PASTORAL −114
余はそなたの事、産まれる前から愛していたと声を大にして叫べる。ああ、叫べる! この氷点下の雪原を全裸で走る事も厭わぬ。
出会いは突然であった。そう、あれは……
二歳の頃、父であったクロトロリアに相談を持ちかけられた。
侍女に手を付けて子が出来たと、余に恐々と告げにくるその姿。これが銀河帝国皇帝か、この跡を継ぐのかと思うと少々どころではなく嫌になる。玉座くらい清浄な状態で保てばよかろう。
二歳児に自分の後始末を付けて欲しいという男は人間としてどうか? それでもアレは一応皇帝なので、余はその処理に向かった。母体は十六歳の下級貴族。処刑はせずとも、腹の中の子だけを始末させ手当てを与えれば良いだろう、どこか遠くの領地を与えて苦労なく暮させてやればよかろうと映像を出させた。
この世に産まれることは無い、か細い命を。
腹の中の映像を映し出させた時、余の人生は全て塗り替えられた。そうは言っても二歳だが。
そこに映し出された受精卵の可愛らしい事!
あまりの可愛らしさに、受精卵に向かってプロポーズをする所であった。なんという可愛らしさ! 既に性別は男と判明していたが、そんな事この可愛らしい受精卵の前には些細な問題!
これがあのクロトロリアの精子で出来上がったものなのか! と叫びたくなる程に。
その可愛らしい受精卵が二つに分割する様は、余の脊髄を官能が支配するに十分であった。
二歳にしてそなたの受精卵姿を見て、余はこの世に抗えぬ劣情があることを知ってしまったのだ! 自らの両腕で己の体を抱きしめて『余をこんな体にして! 責任取って! 受精卵!』と叫びたくなるほど。
有り得ぬ! いや、ここに存在しているのだから在るのだ! 存在を否定してはいけない!
何故なのだ! 何故これ程までに受精卵が可愛らしいく、それでいて少し淫らで、この地上の美を纏っているのか! 全く解らぬ! これは奇跡であり、伝説への序章であり、栄光への道であり、ウィニングロードであ、サンダー鳥であり、余の全てに違いない!
ああ! 我が受精卵よ! これ程までの受精卵を殺してしまうなど出来ぬ! よって余は今までの人生で培った全ての知識と人脈を投じ、この儚くも輝きに満ちている受精卵を守る事とした。
守ろうとは思ったが二歳であった為、何処にも手の回しようのない現実に打ちひしがれた。人生初の挫折である。
大体、余の権力は皇帝ではなく母である皇后により齎されておるものであり、その皇后が怒っているのだからどうしようもない。
途方にくれていた所に来たカウタマロリオオレトが余の顔を覗き込み、
「メロンで生ハムを包むと美味しいよ」
そのように言ってきた。
余はメロンで生ハムを包む料理は知らぬ。生ハムでメロンを包むのならば見たことはあるが、だがもしかしたら何処かに存在している料理なのかも知れぬ。そして間違いなく、カウタは余の事を心配してくれていたのだ。そこで余はカウタに策を求めた。
余の言葉を聞き終えたカウタは、
「じゃあ大叔母様の所に行こうよ! 連れて行ってあげるよ! ムームー」
大叔母とは、余の曽祖父帝の皇妃だった人物で後宮にいる期間が長く、絶大な権力を握っている人物だ。彼女はこのカウタを非常に気に入っていた。
理由はカウタが彼女の死んだ息子によく似ているから。死んだといっても自殺、それも男と派手に心中。戦艦に二人きりで搭乗し、恒星に激突したと聞く。
追い詰めたのは彼女自身、その派手な心中をした実子に容姿も言動もそっくりなカウタ、要するに優しく接するのは罪滅ぼしといった所のようだ。余には全く関係のない事であるからして良いのだが。
ちなみにムームーとは余の事である。
