紫の瞳は随分と美しく、その愚かな望みを語る口は渇いていた。この男が愛するのに最も相応しい女がいるとしたら、それは並みの女では駄目だ。
「マリア……ヤロスラフがマリアの事好きになってもいいか?」
「私は好きじゃないけれど、迷惑かけない分なら構わないわよ」
「……ありがとう」
鳶色の瞳は随分と美しく、その言葉を語る口元は瑞々しい。あの男が愛していると錯覚するのに相応しい女がいるとしたら、それは美しくなくては無理だ。
*
熱を持った身体の上にいる男は、「妾妃」と口にする。凡そ俺に対する興味は失せただろう五ヶ月を過ぎた辺り、皇帝は妙な遊びを仕掛けてきた。
『選帝侯と寝ろ』
命じられれば寝るのは構わないが、それは俺に対する嫌がらせではなく選帝侯に対する嫌がらせのようであった。
「申し訳ない」
言いながら肌を撫でるその手と、女を抱くのが苦痛なのかと思えるような表情。何時ものように、眉間に皺を寄せ俺を見ないようにして抱く。中々に選帝侯も大変な生き物だと、される愛撫に黙って目を閉じた。それが何なのか、よく解からないまま。
何度かの逢瀬……というのは正しくはないな、皇帝の命令に従って寝た。特にそれが何なのかは解からないのだが、
「お前は本当に美しい女だ、妾妃」
『はぁ』とも『ああ』とも答えはしなかった、答えたらあまりにも間抜けだろう。それに答えが欲しそうな口調ではなかった、ただそう言いたかっただけにしか聞こえないそれに、目を開くのが面倒で耳朶に触れ、首筋あたりに息を吹きかける。思えばあの時目を開かなくて良かったと、今でも思う。解かったような気がしているだけだとしても。
特に興味もない、暖かいなと感じられる掌の感触に意識を遠ざけた。それだけの事だ、何時まで続くか解からない気まぐれから出される命令、それに従うだけの事。俺に取ってはそうだった、それは間違っていなかったが、もう一人は間違った。間違いだと言い切れば、男は悲しむだろうか? それを聞く事はもうないが。
翌日、提出レポートを書いていると皇帝が現れた。それは酷く屈折した表情を浮かべている、楽しそうなのだが楽しくなさそうな……相反した感情を両方表す表情はない、だから屈折したような表情にしか見えない。
「何か用か?」
用事がなくて態々此処までくるような男ではないが。手を止めて、体ごと向きを変えて用事を問う。
「書き終わったら、来い」
その声の奥の先にある、冷たいと評するにはあまりに歪んでいた。書き終えたレポートを引き出しに入れると、オーヴァートの部屋へと向かって歩く。場所は聞かなかったが、部屋で間違いないだろう。そこで何を聞くのかは知らないが、聞く必要もない事を聞かされるのだろうとは思う。入り口で一度深呼吸をして、手をかける。
「来たぞ」
扉を開くと、そこは何時になく明るかった。壁にはめ込まれた人の死体が気にならない程、目の前にいる男に目が行く。
「ヤロスラフ……?」
昨日見たヤロスラフとは別人のようになっている。磨かれてもいないのに輝く黒い床の上が波うつ、鉄錆びとはまた違った金属の強い匂い目の奥を刺激する。血だ、暗褐色の。側に寄り、血溜まりに指先をくぐらせる。血は赤いといって良いだろう、そして体温と同じく温かい。口から首にかけての血の痕
「あんた、血は赤いんだ……」
それ以外口に出来る言葉が思い浮かばなかった。血溜まりの中に横たわっているヤロスラフを抱き起こしざっと見ても外傷はない。ならばこの大きな血溜まりは吐き出した?
