心の機微の変化など解らない。それがどういった仕組みなのかも判明していない。ただの偶然だったと解釈すると楽だろう。
アレクサンドロス=エドの棺が発見されたとき、クナは完全に独り立ちした。
「痣」が反応したのかもしれない。
ではハルベルト=エルセンの棺が発見されるために必要な物な何であろうか?
「そうだな。余は……なにがあろうとも国王だ」
マクシミリアン四世の独り立ちだったのかもしれない。国王としてではなく、一人の人として。
確かにクナとマクシミリアン四世を比べたら、前者のほうがずっと楽な立場にも思えるが、後者は自分の生き方で苦労したとも言える。
その日の午後、棺は見つかった。
「エルストさん! 見つかったんですか!」
昼食後にモイの家に世話をしに行っていたヒルダやマリア、イリーナやザイツたちが声をかける。
「見つかったよ」
エルストはレクトリトアードとセツが担いでいる棺を拳で軽く叩く。
その日は刻一刻と迫ってきているのだが、
「お祝いになにか食べたいものとかありますか! あったら作りますよ」
「久しぶりにギュレネイス料理なんてどうですか! 私つくりますよ」
「イリーナの料理まずくはないけど、人に勧めるほど……」
あまり深刻さはなかった。無理をして深刻にならないようにしているわけでもなく。
**********
オットーはマクシミリアン四世が国からいなくなれば、自分を持ち上げる声が上がると信じていた。だがそのような声は上がらず、むしろクナに国を任せてエヴィラケルヴィスに不自由な体ながら向かったことに、民は尊敬の念を募らせ王の無事を祈るようになった。
祈る場所はクナの傍で、それは日を追う毎に大きくなってゆく。
オットーははっきりとした”現実”に焦りを覚えた。誰も自分を見ないことを突きつけられたとも言える。
オットーの自信の理由は、トリュトザ侯とフィアーナにあった。トリュトザ侯はすでに打診していたのだ。
他国の者が自分の価値を理解しているというのに、自国の者たちは自分の価値を理解できないのか? オットーは苛立ちを募らせた。
募った結果、クナに目をつける。もともと「王女」のクナの利用価値などを考えていたが、容姿が好みではないことで放置していたのだ。
クナの方がオットーよりも年上。それにクナは美人でもなければ、美容に気を遣うような性格ではない。磨けば美しくなるというような容姿でもなければ、クナ自身そんな夢はすっぱりと捨てている。
”あんな女を使わないでも”とオットーは思っていたのだが、民の自分に対しての関心と敬意の低さに焦り、王女であり評判の良いクナを使おうと近付き始めたのだ。
クナは視界に頻繁に入るようになったオットーのことを、ヘイドに調べさせた。
「調べるって具体的に……」
「噂話でよい。集めてこい」
言われた通りヘイドはオットーの評判を聞き、クナへと届けた。芳しい評価はないに等しい。唯一の「肉体の強さ」も自らの欲望を達成するためにだけ使われているような状態。
「このような輩でも取り巻きがおるのじゃなあ」
オットーが取り巻きと共に殺したと言われる人の数も、相当なものだった。ただ殺したと言われているだけで証拠がなく、やはり元王族となると取り調べを誰も率先してしようとはしないために野放しになっている状態。
表だって殺さないのは、マクシミリアン四世の怒りに触れると危ないということを理解してのことであった。
「十五人とは恐ろしいものじゃな」
これはマクシミリアン四世の耳には出来るだけ届かないようにする者、要するにオットーが次の王になるから……そう考えている者たちが必死に庇っていたのだ。
「はい」
「……」
「どうなさいまいました? クナさま」
「いやな。間違ったことと解っていながらも、人は思ってしまうものじゃなと」
「なにがですか?」
「オットーは下種と思う。じゃがドロテア卿は見事だと。殺した人の数では卿のほうが遥かに多い。人を殺した数が多ければ多いほど……解っておるのじゃが、なんじゃろうなあこの考え方は」
クナの気持ちをヘイドも理解できた。
ドロテアのほうが人を殺している。残酷さも遥かに上だ。ヘイド自身、自業自得とは言え酷い目に遭った。だがそれでもオットーのほうが悪く感じられた。
ドロテアもオットーと同じく自らの為だけに人を殺している、それも桁が一つどころか二つも違う程に。卑怯さでも残酷さでもドロテアの方が上だ。だがオットーよりも立派に感じられ、そう見えるのだ。
ヘイドですらそうなのだから、ドロテアの世話になったクナの気持ちは言うに及ばず。
「気持ちは分かります」
「これ程葛藤せねばならぬとは」
ドロテアの方がより悪であり、認めてはならないのだが、その姿が美しくクナの脳裏に映る。
「妾もまだまだ修行が足りぬな……だがルクレイシアの気持ちが少し解るようじゃわ」
セツに対し愛情を抱くルクレイシア。なぜあれ程までに残酷な男に恋い焦がれるのか?