何故ムームーなのか尋ねたら「皇太子殿下になる人だから」との答え。ベロファーゼ(皇太子)の何処がムームーになるのか? 結構不思議ではあったが、カウタは余よりも四歳年上であるからして、色々なことを知りそうなったのであろうと言うことで、余は手を引かれ大叔母の宮へと向かった。
カウタにとって大叔母と言う事は、余にとっても大叔母だが、大叔母に対する影響力はカウタの方がはるかに上である。
そこで大叔母に皇后を説得してもらう約束を取り付けた。その代償として余は三歳にしてベロファーゼとなる事が条件として提示される。
何れ皇太子になるのであるからして、八歳でなろうが三歳でなろうが問題ではない。余はそれを受け、かくも美しき余の受精卵は見事に侍女の子宮に着床した。
後は無事に産まれてくるだけであるが、皇后は理性と権力に納得を示したが感情が制御できず、侍女の身に危険が及ぶ可能性もあるので、仕方なく侍女を宮殿から出す事にした。
その時、余の手元に残ったのは受精卵が成長し、心臓が形成された頃の映像のみ。
受精卵時代も可愛かったが、人類の原始形である状態も可愛らし過ぎ、余は宇宙が崩壊するのではないか? そう心配になった程である。
破壊される宇宙というのは余のゲシュタルトであり、シュヴァルツシルト半径である。シュヴァルツシルト半径が崩壊したのは相当昔の事であるが。
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余は宮殿から出した侍女・アレステレーゼと余の最愛の弟(まだ胎児)の動向は側近にそれとなく見張らせておいた。表立っては皇后がデバラン侯爵(大叔母の事である)の言いつけを守らないと『皇后が』罰せられる、それを防ぐ為だ、なる理由付けにして。
その後アレステレーゼは無事出産し、一人でそれは儚くも可愛らしい余の弟を育てる。だがそれは、十七歳の天涯孤独の娘には酷であったようだ。
図らずも皇后を敵に回した、即ち宇宙の大勢を敵に回したも同然であり、命の保証すらない。誰一人味方の居ない中で自分の人生を変えた、それも当時のアレステレーゼにしてみれば悪い方に変えた原因である息子との生活。
アレステレーゼは二十歳の時、エバカインと名付けられた宇宙の奇跡、かつて地球が誕生し、生物が誕生した確率よりも稀な奇跡! としか表現のしようのない可愛らしい息子を残して家を出た。
別星系行きの切符を買い、ホテルの一室で一人過ごしていると報告をうけ取ったのは夕方を過ぎ、空が暗くなり始めた頃。
色々な事に疲れ果て、アレステレーゼは家を出て行った。
側近の一人からその報告を受けた余は、一人屋敷に残されている余の最愛にして可愛らしすぎる弟の傍へと行く事にした。要するにお忍びである。
皇后に気取られないようにする為、学友であるシャタイスを人目につかぬように部屋へと招きいれ、従姉であるカッシャーニにも余の私室に来るように命じておいた。
シャタイアスを余の替え玉に沿え、側近一人を置いてゆく。もう一人の側近にアレステレーゼの動向を見張らせた。
カッシャーニには外を歩く洋服を準備させる。嘗て女性だけが着たドレスを着用し、目立つ赤毛を隠す為に金色の鬘を被り、側近の一人カシエスタ伯爵と共に貴族街へと出た。
屋敷の近くで車を止めさせ伯爵に周囲を見張らせて、余は一人残された弟を訪ねる。鍵などは全て合鍵を用意しておるので、簡単に開く事ができる。
玄関が開いた音にかけてきた三歳の弟。
夜だというのに後光が差しておった、美しい! 夜目が利く体質がこれ程までに幸せだと、誰が教えてくれようか! いや、弟が教えてくれたのだ! 良き目を残してくれたな! エターナ、ロターヌ、両ケシュマリスタよ!!