「腹殴られでもしたか?」
この大きな男を取り囲むような血溜まりが、口から吐き出されたのだとしたら普通意識はないだろう。血の量や外傷、ショックに対する耐性など俺達とは違うのかも知れないが、動けないでいる所をみれば危険である事は変わりない。俺がかけた声に反応し、目が開く。
「違う……ドロテア」
その時の表情は奇妙な程幸せそう。
エールフェン選帝侯は、皇帝に叛旗を翻した為に生き永らえる事を強制される事になった。ただ、生かすのでは面白くないと『反抗心を持てばその身は、この世に存在する苦痛の全てを感じる事となるだろう』
「何が……あった?」
この場に来いという事は、ヤロスラフと会話しろという事だろう。口元に耳を近づける、頬を撫でる弱った吐息には血の匂いが混じっているのかも知れないが、血溜まりの中にいる俺にはそれを嗅ぎ分ける事はできない。血の匂いに麻痺したまま、耳に神経を集中させる。
「オーヴァートの不興を買った」
血の量に比べれば、確りとした口調で話す。
「不興? 何が?」
不興の代償がこれなのは解かる、だが理由は解からない。この選帝侯はそれほどバカではないだろうから、進んで不興を買うようなマネはしないだろう。
「ヤロスラフはお前を愛した。愛するなと言って抱かせたのにも関わらず、大した女だな、ドロテア」
何時の間に背後にいたのか? そんな無意味な事を聞き返す必要はない。
「……このままだと死ぬんじゃないのか?」
「そうだろうな」
それだけ言ってオーヴァートは立去った。死に逝く家臣など興味は無いのだろう。あの男にソレを求める気は無い、そして目の前の苦痛に喘ぐ男を助ける術もない。凡そ無力な唯の人である俺は、ヤロスラフの頭を抱きかかえているしかなかった。それでも随分と楽になったのか、先ほどよりはマシな表情で俺を見る。その紫色の瞳は、満足して死ぬ人の瞳は澄んでいる……とでも言いたくなる程、美しかった。咳き込み、歯列からまで血を吐きながら、随分と穏やかにヤロスラフは口を開く。
「聞いてくれるか?」
「何だ?」
「頼みがある」
「……何だ?」
この状況で頼みごと? 殺してくれとは言わないだろう、俺の力じゃあどう足掻いてもヤロスラフは殺せない。どれ程弱っていようが、俺が殺せるような相手ではない。全てを悟ったかのような、イラつくほどの静寂さを湛えた声で、ヤロスラフは言った。はっきりと、
「オーヴァートを見捨てないでくれ」
そう言った。聞き違いだと思うような言葉を。
「なっ! 今お前がこうなってるのは……」
「私はオーヴァートの命令に背いたが……それ以上に、下した命令と今の状況だ」
ヤロスラフは今も忠実だ、この忠誠に偽りは無い。
「……」
「私は人を愛した事はない、肉親も愛した事はないと言い切れよう。その私が今、君に抱いている感情がある。この不安に満ちたその……ごぼっ……」
「オイッ! 言い切ってから死ねよっ!」
抱き上げていた顔を横向きにして血を吐かせる。血を注ぎ足された血溜まりは、小さく揺れながらその円を大きくする。
「ああ……この感情が愛だとしよう。……もう一人、誰一人愛した事がない男が……確かに存在する」
背中を氷が落ちるような冷たさ、そして胃に走るような痛み。
「オーヴァートか。……っ! 理論上はそうだろう……だが」
ヤロスラフが言っている事が正しいのであれば、証明のように此処にある答えが出る。
「そうだ……だから……認めてはくれないか……私が君を愛したという気持ちが間違いや思い違いではない……事を」
「解かった、少し休め。少し気を落ち着かせろ」
頭を抱いている男が、このまま死ぬに任せておいていいものか? 俺には判断はできなかったが、少なくとも考え違いは正してやろうと、上着を脱ぎ丸めて枕の代わりに頭部に差込み俺は部屋を後にした。廊下を走り、侍女にオーヴァートの居場所を問いただす。
走りながら考える。