「クナさま」
「理性ではどうにもならぬものが……あるのじゃなあ」
良心を蝕み麻痺させる存在というものが心に住み着くということ。そして自らの心にも住み着いてしまったこと。ドロテアという稀代の悪を払うことはできず、共に生きて行くこと。
「妾は悪に魅せられる者の気持ちを理解し、それで尚導けるよう努力してゆく。それが妾の聖職者とてではなく、人としての生き方じゃ……当たり前のことじゃが、気付くまで時間がかかった」
散らぬ美しい悪を、もう二度と会うこともないドロテアを胸に抱き、クナは生きてゆく。
その日の夜のことだった。
女子修道院に戻り食事を終えてクナは部屋へと戻った。昼間のドロテアに対する感情で乱れた心を落ち着かせるために聖典を開き読み進めていた時、部屋の外が騒がしくなったことに気付きドアを開いた。
「何事じゃ……」
修道院の高く暗い天井に人が飛んでいるのを見て、クナは呆然とした。力無く背中から落下し廊下に置かれていた木造の棚を壊した人物がゲルトルートだと気付き、何事かと周囲を見ると廊下の先にはオットーと取り巻きたちがいた。
暗い廊下に立つ男たちに身の危険を感じたクナが、叩き付けられたゲルトルートの容態も心配で、部屋を後にした。
クナよりも先にゲルトルートの傍に到着したオットーたちは嘲笑う。
顔が拉げて鼻血を出し、口から泡を吹いて痙攣しているゲルトルート。
「黙って通せばいいんだよ」
「この役立たず!」
倒れているゲルトルートの顔を踏みつけてはオットーたちは嗤う。悍ましいというのはこういうことかと。クナはその悍ましさに恐怖するよりも怒りを覚えた。
「何をしておる」
「初めてお目にかかります。私の名前はオットー」
「主の名前など興味はない。その女子に怪我をさせたのは主で間違いないな」
「その女が立場を弁えなかったので」
「どのように立場を弁えていなかったかは知らぬが、大の男が女子の顔を拳で殴り陥没させるのは、立場を知らしめる云々以前の問題じゃ」
クナはしゃがみ込み、通路でオットーたちを阻もうとしてくれたゲルトルートの治療にあたる。怪我その物はクナの力で簡単に治せたが、ショックなどは簡単には排除できない。
「いや、それは……」
治療を終えて立ち上がると、通路の先に見覚えのある姿。この女子修道院院長。
その姿にここに自分とゲルトルートがいることを告げたのが彼女であることを理解した。
だが今は修道院院長ではなく、目の前にいるオットーとその取り巻きを引き下がらせる必要がある。他の誰の力でもなく、クナだけの力で。
「後ろにいる従っておる貴族共。女子供に対し容易に手を挙げて大怪我をさせて、悦に浸るような男を仰ぐのは自由だ。だがこの男がもしも国王の座に就けば、貴様等の妻子や身内の婦女子が、この暴力の対象になる可能性もあるのだぞ。国王でもない、お情けで生かして貰っている犯罪に連座している者の立場でこの傲慢だ、権力を握ったら何でもするであろうぞ」
「……きさっ!」
「オットー、主はこう言いたいのであろう? 年食った王女を貰ってやろうと言ってるんだ、ありがたく思え。とな」
―― 妾にも選ぶ権利はあるわ ―― クナは心でそう言い、笑った。内心で笑っていなければやるせなくて立っていられない。
「っ! あぁ……」
「表情に出過ぎじゃよ。王たるもの、表情に感情を出してはいかん。その点、あのエルセン王は合格点じゃな」
「……」
「王に仰ぎたくば仰げ。その結果、貴様等の娘が襲われて失禁し、鼻血を流して震えても、笑顔でいるのじゃぞ。貴様等がオットーの行動をエド法国に訴えたとしても、何の懲罰も与えてやらぬからな」
「……」
「貴様等にオットーを制することはできぬ。オットーは貴様等の血縁だからといって特別扱いはするまい。むしろ貴様等が何らかの失態を犯せば、娘を差し出せと命ずる。娘が欲しくば貴様等を陥れて、失地回復の材料に娘を手に入れる。違うと言い切れるのならば、言い切れ。そして王に仰げ。妾は全力を持って貴様等の訴えを排除してやる」
ゲルトルートを殴り飛ばしたオットーの血の付いた拳に力がこもる。
**********
クナが夜修道院に身を寄せている時、ヘイドは街の宿屋に宿泊していた。料金などは全て主であるクナが持ってくれる。「下男を酷く扱うと妾の沽券に関わるのじゃよ」とクナは無傷の中級の宿と、近場の食堂に前金で確りと支払ってくれていたので、待遇が非常に良い。
それに酒を飲むことも禁じていない寛大な主なので、ヘイドは毎晩軽く一杯二杯引っかけて、宿へと戻っていた。
特にヘイドはクナがどこの修道院で休んでいるかは知らない。
朝、食事を終えて広場に出向きそこでクナから仕事を仰せつかり、夜はやはり広場でゲルトルートにクナを引き渡して宿屋に戻っているの状態。
当然ながらクナとゲルトルートがオットーに襲われている今も、気付くことなどなくほろ酔い気分で宿へと戻る途中だった。
