PASTORAL −169
一通り泣き、そして母親との思い出を語ってもらった後、時間の押してきたサフォントは次の政務に向かう為に皇太子の下を後にした。
見送る皇太子に、
「それではな、皇太子」
皇帝として声を掛け、背を向ける。
それに頭を下げたまま、皇太子は言う。
「皇君が落ち着かれましたら、皇太子が会いたいと言っていた事を伝えてくださいませんでしょうか」
「伝えておこう」
それだけ言うと皇帝は皇太子の下を去っていった。
警備の兵士の中にあって、一際目立つ「真祖の赤」を持つ父皇帝を黙って見送った。
− 讒言に惑わされるな。甘言誘われるな。己が思考に固執するな。自らの視界を狭めるな。足元を見ることを怠るな。理想を掲げることを忘れるな −
サフォントの言葉を反芻し、皇太子は目を閉じた。
“皇太子を得る為に皇太子妃を見捨てた”
皇太子が幼い頃から、聞きたくもないのに耳に入ってくるこの言葉。それが真実なのかどうか? 幼い頃の皇太子は面と向かってサフォントに尋ねる事がどうしても出来ないでいた。
“そうだ” と言われたどうしようかと、そればかりが気になって。
サフォントは時間を見つけては皇太子の元へと来て、今は亡き妃、皇太子の母親の話をする。
徐々に皇太子は「皇帝は母を、皇太子妃を見捨てはいないのでは?」 そう考えるようになってきた。何故、そう考えるようになったのか? 言葉にすれば「サフォントを信用できるようになったから」それだけのこと。
ただそれだけの事ではあるが、それは大きい。物心ついた頃からマイナスに近い感情からはじまった父親と娘の関係。それが相手を信じられる程になるまで。
サフォントは決して自分自身を弁護することはなかった。皇太子妃が死んだ事については、公式発表以上のことは語らなかった。それを語るときの父であるサフォントの表情は変わらない。そこに何の感情もないのではないかというほどに。
公式発表ではない “噂話” や “推測” に己の感情を込めて、したり顔で語る者達の言葉はだんだんと自分の上を滑っていくようになったのを、皇太子は感じていた。
サフォントは、皇帝は、父は自分が成長するのを待っているのではないか?
自分が真実を見極められるのを待っているのではないか?
何故自分がそこまで皇帝を信じられるようになったのか? それすらも今ははっきりと解らない皇太子ではあるが、
何時か皇帝に母が何故、死と引き換えに自らを産んだのかを聞こう。その時は、自分の子を腕に抱いて父に尋ねようと
そう心に決めていた。
その時、子の父親が自分の好きな人なら良いな……そう願いながら。
『お父様もお好きな方を迎えられたんだから、私も……女の子より男の子の方が好きなはずだけど……どうなんだろ? あの夫二人は違うような……』
目やら鼻やら口から紅茶を吹き出して転びかけた叔父と、それを必死に宥めていていた父を思い出し、皇太子は少しだけ微笑んで目を開いた。
― 良い気分で目を開いたのに最悪
目を開けば当然ながら視界は開ける。
その視界の先から来たものは、
「あら、ザーデリア。陛下が何処に向かわれたか知らない」
母を敵視していたと言われる実妹。
「……レハ公爵如きが皇太子である私に対し、随分と慣れ慣れしい口を利くのだな」
人の語る噂話など信じないと心に決めた皇太子だが、この女の噂話だけは本当だと身にしみて知っていた。
最初は噂だけだろうと思っていたのだが、妃として正式に決まるともはや自分が主だと言わんばかりに後宮に来るようになり、その態度から噂は本当であると皇太子は自分で見て知った。嫌でも目が行く妖艶さと、それでも補いきれない性格の悪さ。
“オーランドリス伯爵に同情する” という者が多数いると噂されていたが、それが本当であることを知らしめる高慢で態度の悪い王女。
「っ! 申し訳ございませんでしたね、死後皇后の皇女殿下」
「正式に皇妃になってから初めて私に口が利けると思え、レハ公爵」
何よりも “自分の大好きな父親が、こんな性格の悪い女と結婚せねばならないとは” その感情が九割を占めていた。子供っぽい感情なのは皇太子自身理解している。
だがその九割の感情を制御できないのも事実。目の前にいる性格の悪い王女も全く制御できてはいないが。
「生意気な娘だこと!」
「貴様もな、レハ公爵。貴様はたかがロヴィニア王女。現皇帝の第一子にして皇太子である私と対等な立場になど一生なれぬこと、今から学んでくるがいい」
いずれ競争相手となる弟・妹の母妃となるだろう性格の悪い叔母に対し、今持てる限りの気迫で跳ね返す。
