ビルトニアの女
レクトリトアード【3】
 ”遊んでいかないのかい? 紹介するようにランドの手紙に書かれてるんだけどね” 女将の言葉に二人は、ありがたく辞退してエルーダを去った。
 闇の帳が降りた時間は、花街が艶やかに彩られる時間でもある。夜の花街を表現するのに享楽や頽廃と言うことが多いが、この街という閉ざされた区画にあるのはそれだけではない。世界を切り裂くような存在や、大陸を動かす欲望があり、誰も知らないに等しい 《陰謀》 がある。
 客を招こうとする娼館前の炎。その炎に誘われるもよく、焼かれる者もいるだろう。歩むための明かりが欲しいと火を分けて貰う者は、珍しいかもしれない。
 二人は少し離れた所から、大陸一とも言われる娼館を見た。それは敵の襲撃を警戒する要塞のように、低い位置には窓はなく、あったとしても高所ではめ殺し。開かない窓の向こう側にいる 《一流の娼婦》 彼女達は空虚な昼、青空の下を自由に空を飛ぶ鳥をみることはあるのだろうか。

「ビシュアはどこかに行く?」
「いや。何処にも寄る気分じゃないな」
 このまま帰るといったビシュアに、エルストは聖典を差し出し、
「持って帰って報告してくれる?」
 手の上に置くと、さっさと背を向けて宵の街へと消えていった。
 一人取り残されたビシュアは、手に持った聖典に力を込めて、肩を落とした。
「報告って、あんたの女房じゃあ……」
 ”旦那は花街に消えました” と言わなければならない他人の身にもなってくれよと思っていると、立ち尽くしているビシュアに怪訝な視線を向けてくる者が視界に入ったので、大急ぎでその場を後にした。


 足下に潜む下水に流される、不必要な胎児達。その存在を知らなければ不快も恐怖も覚えない。その存在を知った時、不快に思ったか? 恐怖に思ったか?


