ビルトニアの女
終わりから始まりに向かう世界へ【11】
 ミゼーヌは夜更けに一人、オーヴァートの柩が一ヶ月前に埋葬された広場に足を運んだ。
「これで良かったと思うのですが、いかがでしょうか? オーヴァート様」
 オーヴァート=フェールセンの跡を継いだミゼーヌは世界を手放した。それが正しいことなのか、誰にも答えを求めることのできない。
 ミゼーヌは空の柩が納められた墓の前で、自問自答する。
 事前にオーヴァートに世界の行く末について指示を仰ぐことも出来たが、それをしなかったのはミゼーヌが本当に唯の人間であったから。
 オーヴァートとは知識で少しだけではあるが世界を共有できたが、それ以外のことでは全く違う世界に二人はいた。それは寂しいことではなかったが、世界の行く末の調整をすることはできなかった。
 何の力も持たないミゼーヌが一人きりになった時に、たった一人で下した決断。
 その決断を下した時、間違いなく皇帝であった。たった一人で世界の指針を決めた皇帝の血を引かない皇帝。

 世界を導く若き帝王と、世界を終わらせる老境にさしかかった皇帝。

 誰もミゼーヌの決断に異義を唱えなかったが、背を押す者もいなかった。その決断は重すぎ、誰も経験したことのない出来事故に、どれ程の古老であろうとも助言のしようがなかった。
 “誰かに否定か肯定か、どちらかの意見を言ってもらえたら……”思いながら目を閉じる。
「世界をフェールセンの手から解き放ったか、子供」
 目を閉じてどれ程経ったかは解らないが、ミゼーヌの足元から声が聞こえた。
「……っ! あ……ジェ、ジェダ……」
 老境にさしかかったミゼーヌは”子供”が誰なのか解らなかったが、声のした地面を見て驚く。
 その驚きのあまりに、腰が抜けて地面にへたり込む。
「勝手なことをしてくれたな」
「あなたは何故、変わらない……」
 闇夜とは違う暗さを持ち、決して闇に染まらない赤い髪の男は、ミゼーヌが始めて見た五十年前と何一つ変わらない。
「オーヴァートから聞いていないか?」
「詳しいことは聞いていません。ただオーヴァート様はあなたの事を《眠る魚》と評していました。それが何なのかは私には解りません」
 その言葉にジェダは顔を歪めて、溜息とも侮蔑ともつかない笑いにも似たような声を吐き捨てた。
 地面に座り込んでしまったミゼーヌと、それを見下ろすジェダ。
「貴様が最後ならば、殺させてもらう、子供」
 ジェダは左手を振り上げてミゼーヌに落とそうとしたその時、誰かが手首を掴んだ。
「もしもし」
「誰だっ!」
 ジェダは身をよじり振り返る。
「初めまして、ジェダ。エルスト=ビルトニアと言います。伝言持って来ました」
 振り返ったジェダの鼻先には、どこかにやる気をおいてきたような男がいた。
「エルストさん!」


かつて見たと信じていた、あの窓の向こう側の空のような青さ


「私は貴様が嫌いだ」
 ジェダはエルストの腕を振り払う。無理矢理振り払われた手をさすりながらエルストは誘う。
「嫌われている自覚は、ずっと昔からありましたよ。さて、もう眠りましょうよ。塔の中ではなく、広い世界で」
「眠る前に、あの女に会いたい」
 雲の切れ間から差し込む月明かりの下、ミゼーヌは闇夜と境が解らなくなるほど深い赤い髪と、薄すぎる程の青い瞳を見比べて、ヤロスラフを思い出していた。
「行きましょう、ここにはもうドロテアはいないんですから。一緒に行きましょう」
 エルストが言いながらジェダの肩に手をかけ、行き先を指差すも、直ぐに払いのけられる。
「気安く触るな」
「気が利かなくて、申し訳ありませんねえ」
 ジェダはエルストが指差した方角に向かって歩き出す。
「さよなら、ミゼーヌ。またね」
 エルストはミゼーヌに手を振り、ジェダの後をついて歩く。
「あ、はい……また……」
 何が起こったのかいま一つ理解できないミゼーヌは、真白な頭で呆然と二人の後姿を眺めていた。
 そのまま消え去るのだろうと思っていたのだが、突如ジェダが足を止めて振り返らずに声を張り上げる。
「子供!」

 ミゼーヌはこの時、震えるほどの寂寥感を感じた。老境にさしかかろうとしている自分を、いまだ子供と言い続けるジェダ。それはドロテアを永遠に「娘」と言い続けたオーヴァートに似ていた。