こういったものは最初の小競り合いでひるんだ方が負けだと、皇太子はなんとなく知っていた。とにかくこの場で自分より下の立場にある叔母に負けてはならないと、全ての意地をかき集め、生まれ持った気品と迫力に勢いをつけて返す。
「生まれなど、運によるものが大きいでしょうが」
皇太子の想像以上の剣幕に押されながらも、クラサンジェルハイジは返すが、皇太子は追撃をやめない。
「前夫に対してもその心があれば、もう少しまともな生活も送れただろうなレハ公爵。お前は生まれた順位が既に敗北者よ。お情けで皇妃になれた事、ありがたく思え。ロヴィニア第四王女」
青筋を立てたクラサンジェルハイジが、それでも頭を下げて皇太子の前を辞した。
「はぁ……疲れたぁ……」
クラサンジェルハイジの姿が見えなくなったところで、皇太子は大きなため息をつきながら肩を落とした。
今までは父である皇帝と皇太子である自分、それと父と仲の良い叔父に子供な夫二人だけの生活だったが、これからはいけ好かない叔母皇妃や、気の強い帝后、控えめなど美徳でもなんでもないのにそれしかない帝妃などと生活していかなくてはならない。
その上、彼女たちが生んだ弟・妹の上に立ち……そう思うと、九歳の皇太子もため息の一つや二つ付きたくもなる。
「お見事……」
誰もいないと思ってつぶやいたのだが、誰かがいたらしく声が聞こえた。
「誰だ? 名乗るが良い」
急いで頭を上げて、その声の主を見る。
王族の血を引いているのが一目でわかる容姿を持った少年がいた。それも、映像で見た事のある自分の母親になんとなく雰囲気の似ている少年を前に、皇太子は言葉を失いかける。
「ではお言葉に甘えて。エルダート公爵……じゃなくてデファイノス伯爵ザデュイアル、父はオーランド……でなくて……ゾフィアーネ大公シャタイアス=シェバイアス、母は先程殿下に非礼を働いたレハ公爵クラサンジェルハイジ」
「帝国最強騎士の息子ですか」
従姉弟か……その時、皇太子は彼を見て不思議な感じを覚えた。
「はい」
「ゾフィアーネと待ち合わせですか」
「え……いいえ……本当は母に会いに来てみたのですが……案の定 “お前は息子ではない” と皇妃宮で門前払いをされまして……粘ったところでどうにもならないので、宮殿のリスカートーフォン宿舎に帰ろうとしていたのですが……その、つい最近までヴェッティンスィアーンの方に属していたため、道が良く解らなくて……」
母の後姿をみて、つけて歩いてたわけです……どこかにたどり着けたらいいな……って。
そう言って苦笑する年下の少年を、
「では一緒に来なさい。そろそろ、ゾフィアーネ大公が手作りのパイを持って直接訪れる。それを共に食べて帰れば良いであろう」
皇太子は自分の下へと招いた。
不思議な感じの一つに “もう少し話をしていたい” と言う感情があったため。
「宜しいのですか?」
それが初恋だと気づくのは、皇太子はかなり後の事。
彼はすぐに気づく。
なんにせよ、
「不測の事態だ、気にする必要はない。一緒に食べる予定だった相手が目から紅茶を」
皇太子は “皇君と語らう筈だった時間” を埋める相手を見つけた。
「目? から紅茶?」
言われた方は、それは奇妙な顔をしていたが、
「代役だが、それでも良いか」
「はい! 喜んで」
皇太子の誘いに嬉しそうに従った。
宮に戻り話に花を咲かせていると、綺麗なラッピングを施した箱を持ったシャタイアスが現れた。
「お届けにあがりました、皇太子殿下」
テーブルの上にそっと置き、どうぞ開けて見てくださいと促す。皇太子はシャタイアスの持ってくるケーキが楽しくて好きだった。味が絶品なのもあるが、綺麗に飾られた箱を自分の手で開けて良い、それが何よりも楽しかった。
身分の高さと暗殺の恐れなどから、箱を自ら開けて中を一番に見るなどと言う事はほとんど許されない皇太子だが、シャタイアスのケーキだけは皇帝も許可していた。
「ありがとう、ゾフィアーネ大公」
楽しそうに箱を開く皇太子を、我が子のように優しく見つめるシャタイアス。
「それはそうと、皇君はいかがなさいましたか?」
わざわざ宮中伯妃に “皇君の好きな味でしょうか?” と試作品まで持って行き食べてもらった自信作なのだが、
「急用が出来て」
残念ながらエバカインの口に入る事はなかった。
それで、皇君の代わり席についている細身の少年を前に彼は言った。
「そうですか。ちなみにこちらの方は?」
「あなたの息子ですよ、ゾフィアーネ大公」
父と息子の間に、恐ろしいほど冷たい空気が流れたのは言うまでもない。
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