 法王庁に戻って来たビシュアは、セツの前に座らされていた。
 途中でホレイル帰りの騎士達と遭遇し、そのまま同行し法王庁に入り……気付くとセツの前に座らされていたのだ。
「もう少しで仕事は終わる。そうしたならば、共に向かうぞ」
 どれ程難しい書類に目を通しているのかは解らないが、敵を睨み付ける眼差しその物で書類に書かれている文字を追い、次々と指示を書き込んでいるセツの姿をビシュアは出来るだけ見ないようにと思いつつ、どうしても先ほど聞いた事柄が頭に思い浮かび、セツを見ては脳裏に ”レクトリトアード” を思い出してしまう。
「片付いた、行くか」
 遠目にも上質と解るペンを少々乱暴にペン立てに放り込み、セツが立ち上がる。絹の触れ合う音の鋭さに促されて立ち上がり、懐に隠している聖典を服の上から抱えるようにして、その後ろを付いていった。
「あの人は?」
 セツの部屋以外は、ドロテア達が以前訪れた時と変わらない、床は下手な鏡よりも磨かれて、上を歩く人の姿を映し、壁にかかるタペストリーや絵画は寸分のずれもなく飾られている。
「あの女、今は法王の間にいるそうだ。さっきまでは、封印されている罪の噴水を調べていたようだが」
「立ち入って良いんですか?」
「人に聞かれては困る話のだろう。それは ”直接聞いてきたお前” がよく知っているのではないか? ビシュアとやら」
 セツはそう言い、ドロテアと似たような見下しの視線をむける。それは不快とは違う視線。
 ビシュアは無言になり、意味もなく腹の辺りに隠している聖典を抱き締めるが、そうすると余計に気分が悪くなる。
 ここがエド正教の、多くの人々の拠り所である宗教の聖なる場所だとは頭で理解しているが、どうしても空々しく感じられてしかたなかった。
 ホレイル王国でヒルダの聖典を読んだ時の安らかさなどとは縁遠い、殺伐とした空気に、言いようのない寂しさと、伝えようのない悲しさを感じながら、法王の間へと足を踏み入れた。
 うち捨てられた僅かな本しか残っていない棚に囲まれた部屋で、ドロテアは床に座り残っていた本を脇に積んで、その一冊に目を通していた。
 セツとビシュアが入ってきても、気付いているのに顔を上げることもなく声を掛けようともしない。
「あの……持って来たぜ」
 ビシュアは懐から取り出した聖典をドロテアの眼前にさらす。
 後ろに立っていたセツは、その紋を見て眉を顰めながら、
「シュキロスか」
 心当たりのあるエルセン王族の名を口にした。シュキロス、それはエルセン王族出の法王だった人物。
 罪の噴水の水を口にして、焚書坑儒を行った法王。
「違う。その従兄弟のカルマンタンのだ。野郎、何冊も持ってたんだな」
 ドロテアはビシュアに聞いてきたことをセツに告げるように言い、自分は持ち帰られたカルマンタンの聖典を頁を流し読みし始めた。
 歯抜けの本棚とパラパラと頁が捲り続けられる音。
 その音がビシュアを ”早く言え” と追い立てる。音に追い立てられながら、出来る限り感情を配して、女将の言葉をそのままに近い形で語った。
 少々変えたのは、語尾など特徴的な女言葉の部分だけ。
 そして、エルストが出した答えは語らなかった。女将から聞いた事ではないので、敢えて語ることを避けた。
 セツは自分に子供がいるらしいことをビシュアから告げられたが、特に驚くでもなく慌てることもなく黙って聞き終え、そして無言のままだった。
 表情や雰囲気からも、驚いて声がでないや困惑している、或いは言うべき言葉を考えているようなものではなく、ただ現実を受け止めて ”だから?” という、無関心に近いもの。
 ドロテアは目を通していたカルマンタンの聖典を両手で、大きな音を立てて閉じ立ち上がる。亜麻色の髪の美女は、自分より背の高い男を見上げた。
「珍しく、見下してはいないな」
「見下す必要もねぇからだ」
 空気が孕むのは緊張ではなく、毒。それも見えない程高い天井から雨のように降り注ぎながら広まってゆく。
「それで、俺の子がどうしたと?」
「手前の息子はレクトリトアードだ。生きてるレイだ」
 セツは不快さを感じたような表情を作ったが、それ以上なんの反応もなかった。ドロテアにも、セツが驚いたようには感じられなかったが、内心までははっきりと解らない。
「だから?」
「否定しねぇんだな」
「あの場所で肉欲を昇華させた代償に、下水に放り込まれる胎児がどれ程いることか。俺がその一人であってもおかしくはない」
 その言葉を聞き、ドロテアは先ほどの女将と比べようと誰も思わないだろう 《微笑み》 を浮かべて、手に持っていた聖典を床に叩き付ける。
「手前のそういう所、嫌いじゃねぇぜ」
「だが貴様は、嫌いではないだけであって、好きではないんだろう?」
「俺に愛して欲しいか?」
 ドロテアという女の性格を知らなければ 《この女の本質》 は斯くも幽で繊細なのだろうと思わせる微笑みとを前にして、
「冗談。貴様に愛されるくらいなら、チトーの手を握って愛語ったほうがマシだ。……それで、何の意味がある?」
 セツは笑い飛ばす。
「意味の説明は、アードとクレストラントにさせる……おう、ビシュア。聞きたかったら残ってても構いはしねぇが、興味がないなら部屋に戻って寝ても良いぜ。ま、これから出かけてきても良いけどよ」
 ”花街で俺の亭主に会ったら、伝えたって事を教えておけよ” 笑いながら言われ、頭を振りながら部屋を後にした。
 ビシュアが法王の間を去った瞬間に、部屋は静寂さに包まれる。
「あの男、口止めは」
「さぁね。口止めしたかったらすりゃあ、良いだろ? 俺には全く関係のねぇ話だからな」
「そうだったな……話を続けるか」

