PASTORAL −180
 息子の安否は気になったが、明日から宮殿に入る用意も必要な宮中伯妃は自宅へと戻ることにした。皇帝があのように言った以上、息子は無事であると信じて。
 一人でモノレールに乗っていると、宮中伯妃が入力した場所ではない所で停止した。何処を押しても動こうとしないモノレールと、近づいてくる足音。彼女に近寄ってきた足音の主はゼンガルセン。
「私は帰宅するのですが」
 そんな言葉など無視し、ゼンガルセンは彼女の胸元を掴みモノレールから無理矢理降ろす。
 降ろしても掴んでいる胸元の手に、彼女は非難がましく手で振り払いたい素振りを見せる。ゼンガルセンの手が自分の力では振り払えないこと、彼女は知っている。ゼンガルセンよりも劣る、比べる事もできない程に劣っていたクロトロリアの手ですら彼女は払えなかった。
 本気で彼女の胸元を掴んでいる男の手、それを力で振り払えない事、彼女は良く解っていた。
 だが、彼女の手を離して欲しいというゼスチャーにゼンガルセンは口の端で笑い、手を簡単に離す。
 その自由になった胸元を自らの手で握り締めた彼女に、ゼンガルセンは自らの胸元から赤いハンカチを取り出し、それを手のひらにのせてゆっくりと開く。
「これがなんだか解るか」
 あったのは、色素の薄い肉とその付近。それに血がこびり付いていた。
「…………息子の、唇で……すか?」
 下唇から顎にかけてまでの肉が、そこにあった。
「ああ、噛み付き引き剥がした」
 人間はパーツになっても解るのだ……宮中伯妃はそんなことを考えながら、目の前にある息子の顔から引き剥がされた肉を凝視しながら、それを仕出かした男に尋ねる。
「何をなさりたいのですか?」
「お前の息子は馬鹿だ、大馬鹿だ」
「それは母親である私が最も良く知っておりますが」
 手に乗っている “息子” から目を離し、見上げる。
 実際の身長よりも大きく見えるゼンガルセン、その威圧感に全身を押されながらも彼女は見上げた。
 そしてゼンガルセンは彼女に顔を近付けてくる。彼女息子の唇をはがした口元を耳元に近付けて、耳に唇が触れるかのようにして語る。
「“お前の母親を強姦して、ものにしてやる” そう言ったら、お前の息子は勝てない事をわかっていながらかかって来た」
「…………」
「馬鹿な男だ。頭を殴られ “眼球を垂らし” 耳や鼻から血を流して、唇を引き剥がされても、馬鹿はかかって来た」
「リスカートーフォン公爵殿下に対して、無礼を働き申し訳ございませんでした」
「大いに気に入った」
「息子がですか?」
「いいや。その大馬鹿を育てた女が」
 彼女は耳元にあった顔に向き直った。
「…………」
 そこにあった瞳に映っている自分が、酷くおびえている表情をしている事に彼女は気付いた。
 だが、彼女は虚勢を張ってもこれが限界だった。
 ゼンガルセン相手に、此処まで虚勢を張れた時点で叙爵ものではあるが。
 おびえる女をその目に捉えた男は、噛み付かんばかりに顔を近づけ話し続ける。
「あの馬鹿は、お前が罵られれば相手が誰であろうとかかってゆくであろうな。後宮はこの通り、他者の悪口を相手の耳に入るように囁く場所。この先後宮で、息子の耳にお前を馬鹿にする言動が入ったらどうなるかな? ヤツは我慢できなかろうな」
「本当に馬鹿な子ですね」
 後宮で暴れるような真似はしないと彼女は思っていたが、そうでもないらしい事をこの男が証明した。
 自分はいるだけで息子を傷付ける。
「お前の息子は、お前に対する公然たる悪口を防ぐ権力のない男。だが、お前が我の妻となればどうなると思う」
「…………」
「我の王妃だ。我がお前の夫だ。誰が悪口を言えようか。いいや、言っても構いはせぬ、殺すだけだ。我が殺すのとお前の息子が殺すのでは訳が違う。息子を後宮で孤立させたいか? ならば王妃にならずとも良い。それならば、それであの男は使い道がある」
「…………」
「サフォントはお前の息子を気に入っている。その息子を、壊すまでよ。二度と此方に戻って来れぬほどに、お前の息子を破壊してやろうか。精神の箍の外れた皇君を抱えたサフォントは、殺しやすい。サフォントのことだ、重荷にならば皇位を守るのに邪魔とならば殺すであろうがな」
「…………」


「馬鹿な男だ。あそこまで必死にならなければ、お前は我の妃になる事もなく、本人も我に目を付けられる事も無かったのにな。アレステレーゼよ」
− ママをいじめるな!


