そこは湖の中心にある島だった。
湖は大きく、島も大きい。そうだな、大きさ的にはイラーグ区程度だろう。
白銀の髪と 《白目》 が特徴の亜種を始めて見たのはその場所だった。
俺は五百年前の敵を見てはいない。
その頃は眠りに落ちていた。
目を覚ましていたなら、俺は敵に協力……しなかったかも知れないな。
なぜ協力しない? フェールセンを滅ぼす好機だぞ? 貴様はそう言うが、敵が味方である保証はない。
何となく……だがな。
その亜種を最後に見たのは、百年程前だ。
今にして思えば不思議だが、その理由など知りたいとは思わない。
何が不思議だったか知りたいのか? 教えてやらんよ、貴様にはなドロテア。
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鳥に誘われて森の奥へと進んだ。光のささぬ背の高い木々の合間を、柔らかい湿った土の上を一歩一歩。
急ぐことのない、急ぐことの出来ない人生の歩みの一つだった。
グレニガリアス王国の版図にあったイラーグ区画。
本当にその大きさだとは言わないが、その大きさくらいだと俺は思う。湖面の水は穏やかではない。
その島を取り囲む湖が穏やかだったら、俺はその島へは足を運ばなかっただろう。
島を取り巻く風。
風が何時も流れているせいで、その湖面が静止状態になることはない。風が吹き続ける理由が知りたく、その島へと渡った。
島に住んでいる亜種を見て、直ぐに理由を理解できた。
炎は蒼で、地は緑。水は黒で風は白。
亜種の中で唯一白目が人間と同じ色合いの亜種。このルテト王国から遥か遠い砂漠の中心にあるトルトリア王国。そのトルトリア王国を建国したシュスラ=トルトリアの子孫だ。風踊るトルトリアの正統な後継者 ”達”
「おや、初めてのお客様だ」
あのフェールセンが作ったとは思えない無防備さと人懐っこさで、俺の傍に群がってきた。
「客人という存在は知っていますが、客人が訪れたことのないこの島には、客人をもてなす作法がありません」
男は言いながら一杯の酒を勧めた。
強い酒だった。普通の人間だったら、二口も飲めば心臓が止まるのではないかと思える程に度数の強い酒。
俺には体温もなければ、脈打つ心臓もない。
人間には飲めない度数の高すぎる酒だったが、俺の舌には合った。
フェールセンと馴れ合う気にはなれなかったが、俺は男に言った。
「いつかこの湖で眠っても良いか?」
「どうぞ」
男が俺の言葉の意味を本当に理解したかどうかは解らない。別に理解などしてもらわなくてもいい。
ただ凪ぐ事のない、細波を絶やさないこの湖面が、とまる事を知らない、死を知らない生きている湖に見え、それが俺を惹きつけた。
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バシリア王国の分裂を詳しく知っているかだと?
ああ、今はセンド・バシリア王国となっている地方にかつて存在していた王国のことか。
知っている。
あの辺りには良く居たからな。
なぜ居たかだと?
あの辺りが最も皇帝や勇者の支配が及んでいなかったからだ。そう、支配がな……。
ドロテア、お前の聞きたい話とはどんな物だ?