「はい?」
「礼を言う」
「え?」
 フェールセンに囚われ続けた男は、それを完全に捨て去った《人間》に最後の言葉をかけてこの世界から去った。
 この世界を作った別の世界の《皇帝》によって作られた、この世界だけで作られた男はこの世界から去った。
 世界はもう一つの世界と長い年月を経て融合を果たした。《融合》の事実を知るものが全て地上から去ったとき、それが融合の完成。


 この世界は庇護者を失い、自ら矢面に立ち全てを乗り越えてゆかなくてはいけない


 ジェダとエルストが消え去っても、ミゼーヌは動くことができないまま二人が消えた空間を眺めていた。ジェダの言った”礼”が何を指すのか? ミゼーヌには解らなかったが、ジェダのその一言で世界を手放したことに関する胸の痞えは消えた。
「大丈夫か? ミゼーヌ」
 ミゼーヌが戻ってくるのが遅いと探しに来たグレイは、墓の前で座り込んでいるミゼーヌに駆け寄った。
「グ……グレイ」
「俺たちも年なんだから、転んだりしたら大怪我すんだぞ。ほら」
 夜半に屋敷から抜け出したミゼーヌが向かう場所は、オーヴァートの柩が埋葬された場所しかないと解っていたので悠長に構えていたが、中々帰ってこないので気になって見に来たら、ミゼーヌが驚愕の表情を浮かべて座り込んでいたことにグレイは慌てた。
「ごめん……ごめん……」
 立ち上がったミゼーヌは周囲をキョロキョロと見回す。
「どうした?」
 夜警以外の気配のない場所で、何を探しているのだろう? 何か落としたにしては視線が高すぎるなと思いながら同じような視線で周囲を見回しながら尋ねると、
「エルストさんに会った」
 探したくなるような言葉を、呆けたような口調で語った。もう居ないことを知りながら、グレイも周囲を見回す。
「あの御仁のことだから、変わったところなんざなかっただろ」
「ああ。あの……グレイ」
「どうしたミゼーヌ。どっか痛むのか。年取ると体硬くなるから」
「そうじゃなくてさ。あのさ、グレイはみんなの絵を描いたけど、どうしてエルストさんとドロテア様の絵を描かないの?」
 画聖と呼ばれるようになったグレイは、大戦に参加した者達の絵を描き、それらは誰でも無料で立ち入ることの出来る帝国の美術館で鑑賞することができるようにした。
 グレイは自分の絵を売ることはほとんどなく、請われて肖像画を頼まれた際には相手が怯むような高額で“やっと”そして”渋々”と引き受けたが、それ以外の自分の心の赴くままに描写した絵は全ての人に自由に、そして気楽に鑑賞してもらえる道を選んだ。
 “こんなことが出来たのも、オーヴァート様や女帝様のお陰だけどなあ”
 寛大にして強大なパトロンを持った、歴史を直接見て、描く機会を得た画聖。女帝の夫を“兄貴”と呼び続けた画家は何の制約もなく絵を描いていた。
 だが彼には彼にしか解らない制約があった。その制約とは《才能》
 見たものは全て描くことが出来ると言われたグレイだが、描けなかった人もいる。その一人がヤロスラフ。
 グレイはヤロスラフを描くことは出来たが、色を完成させることができなかった。試行錯誤したせいで、グレイの描いた絵の中ではヤロスラフ=エールフェンのラフスケッチは最高枚数が残ったが、そのどれもが瞳の部分で失敗していた。
 ヤロスラフを知らない人々には何の失敗にも見えないが、グレイにはどうしてもその瞳の色が気に食わなかった。色と言う色を調合して、その色を作り上げよとしたが悉く失敗し続ける。
 過去の一度だけ、ミゼーヌと深酒をして、酔っぱらいながら、どう調合したのか全く覚えていない《紫》が出来上がる。その色だけがグレイにとってヤロスラフの瞳を塗ることが出来るに値する色で《ヤロスラフ》を完成させることが出来た。
 その絵が完成した頃には既にヤロスラフはオーヴァートの元には戻ってくることなく、ミゼーヌもグレイもオーヴァートにその所在を尋ねることはなかった。
 その為当初は、オーヴァートにこの絵を見せるかどうかを悩んだグレイだが《瞳の色》はこれで正しいか? 知りたくて、思い切ってオーヴァートにその絵を見せた。
 オーヴァートはその絵に対して、正しいとも違っているとも言わなかったが《皇帝》は微かに笑い、エールフェン選帝侯の遺産の全てでグレイから《ヤロスラフ》の絵を買い取った。
 グレイが唯一完成させることができたヤロスラフ=エールフェン、最後の選帝侯の絵。だが描いた本人もオーヴァートに買い取られて以降、一度も見たことはない。グレイは先ほどまで遺品の整理を行っていたが、オーヴァートの持ち物の中には絵を見つけることは出来なかった。
 ヤロスラフの絵が見つからないことにグレイは苦労して、そして偶然に描けたヤロスラフが、オーヴァートにとって本物に近かったことを、やっと自分で認めることができた。
「描かないんじゃなくて、描けなかっただけだ。今でも描いている、でも描けやしねえ。あのヤロスラフ様の目の色を作り上げるより難しい」
 グレイはその後も絵の具を調合したが、未だにあの時の《紫》と同じ色は作り上げることが出来ないでいる。
「そんなに難しいの?」
 そのグレイの苦労を知っているミゼーヌは驚く。
「女帝の姉様はどんなに描いても、描いても足りない。足りない分を色で補えるかと想って塗ってみても足りない。全部の色を使っても足りない。この世界は女帝の姉様を描くには色が足りない。あの人はこの世界に存在する色では描ききれない。そしてエルストの御仁だが、キャンパスに一本でも線を引くと違う。あの御仁は描けない、あの御仁を描く線一つすら引けない。俺には女帝の姉様は見えるけれど、あの人は描くことすら出来ない。世界には決して人間には描けない存在がある。それがあの二人だ」
 ヒルデガルドと瓜二と言われるドロテア。グレイにとって姿形は似ていても、二人が世界で纏っていた色は全く違っていた。そしてエルストは、思い出そうとすればする程に、思い出せなくなってゆく男だった。
「そうか……」
「いいじゃねえか。俺なんかが絵にするよりも、たくさんの人が書き記している。俺はそれを読むのが大好きだ」
 エルスト=ビルトニア。それは見た者が描がく男ではなく、見たことない者が想像して書くし事しかできない男。グレイのスケッチには《エルスト=ビルトニア》は一枚もない。あるのはドロテアが持っていた懐中時計のスケッチだけ。