「……そのようですね。本当に、あの息子は……考えなしで自分の実力もわからない……」
 自慢の息子です……と小さく口の中で。
「我の妃となるのならば、お前に養子縁組をさせてやる。お前は皇君と養子縁組をして、我の元へと来い。皇君は、我が王妃となる為の持参金だ」
 そして彼女は、はっきりと決めた。
 自分自身で罵詈雑言を封じる力がないのならば、封じ込められる力を持つ男の妻になればいい。
 それで息子がこの後宮でそれ相応の権力を手に入れることができるのならば。


『そーっと、そーっと』


**************

「ラウデ、本当に奴隷になって……いいの?」
「はい。何と言えば良いのか……やっと、身軽になれるような気が……ヤスヴェ、弟の事は嫌いじゃありませんでした。確かに両親が死んで、俺が一人で育てなければならなくなった時、そしてそれからの毎日、正直に言えば “居なければ良いのに” そう考えた事が一度も無かったとは言いません。施設に預ければ楽になれるのにと。でも預けられらなかった……預けられなかったのは、その時本当に寂しかったのは自分だったのだと、弟の戦死報告を受けた時に実感しました。もっと色々な事を話しておけば良かったと、そんな後悔も…………戦死者の遺族に払われる年金が……現実的でしてね。支払われる年金の金額を見る度に、弟の身が細切れにされていくような……実際、細切れどころか塵になったんですがね。……他の年金を貰っている人を非難するわけでも何でもないのですが、俺の手元に振り込まれる金額が苦しかった。金額の大小ではなく、死んだ弟が数字になって刻まれて行く様が」

振り込まれた金を使わないで貯めたって、弟は戻ってこない

「唯の数字です。支払われなければ生活に困窮する人も多数出るでしょう。でも……嫌だった。でも、これを他人に渡すのも嫌だった。遺族年金を返還したり、寄付したりするのも嫌だった。“金額” という数字になり刻まれて行くそれだけが弟の最後の存在だと思えば……。似てるんですよ……親が死んで弟と二人っきりになった時の感情に。振り込まれてくる金は嫌で仕方ないけれども、それを拒否したら弟の存在をも拒否してしまうような……」

弟の最初で最後の戦争の指揮官の名は

「そろそろ、逃げたくなりました……もう、弟が俺の手元に金として振り込まれてくるのは……奴隷になれば、もう縁が切れます。俺は弟を想うだけでいい。自分から全てを捨てられるほど強くなく、それでも投げ捨てたいと……私は弱い男です」
「ラウデ。それは私も同じ事。私の息子は生きているから、私は自分を捨てることはできないの」

ガーナイム公爵 ゼンガルセン=ゼガルセア

**************

 彼女は結婚を受けさせていただく、そうゼンガルセンに告げた。
 “それで良い” そんな表情を浮かべたゼンガルセンは、ハンカチの上から肉をつまみあげ、
「その、唇は……ひっ!」
 彼女の前でそれを口に入れた。
 生肉を咀嚼する音を、わざと行儀悪く聞かせる男。
 静かな宮殿の一角に響くには相応しくない音。飲み下した後、
「脅しではないこと、解ったか」
 口を開き、舌を出す。そこには何の欠片も残ってはいなかった。
「か弱い女にそこまでなさる事ないでしょう」
 こみ上げてくる嘔吐感をこらえながら言い返すが、その語尾にかかるように勢い良くゼンガルセンは声を重ねる。
「女がか弱いなど誰が言った。そしてお前がか弱いだと? 面の皮の厚い女だ、よくそんなことを言えるものだ。益々気に入った!」
 手を伸ばし、彼女の肩を掴むゼンガルセン。その手に、表情に、欲情を感じた。彼女には逆らうことは出来ない。ここでこの男に、息子を食った男に抱かれるのだと、他人事のように考えていた。
 皇帝には犯されたが、この男には自らの意思で抱かれるのだと、そんなことを自分に言い聞かせながら。


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