ヤロスラフは誰も愛した事はない、肉親も誰も彼も
だがヤロスラフは今、一人の女に感情を抱いている
俺だ
愛などという不確かな感情
愛情と呼べる何か特殊な感情をそこに抱いているのは確かだ
問題は、懲罰である何かが発動した事にある
「ヤロスラフはお前を愛した。愛するなと言って抱かせたのにも関わらず、大した女だな、ドロテア」
ヤロスラフが俺に対して向けた感情が、オーヴァートの中で愛情だと認識された事実
心拍数か? 体温の上昇か? そんなもの規定の数字はないだろう
ヤロスラフが言いたいのは
『自分自身が俺に向けて抱いている感情を、オーヴァートも持っている。だからオーヴァートも俺を愛している』
懲罰が発動したというのは、それを意味する。
多数の女に囲まれているオーヴァート。きゃあきゃあと嬉しそうに纏わり付いていた女達の冷たい目線を浴びるが、こちらの殺気に満ちた俺の視線で睨み返すと直ぐに頭を下げた。負けるような視線をおくるなら、最初から睨みなどするな! 思いながら、オーヴァートの側に寄る。
「少し聞かせて欲しいんだが、いいか?」
「何だ?」
女達に下がれと手で合図する。不服そうではあるが、そんな事は気にはならない。女達が立去らないうちに、言葉を早口で繋ぐ。ヤロスラフを助けようと思わなかった……とは言わない。多分助けたいのだ、だが助ける為にはオーヴァートを動かさなくてはならない。この男を言葉だけで動かせるものか? 自信などない。失敗したとしても、ヤロスラフは怒る事はないだろう。そして……
あの時死なせておけば良かったのでは無いか? と思う時が今でもある。後悔とはまた別な次元で
「何処で選帝侯が俺を愛したと判断したんだ? 未だ嘗て書物に『愛という感情に関する定義』などがあるのを読んだ事がない。あるのならば、見てみたい」
「そんなものは存在はしないな」
「なら、何故だ? どうやってお前は選帝侯が俺に愛情などを抱いたと決めたのだ?」
「……どうして欲しい?」
基準が自身にある事に気付いたオーヴァートの表情は、先ほど女達と上面だけだろうが笑っていた表情とはまるで別物だった。この表情が本来の顔なのだろう。俺ですら気付ける事だ、このオーヴァートが気付かない訳がない。自分自身が俺を、唯の女を愛しているなど認めたくはないに違いない。
「お前が今頭に思い浮かべた事実を認めたくないのならば、ヤロスラフを生かしておくべきだ」
この男の性格からすれば、人間如きに感情を持っているなど認めたくはないだろう。
「なる程。確かにそれしかないだろう。良いものを見せてやる、付いて来い」
「ああ」
はやる気持ちを押さえ、オーヴァートの後をついて歩く。最も、オーヴァートと俺では足の長さが違うので、はやる気持ちを抑えなくても良いほどに走る羽目になる。部屋に辿り着くと、懲罰は既になかった事になっているらしく、穏やかな寝息が立っていた。選帝侯も寝るのだと、驚いた。
「ヤロスラフだけ時間を巻き戻す。貴様を抱いた過去を抹消する」
この二週間程をヤロスラフから取り去る……という意味らしい。聞いた事はある、フェールセンは過去に干渉出来るという事を。
「それで良いだろう……過去干渉というヤツか?」
「そうだ」
吐いていた血は消え去り、ヤロスラフの身体は消え去った、恐らく自室へと戻ったのだろう。
俺もオーヴァートもそれで終わったと確信していた。
だが、それで終わらなかった。翌日、授業を終えて屋敷に戻ってくると、ヤロスラフから声をかけてきた。それだけでも珍しいのに
「ドロテア」
名を呼んでくる。
「ヤ……ヤロスラフ? どうした突然」
俺の記憶が正しければヤロスラフが俺を“ドロテア”と呼ぶのは関係があった後、死にかけた時だ。
「特に用事はないのだが、欲しいものなどはないか?」
「別にないけれども……あんた、俺の事何時から名前で呼んでたっけ?」
「二週間以上前からだと思うが。どうした?」