「ママ! おかえり! おかえり! おなかすいたよ! オムレツたべたい! ママ!! ……ママは?」
アレステレーゼが帰宅したと勘違いして走ってきた、奇跡の音色のような足音を持つエバカインは、見たこともない余を前に、
「だぁれ?」
「私は、お前の」
琥珀色の瞳から溢れ出す涙。我慢していた涙が溢れ出したエバカインを前に、余は困り果てた。
「ママァァァ!」
ひたすら母親求める声。会話は全く成立しない。
小さな家のリビングで、余は泣き止まぬエバカインを抱きしめた。余は六歳の時、初めて幼子に権力が通じぬ事を知る。腕の中で母親であるアレステレーゼを求めて泣き叫ぶエバカイン。
余がどれ程話かけようが、全く話は通じない。
離れた所に待機し、余とエバカインの会話にならぬ会話を聞いていた伯爵が『アレステレーゼを連れてきましょうか』と言ったが、それはさせなかった。
無理矢理此処に連れ戻し、エバカインと共に過ごせと命じるのは簡単であるが、それを強制したところでエバカインとアレステレーゼの間に良い関係が築けるとは思えなかった。限界まで我慢したのだ、あのクロトロリアに犯された娘は。
部屋の中は荒れていた。エバカインが暴れたのではなく、アレステレーゼがストレスの限界にきて物に八つ当たりをした跡。
高い位置の食器棚の扉は開き、中の食器は床に投げつけられ、椅子は倒れて洋服は鋏でさかれている。ただ、それでもエバカインは怪我をしていない。本当に限界まで努力した結果なのであろう、息子にその暴力を向けないようにする為に。
エバカインは全くアレステレーゼを恐れてはいない。帰宅を楽しみにしておったところから、一切暴力を振るわれていないに違いない。
「ママ! どこぉ! ママァァ!」
思えば余は、この泣き顔も可愛らしい弟の受精卵に魅せられて、アレステレーゼの人生についてはあまり考えてはおらなかった。
よって、彼女がエバカインを捨てて何処かへ行ったとしても咎めるつもりはなく、手を回し楽に生活を送れるように取り計らうつもりだ。
置いていった事を責めるつもりはない。置いていって正解だ。それで自由になれるのならば、置いて行けば良い。
アレステレーゼが戻ってこなければ、皇室はエバカインを引き取る。いや、皇室に引き取らせてみせる。あの衝撃的な魅惑の受精卵を観た時より四年、余は少しずつ自己の権力を手に入れている。あの日の無力感を糧に、余は努力した。
エバカインが不自由しないように『エバカインにプレゼントを買ってあげたつもり預金』もしておる。
皇太子資産より毎日100万ロダス(約一千万円)を、そっと他人名義で作った通帳に毎日入れ、コツコツと貯めておる。本当は色々な物を買ってやりたいのだが、今はそれも叶わぬ。何時かエバカインに、全額を贈る日が来る事を夢見つつ、泣き叫ぶエバカインに来る途中に買ってきた料理を差し出した。
だが、全く口をつけてはくれない。
権力というのは、この程度のものなのであろう。親を求めて泣く幼子に、権力者など意味がない。
余はエバカインを抱きしめたまま、ソファーで一夜を明かす。眠っていた余を起こしたのは、アレステレーゼの見張りをしていた側近からもたらされた報告。
彼女は宇宙港まで行きはしたが、搭乗する予定だった宇宙船のポートには向かわず、それが離陸するのを背に宇宙港を後にして、大急ぎで自宅へと車を走らせていると。
余はアレステレーゼの人生に対し全責任を負おうと、メモ用紙に困った時には連絡する番号を記しそれを持って、エバカインをゆすり起こした。
「母……ママが帰ってくるぞ」
泣き疲れていたはずのエバカインは、余の言葉に目を大きく開き、
「ホント?」
飛び起きる。余はうなずき、エバカインの手を引き彼女が通る道路で待っていた。
車が止まり、疲れた表情のアレステレーゼが飛び出す。それは四年前に見た健康的な娘ではなく、病的なまでに痩せ細り疲れ果てた女であった。
それでもアレステレーゼは泣きながら手を広げ、エバカインの名を呼んだ。その名を呼ぶ前にエバカインは握っていた余の手を簡単に放し、
「ママ! ママ!!」
走っていった。泣きながら走っていった。
アレステレーゼは迷子になったと言い張った。対するエバカインは「ママ迷子になっちゃ駄目!」と叫ぶ。それが延々と繰り返される中、女装した余は手に持っていたメモを握り締めながら、朝焼けに染まる空を仰ぐ。
本日、自分自身の結婚儀礼式であったことを思い出した。
今頃、余の替え玉を演じておるシャタイアスは生きた心地がしなかろう。
何にせよザデフィリアとの顔合わせの前に、その準備を整える前に早急に戻る必要があるので、
「何かあったら此処に連絡せよ」
余はアレステレーゼにメモを渡し、その場を去る。
あの日以降、彼女はエバカインの傍を離れる事はなかった。
徐々に健康を取り戻し、優しげな雰囲気も取り戻していったアレステレーゼ。その彼女から偶に入る簡素な報告が余の何よりの楽しみとなり、余からの僅かながらの励ましがアレステレーゼの人生に少しだけ余裕を持たせることとなったらしい。
ただそれが、別の人間の人生を狂わせる事になるとは。余はその時、気付いてはいなかったのだ。
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