街中を通り抜ける河に架かっている橋が見えた。何時もは暗くぼんやりとしか見えない橋が、今夜は灯りが灯されて輝いていた。周囲にも多数の人がおり、河を指さす。
「死んでるのかな……」
「……死んでるだろ」
不吉な言葉の断片で、河に死体が浮かんでいることが解った。一目で死んでいるとは解らない死体らしいと知ったヘイドは、悪趣味と恐い物見たさで明るく照らされている河を人混みに紛れてのぞき込んだ。
死体は横になっている状態であったため、ヘイドが見ることが出来たのは耳と顎の線、そして黒々とした豊かな髪だけ。
若い女だと解ったヘイドは人混みを通り抜けて宿へと急ごうとした時だ。
「ちょっと! あんた!」
「なんすか?」
「クナ枢機卿閣下が襲われたって!」
河の死体でざわついていた橋が、慌ててやってきた修道士の言葉に静まり返る。
「だ、誰にっすか?」
「誰とかはいい! ご無事だが、修道院を移るから荷物を運べ」
「へい! 案内してくださいますか!」
「ついて来い!」
ヘイドが走り出すと同時に、背後のざわつきは死体だけだった時よりも大きなものになっていった。
ドロテアたちに”鈍足”と言われたヘイドは、やはり速くはなく到着したときには既に修道女たちが荷物を纏めており、入り口まで運んでいた。
そう言えばここは男子禁制の修道院だったと思いだし、
「クナさまご無事でしたか」
「無事じゃよ。あの小心者、妾を殴れなんだ」
荷物を背負った。
入り口付近にやってきた院長にクナは無言で対峙する。怯んだ院長の替わりにと口を開く修道女。
「仕方なかったんです! オットーは院長のたった一人の姪御さんを」
オットーに脅されたと言おうとした修道女の口を指さして、
「黙れや。そして院長、妾は責めはせぬ。だが恥よ」
クナは修道院そのものに背を向け歩き出したのだが、荷物を背負ったヘイドが動かない。
「どうしたのじゃ? ヘイド」
「……さっき橋で河に死体が。若い娘さんだったんすけど……なんか耳の形が似てるんすよね。院長さんと」
「……然様か。ゆくぞヘイド。お主の見立てが本当であれば、後から連絡がくるであろうよ」
向かう途中ですれ違った警邏。
徐々に遠ざかるクナたちと修道院長。なにかを見て崩れ落ちた院長の姿があった。
「なにがあったんすか? クナさま」
「オットーが妾を妻しようとした。院長を脅して妾が滞在したら連絡するように命じたようじゃ。取り巻き共と修道院に入り込み、阻止しようとしたゲルトルートを殴り飛ばした」
「……」
「そんな男に求婚されるとは思ってもみなんだ。妾も結婚など諦めた年じゃが、あれは……」
「これから何処へ?」
「ゲルトルートの屋敷の方へ。男女とも立入自由じゃが、男子禁制でも入り込んでくるのじゃ。禁制であっても無意味じゃろうて」
「じゃあ、あとで宿を引き払って自分の荷物持って来ます」
「要らぬ。息抜きに宿で休め」
「いや……ほら、恐いですし! クナさまは屋敷で誰が警備を?」
「ゲルトルートの護衛たるノイベルトじゃ」
「私も警備してもらいたいので! 是非」
「では荷物をまとめてくるがよい」
**********
あの時、もう半日早く聖騎士たちがエルセン王国に戻ることができていたなら、どんな結末になっていたのだろうか?
―― 言っても仕方のないことじゃがのお ――
クナはその思いを胸に、エルセン王国を去った。
**********
騒ぎに呼ばれて現れたノイベルトの姿を見て、オットーたちはすぐに逃げ帰った。特例を敷くわけにはいかないので、クナは修道女たちにゲルトルートを運ばせた。
怪我の治療は終えていると告げ、そのまま屋敷へ戻るように命じたが”大恩ある陛下より閣下の護衛を”と言われたため、荷物をまとめて屋敷へと向かうことをクナは確約し、先に行かせた。
ヘイドはクナの荷物を置くと、宿屋へ自分の荷物を引き上げるために大急ぎで帰った。もう酔いはすっかりと覚めている。
「怪我をさせて悪かったな」
「いいえ」
クナはソファーに座り、ノイベルトは膝をつき頭を下げた。
「妾は聖騎士たちが戻って来るまで屋敷から出ぬから、安心してゲルトルートを守れ」
「……ありがとうございます」
「妾の部屋は何処じゃ? それと下男にも部屋を与えてやってくれよ」
クナは一時期マクシミリアン四世が避難していた部屋に通されて、
「虚勢を張るのも大変じゃ」
震えている足を手で何度も叩き、硬直した体を行儀悪くベッドに投げ出し、着替えることもせず、祈りを捧げることもせずに意識を失うように眠りに落ちた。
―― 無力であるな……
翌朝クナが目を覚ますと、聖騎士たちが戻って来たと教えられた。
クナはパーパピルスからの連絡で、マクシミリアン四世が無事に到着したことを教え、
「休ませたいところじゃが、諸事情があってな。このまま警備についてくれ」
彼らを労りながらも、仕事を続行してもらうことにした。
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.