「いや……この屋敷の中で名前を呼ばれるのは珍しいから」
時間が完全に二週間前に戻ったのだとしたら? ヤロスラフは俺を“妾妃”と呼ぶはずだ。揺らぎというにはおかしいが、些細な出来事が重大な事に発展するのではないかと? 俺はオーヴァートを問い詰める。
「完全に過去に戻ったんだろう?」
「本当か?」
「嘘をついてどうする? お前の過去干渉は不完全だったのか?」
「言ってくれるな」
その後オーヴァートは何度かヤロスラフの記憶を弄ったが、あの時以来ヤロスラフは俺を“妾妃”と呼ばなくなった。何処で記憶しているのかは知らないが、ヤロスラフは俺をドロテアと呼び続ける。その都度オーヴァートの機嫌は悪くなる。それは俺の名を呼んでいる事ではなく、自分の過去干渉が完全ではなかった事に対する怒り、要するに自分に向けた怒りだった。
俺にそれをなだめる術はない。呼び出されても抱かれる事なく、ただヤロスラフの記憶を弄っているオーヴァートの隣で膝を抱きながら夜をやり過ごす。
「一度内に芽生えた愛情というものは、消し去る事ができないのか?」
この言葉が問いなのか? 解からなかったが答えた。
「俺には解からねえよ。少なくとも俺は物心ついた時から、それなりの愛情を持って生きてきた」
俺は幼い頃から弟や妹に対しては、それなりの愛情を持っていた。ミロと出会い、過ごした時にも薄れてはしまったが愛情は抱いていた。それを持った事がないと言い切れたヤロスラフと、言い切られたオーヴァート。
「ならば……お前ならどうする? 感情を持っている期間が私よりも長いのならば、処理の仕方も思いつきやすいのでは?」
感情の処理ってのは、オーヴァートが言っている事とは全く違う筈だ。……何と言おうか?
「記憶を改竄できるんだろ?」
「可能だ」
「なら、別の女を愛している事にすればいい」
その感情を別の者に向けさせてみれば良い。オーヴァートは俺の顔を見ながら、固有名詞を口にする。
「マリアならば良いだろうな」
「マリアか? ……試す前に待ってくれ」
「なんだ?」
「マリアに聞いてみる?」
単純過ぎる思いつきの結果だ。コレがどうなるのかは解からない……
「マリア……ヤロスラフがマリアの事好きになってもいいか?」
「私は好きじゃないけれど、迷惑かけない分なら構わないわよ」
「……ありがとう」
出来る範囲でヤロスラフを管理しようと、マリアにオーヴァート邸で働いてもらう事にした。
「お前の小間使いにでもしろ」
そしてヤロスラフはマリアを愛する事となった。マリアに接している姿が、俺に向けられるものだったのか? と思ったときもある。それは複雑なものだった。
報われない想いは何処にでもある、騙され続ける事もある。
そしてヤロスラフはマリアを愛した。マリアに接している姿が、本来ならばドロテアに向けられているものだったのか? と考えると、それが怖ろしくなった。
「マリアを抱こうとは思わないのか?」
「その気にはならん。……正直片想いを楽しんでいる、とでも言うのだろうこれは」
何か解からないがそれは途轍もなく怖ろしかった。この感情が、ヤロスラフを罰した私の内なる感情が辿り着く先が何であるのか?
ただ、毎夜抱く女が何時か自分の側を去る事を知りながら、私はこの女に何を求めるのか?
「片想いを楽しむだと……」
それは違うのだ、お前がマリアに向けている感情は私が屈折させたもので、本来のものでは無いから……一方的に感じてもなんの痛痒もないのだ。
私がこの女を抱きながら感じる焦燥感は、何なのだ?
それをヤロスラフに問う事は出来なかった
ヤロスラフの感情を歪ませてしまった為に
オーヴァート=フェールセンが抱いたこの感情が暴発するのはこの一年後の事。その“血の婚礼”と呼ばれた虐殺によって昇華された。
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