く言葉につまってしまうシュスターク。
「ナイトオリバルド様、ナイトオリバルドさまぁ!」
二人は抱き合ったまま、ロガは泣きシュスタークは抱き締めたまま”ロガ”と名を呼び続ける。
この状態はさすがに静観したままにはできないと、タバイとミスカネイアが二人に近寄り引き離した。
「后殿下、お顔を洗って、もう一度お食事を。新しいのを隣の部屋に用意させておきましたので。さあ、お顔を洗いに行きましょう」
泣いているロガの背を撫でながら優しく話しかけると、なんとかロガの涙は止まった。
「ミスカネイアさん……」
「お疲れなだけですよ。しっかりとお食事をなさって、陛下と一緒にお休みになれば、明日には良くなってますから」
ロガが部屋を去ったあと、シュスタークもタバイに連れられ着替えて、今度は先に食卓について待った。
タバイは部屋を去ろうとしたのだが、
「また、先程のようになったら、どうにもできないので、此処にいてくれないか? タバイ」
「私でよろしければ」
シュスタークにマントの端を掴まれ、懇願されては拒否できるはずもない。
「お待たせしました、ナイトオリバルド様」
ロガは顔を洗い、薄紅色の夜着に着替えガウンを羽織って食卓へと戻ってきた。
「ロガ」
ミスカネイアに椅子を用意してもらって座り、
「食べましょう、ナイトオリバルド様」
すぐに皿の回復食をスプーンで掬って口に運ぶ。
「あ、ああ」
ロガが一口食べた姿を見て、シュスタークは安堵し、その表情にロガは”出会った頃”を思い出す。
料理が口に合わないのではないか? と仮面越しでも不安げに、そして自分が食べて笑うと喜んでくれた”ナイトオリバルド様”
ロガは他者に《陛下のどこが気に入りましたか?》などと聞かれたことはない。皇帝のどこが好きなど、質問してよい物ではないからだ。
だがロガの中には存在する。好きになった切欠は、自分が料理を美味しいと言ったら、自らのことのように喜んでくれたこと。
「ナイトオリバルド様」
「なんだ、ロガ」
「私、笑顔で一杯食べてるナイトオリバルド様が大好きです!」
そして当初は料理を食べても、特に”空気”の変わらなかったシュスタークが、徐々に一緒に食事をしていると楽しげになってきたこと。死刑囚の墓地の前で、シートに座って”顔の崩れた奴隷”と食事をして、楽しんでくれた。
些細なことだが、ロガにとってはとても幸せな時間で、後にシュスタークとの会話でその気持ちを伝えた時”余も同じだ!”と、食事をしていたときの楽しさを伝えられて、心の奥底が満たされた。
皇帝と奴隷。
生まれや育ちどころか、種族も内側にある存在した時代すら違う二人だが、幸せを感じる箇所はとても似ていた。
「そ、そうか!」
シュスタークは言われた通り、久しぶりの食事を笑顔で頬張った。
それこそ行儀悪く、音を立てないでナイフやフォークを使うというのも忘れ、口に次々と押し込み奴隷居住区に通っていた頃のようなでロガの方を向き直る。
その姿を見ながら微笑んでいたロガは、食事の途中でテーブルに崩れ落ちて眠ってしまった。
「緊張がほぐれたのですよ」
「そ、そうか!」
伏しながらも微笑んでいるロガを観て、
「食事途中だが止めて、ロガと寝てもいいか?」
三日間拒否した眠りを受け入れる覚悟を決めた。
**********
眠りの中にも浸食してくる死者たちと……
《よお》
―― ラードルストルバイア
内側に棲む男の声に安堵を覚えて、返事をする。
それと同時にシュスタークには毛布と変わらない程度の重みのロガに手を触れた。
手放したくはないと、自らの体の上に乗せたロガ。
夜着越しに感じるロガの吐息と、触れた指先に感じた熱。その熱は同時に指を凍らせる。
《落ち着いたか》
―― ……ああ
三日が経過し会戦はリュゼクの手腕により、いつも通りの”小康状態”となり会戦は終了した。
当然のことながら、終了後から死者の正確な計測が行われる。