世間一般に流布している歴史にない話を知りたいだと? 強欲な女だ。与えられた都合の良い歴史だけを享受していれば良いものを。
市販のバシリア王国滅亡史とセンド・バシリア王国の戦史と建国史を持って来い。それに目を通してから話してやろう。
読んだことがないのか? と言うのか。俺は真実を知っているのだ、紛い物の歴史書など笑い話でしかない。
そんな下らん事で時間は潰せんよ。
無駄なのではなく、直ぐに飽きてしまうという事だ。
間違いはあるのか? 当然あるぞ。
直ぐに言い切った事に驚いている様だが、一つ教えてやろう。
バシリア王国はかつてルテト王国と言った。随分と驚いた顔をしているが、驚くほどのことでもあるまい。
国の名など消えてしまうものだ。
そうグレニガリアスも然り。どうした? ドロテア、奇妙な表情だな。
不細工ではない。
貴様は憎たらしい程に整っている。どんな表情をしようが、美の域から外れる事はない。
そうだな、死ぬ時もだ。
鼻血を噴出し、口から血と唾液を吐き出そうが、お前の顔、そして全ては崩れない。
早く用意して来い。
その間に私は記憶を蘇らせておこう。
本を買いに向かうドロテアの後姿を見て、美しいと確かに思う。
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ルテト王国からバシリア王国になった頃、島を再び訪れた。
当然ながら酒を勧めた男は既に死亡していたが、
「不思議な男との酒の酌み交わしに出てくる ”不思議な男” に良く似ていますね」
男に良く似た女が俺を出迎えた。
「俺がその不思議な男だと言ったらどうする?」
女は驚いた表情を浮かべたが、直ぐに豪快に笑った。
女を評するのに不適切だが、豪快としか表現の出来ない笑い声だった。
「あれから百年以上は過ぎている。貴方は百歳を越えているようには到底見えない」
幾つ位に見えるかと尋ねると、女は 《私と同い年くらい》 と答えた。お前は幾つだと聞いたら 《女性に年を尋ねるなんて、失礼な人だ》 言って笑った。
あの女、クレストラントのレクトリトアードと名乗った女は何処かドロテアに似ていた。
シュスラ=トルトリアの子孫。
ドロテアにはその血は流れていないが、あの纏う風は抱いたレクトリトアードに似ている。だからシュスラ=トルトリアに良く似ているに違いない。
なぜ女と肌を重ねたのかは解らないが、良い女だと思った。女がこの冷たい体をどう思ったかは知らないが。
「火照った体を冷ますのに丁度いい」
言った女の身体もそれほど熱くはなかった。それが表情に表れていたのか、女は笑い、
「内側が」
再び抱いた。
女が目を 《開く》 前に俺はその場を後にした。女は俺が体を離したところで目を覚ましていたが、目を 《開く》 ことはしなかった。
理由は知らない。聞くこともない。
なぜ俺に抱かれたのかも聞きはしない。二度と会う事もなかった。
何度か湖の縁から島を眺めたが、渡ることはなかった。
女を思い出す度に、自分が眠りに落ちていて、シュスラ=トルトリアを直接見られなかったことを少し残念に感じた。
バシリア王国の分裂、争いを眺めそれに決着がついた頃に眠りについた。その時もあの湖に身を沈めはしなかった。
あの湖に身を沈めて、女が潜って探し当てたら嫌だと思ったのが理由だったような気がする。その当時、女が生きていたのかどうかも解らないが。
俺の世界は緩慢で、他者の死を持ってしか世界の流れを刻めない。あの女の死を刻むことで、俺の世界は流れるが急ぎはしなかった。急ぐ必要など俺にはない。
動きを止めない湖面の細波を好みながら、俺は自分の世界を止めおく。あれ程までに止まる事を知らない生き方が出来たら、俺は直ぐにでも死ねるだろう。
次に眠る時はあの湖に身を沈めよう、その時はあの湖の名を聞こうと思い意識を手放す。
俺自身が考えていたよりも早く目覚めたが、世界は少しだけ変わっていた。
あの島はなくなり、湖も無くなっていた。
選帝侯の一族が作った結界を俺は抜けて、その城を見て世界に魔王の城がある事を伝えた。
魔王の存在を知らせたかったわけではなく、そこに住んでいた一族の存在を知らせたかった。そしてレクトリトアードを名乗る魔王を倒し、俺の世界にある女の存在に終止符を打って欲しいと願った。
何故だろうな、憎いフェールセンの亜種だというのに、俺は殺さなかった。
魔王の居城は何処に
風よ鳥よ教えてくれ
そして何時だって俺に結末を突きつけるのは貴様だ、ドロテア。