 床に叩き付けられた聖典は、最後の焚書となる。そう、全てが語られた後に燃やされ、その灰は封印を解かれた罪の噴水だった 《穴》 に捨てられた。

 法王の間を出て、割り当てられた部屋へと向かう途中で、ヒルダに出会った
「ビシュアさん。夜遅くまで? 法王庁の見物ですか?」
「夜遅くって、あんたも……」
 ヒルダは、奉仕活動に向かった先で、神学校時代の同期生と再会して、
「気が付いたらこの時間ですよ。女はお喋りが好きですからねぇ」
 ”いやあ、喋り始めたのは昼前だったんですけどね、この有様ですよ” 言いながら顎に手を当てて首を傾げるヒルダに、思わずビシュアは笑ってしまった。
 だがその笑い声も直ぐに途切れ、疲れたような溜息をつく。
「どうかしたんですか? 悩みでもおありでしたら、このエド正教司祭の私が聞きますよ。そういう仕事というか、役割もあるんです。司祭から出来るんですけど、司祭になってからこの方、人を殴ったりドラゴン倒しに行ったり、お城壊れたりで全くする機会がなかったんで。どうです、私の実験台になりませんか?」
 力強く変なポーズを取るヒルダに ”暖かみ” を感じ、話を聞いて貰うことにした。
「じゃあ、お願いするわ」
 それは罪の告白ではなく、過去に対する贖罪でもない。
 はからずも聞くことになった他者の秘密。それを金や権力に変えようと考える者もいるかもしれないが、ビシュアは違った。
 聞いた事により、知った事によりのし掛かる事実の重さに ”助け” を求めた。
「弱いんだろうなと」
 中央に仕切りのある箱のような場所の内側で、側面に背をあずけて向かい側にいるヒルダの側を見ずに語り終えてから呟いた。
「弱いわけではありませんよ。むしろ強いからこそ困るのでしょう。貴方が慈悲深いからこそ、優しいからこそ ”どうにかしなくては” と考え、それを出来ない身と知っているからこそ悩みが深くなるのです」
 その言葉を聞き、ビシュアはその閉ざされた場所から出た。
 同時にヒルダも出て来る。
「悩みは晴れましたか」
「一つ聞かせて欲しいんだが」
「なんでしょうか?」
「司祭、あんたはどうなんだ?」
 今自分が聞かせた秘密は、後日ヒルダが姉から直接聞くかもしれない。
 その時どのような対応を取るのか? どう感じるのか? それを尋ねると、
「気にしませんよ」
 気負うことなく答えた。
 その表情にビシュアは後退る。恐ろしいのではなく、その笑顔は先ほどまで自分の目の前にいた ”ドロテア” によく似ていて、驚いたのだ。
 後退った後 ”姉妹なのだから似ていてもおかしくはない” 気を取り直して、後退った分よりも多めに前に踏み出す。
「気にならないのか」
「気にならないと言いますか、私は自分が何も出来ないことを知っているんです。今ビシュアさんから聞いたことも、ビシュアさんから聞いたことでしかないのです。これが当事者から聞かされたなら、少しは違いますが」
「どう違うんだ?」
「当事者に対して、自ら解決するように勧めます。でもね、ビシュアさんから聞いたのでは、私は何も出来ません。むしろ何かをしてはいけない類の秘密だと私は考えます。私は何も出来ません、だから気にしないのです。私は忘れます、忘れなくてはならないのです。もしかしたら、当事者に助けを求められるかもしれないからこそ、私はこの秘密を明日の朝には忘れています」
 二人は聖堂を出て、夜でありながら充分過ぎる明かりで照らされている廊下を歩き、与えられている部屋へと向かう。
 途中で ”もう良い” と言ったビシュアだが、
「迷子になったら困るので」
 ヒルダは部屋まで案内されてしまった。
 ”いい年した盗賊が迷子って……” 思わずにはいられなかったが、黙って案内されるのも年長者として耐えるべきだろうと、行儀悪くポケットに手を突っ込んで隣に並んで歩いていった。
「あっ! そう言えば」
 ビシュアはポケットの中に忍ばせていた ”慈悲の粉” が入っている瓶を取り出し、
「これを返したいんだが」
 ”できれば渡して欲しい” という願いを込めて差し出したが、受け取りは拒否されてしまった。
「それは姉さんに直接返して下さい。私が受け取って姉さんに渡したって、受け取ってくれませんよ」
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