戦死者の数が減っていようが増えていようが、戦死者がいることに変わりはない。
―― 戦死した者達にも家族がいて、友人がいて、愛する者がいる
《そうだなあ》
死亡した者達のことを考えた時、シュスタークは気付いてしまったのだ。
―― ……
《……》
―― 死んだ者達のことを可哀相に思うし、余のせいだとも思う。だがな……だが……
《言えよ。誰にも言わないで済ませたいが、誰にも言わないのは卑怯だとおもうから、お前は悩んだんだろ? 言え、ほら》
胸の上に頬を乗せて眠るロガの肩を掴み、唇を噛み締めて降ろしている目蓋に力を込める。
―― ロガが生きていて良かった! 死んだものは可哀相ではあるが、ロガでなくて良かった! ロガを一人残して死ななくて良かった! 残された者は哀れであるが……
胸の上で規則正しく寝息をたてているロガに比べた時、それはシュスタークのなかで何にもならない。軽く、軽く、ただひたすら軽く通り過ぎてゆく。
かつての世界。紙に書かれた数字が金であり、死者数であったころよりも、それは軽く僅かな存在となり果てていた。
ロガのてのひらにあった使い古した硬貨。必死に生きて、金を稼ぐのは大変だとロガを見て知った。だがシュスタークはロガに湯水のように金をかけたいと願い、それは叶えられる。
誰にも様々な過去と、幸せを望む気持ちと、今を生きる権利があると知ってはいたが、実感がなかったシュスターク。ロガを得てそれを実感した。実感した後に、何万人死のうがロガが生きていた事を喜ぶ。
ロガと他の一億の臣民の命が天秤にかけられたら、躊躇うことなくロガを選んでしまうだろう自分に直面してしまった自分を認めるのが恐く、それが他者に知られることを恐怖して、全てから逃げた。
その結果が三日に及ぶ不眠。そう、内側に存在しているラードルストルバイアにも知られたくはなかったがために、眠ることを拒否した。
《それで良い。よく言うじゃねえか、支配者だって人の子だって。それで良い》
死亡した者達の家族の慟哭も、ロガの泣き声の前には何も感じず、恋人を失った者の嘆きは、ロガの涙を前にした時に聞こえなくなる。
皇帝としてそんな自分を認めてはならない。だが、
―― ロガが生きていて良かった。ロガと会えて、そして再会できて良かった!
もう逃れることもできない。
唇を噛み締めていた上の歯列は下の歯列と擦り合わされて、歓喜の叫びをかみ殺すために歯軋りの音を上げる。
力を込めたままの目蓋から、溢れ出す涙は声とはならない歓喜の明かし。
《ほら、もっと叫べ》
死者と行方不明者、負傷者とその全ての家族に対して皇帝は責任を負う。だが責任を負うことで、ロガが自分にはにかむように微笑みかけてくれるのだとしたら、シュスタークは全てを背負うことも厭わない。
―― ロガが居てくれるなら、ロガが笑ってくれるのなら……だから、まだしばらくは体を繋げることはない
シュスタークの内側に生まれたロガに対する《男性として女性に対する感情》は、たしかに異性に向けるものではあるが、まだ愛情の域には達していない。むしろ暴力や狂気と呼んだ方が正しい。
内側で溶岩のような熱と、血腥さを持って渦巻く重い、愛情になる前の感情。それが重きものであることも感じ取っていた。
自らの内側にある、押し潰されそうな感情。自壊しかねない程の感情に戦き、逃れ助かろうとロガに手を伸ばしそうになったが押しとどめた。
単純な肉欲ではないから他者では代用できず、全てをぶつけて楽になのは、大切に思っている相手だからこそできない。
己が一人で感情を支えることができるようになってから、手を伸ばす。
《そうだな。それで良いんじゃねえの》
ロガの吐息に目を閉じて、シュスタークは三日ぶりの眠りに落ちた。
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