 それがかろうじて、世界にエルスト=ビルトニアの存在を後世に伝えた。

「そうだね」
「お前も書き残したらどうだよ。お前だけが知っている女帝の姉様と御仁とかあるだろう?」
 皇帝の大寵妃のヒモ。無職でフラフラしていたところを学者に拾われた、根無し草。
 ギャンブルはあまり強くなく、酒は強いが酔っても元々酔っ払ったような性格なので、酔っていたのかもしれないが誰も気付かなかったのでは?
 見事に真実しか書かれていない男だが、それ以上のことは誰も書いていない。書かれようが書かれまいが、気にするような男ではないが。
「そうだね……総学長の座から退いて、それに着手してみようかな」
 時期的に近付いてきた雨季の水を含んだような夜風に吹かれながら二人は帰途につく。
「おう。タイトルは何にする」
「……何がいいかなあ」
「あっ! ……の男達! いや、ダメだ」
「何が?」
「ん……女帝の姉様を書くなら、関わった男も絶対に書かなきゃならなそうだから“ランシェの男達”が良いかと思ったけど、それだとあの御仁、他の有名処に隠れちまうんだよなあ。女帝の姉様の男は絢爛豪華だからよ」
 その言葉にミゼーヌは立ち止まる。
「ああ、それの逆にしよう」
「逆?」
「エルストさんのたった一人の女性。そう“ビルトニアの女”ってどうかな?」
「いいねえ。“女”ってのが、あの女帝の姉様らしくていい。女神様やら聖母様やら、魔女でもなく女性でもなく“女”。これ以上ないほどに似合ってる」
 それは決して女の性ではない、母性も捨て去った。
 だが確実に男にとって女であった《女》
「さて、じゃあタイトルに負けないように書けるように努力してみますか」
 すれ違う夜警団に会釈をして、二人は家へと戻った。

 かつてトルトリア王国と呼ばれていた頃“時を刻む棺”があった場所。
 そこにはドロテア=ヴィル=ランシェの黒い手甲が柄を握った形で、エルスト=ビルトニアの使っていた風のレイピアが大地に突き刺さっている。それを取り囲むように埋葬された十二人の人々。

 その影が、日時計になると気付いたのは誰だったか?

 12時をさす場所には アレクサンドロス。1時をさす場所には ヒルデガルド。2時をさす場所には ビシュア。3時をさす場所には グレイ。4時をさす場所には ミロ。5時をさす場所には マリア。6時をさす場所には オーヴァート。7時をさす場所には ミゼーヌ。8時をさす場所には クラウス。9時をさす場所には エセルハーネ。10時をさす場所には レクトリトアード。11時をさす場所には セツ。

 日時計はこの世界が存在するかぎり、そこに影を落とし続けるだろう。あの女の見下ろす美しい横顔のような影を ――



第二十章
終わりから始まりに向かう世界へ【完】




現に残る女帝の肖像画に似たると言われし、かの女
その存在は真実か伝説か、それとも書いた男の夢か?
帝国にあり、帝国になき女
ビルトニアと共に人々の歴史を支配する


女神の記述




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