ビルトニアの女
さよなら【5】
 一通りドラゴンの死体の側で笑った後、当初の目的を果たす為に還す祈りを再び唱える事にする。エドウィンの遺灰を取り出す。
「遠くイシリア本国から来た骨だ。これと一緒に行けば良い」
 最も日の強い日差しの下で、砂で汚れ白い骨をも被ったヒルダがゼファーに手を差し出す。透き通る、触れることの出来ない手をそれに乗せて、見た目だけは重なっているようにして
「お別れですね、兄さん」
【ヒルダ、お父さんとお母さんに“元気で居てね”と伝えて】
 言葉を交わす。

−だからヒルダはゼファーの生まれ変わりなんかじゃねえ!−
姉さんの言っていた事が正しい。
−ヒルダはヒルダ、ゼファーはゼファー! 別の人間だ!!−
そう、別の人間なんですよ。私と兄は……そう思わずにはいられない気持ちはありますが
−ヒルダだけを愛せばいいだろ!−

「はい」
 両親の元に帰り伝えよう、色々と。両親も姉も大好きだから。
【大きくなれなかったのが残念だけど、会えて良かった】
 グリフォードの前に立つドロテアを二人で見つめる。ドロテアが解除の魔法を唱える、長い事この姿でいたグリフォードは姿が元に戻ると死ぬ事を意味する。元々死ぬのは覚悟の上での行為であったろうが。
「会えて良かったぜ、グリフォード」
「ああ。ありがとう、頚木と使命と罪から解き放ってくれて、私だけではなく全ての咎人の」
「この二十二年間の平和はお前たちのお陰だ。……ありがとう」
 九本の指先の先端が光、それで宙に解除の魔法を書く。薄く儚い、咲いては直ぐに散るような花弁のようなその色の魔法がグリフォードに触れると、キィン! という音と共に『人ではない部分』が砕け飛ぶ。長くなってしまった、クセの強い黒髪と真赤な瞳。薄い唇と長い睫が印象的な顔立ちの青年というよりは、少年のような神父はドロテアが覚えている笑顔を再び見せて、その優しい口元が声にならない感謝の言葉を紡ぎ地面へと崩れ落ちた。
 頭蓋骨だけは離さず、抱きしめたまま誰にも振り返られることも、感謝される事も、褒め称えられることもなく絶大な使命を果たしたグリフォードは眠りに落ちた、永遠の。
「じゃあな、グリフォード」
 握り締めた腕から火の玉をぶつけ、グリフォードの全てを焼き払う。
 宝物殿の中に財宝と共にあった多数の骸骨。グリフォードは一人、外から扉を閉める役割を受け持ったのだろう。置いていかれた頭部を抱いて、一人だけ死だけの廃都で永遠に、その扉を開かせない為に身を落とし。実に二十二年間、熱波と死と盗賊とだけを相手に彼は生きてきた。理由も使命も忘れて、ただ一つあの日助けられなかった少年の頭蓋を抱いて。
 ドロテアは焼き払った死体の上に、玄色の小さな壷を開き、そこから遺灰を振りまいた。
「頼んだぜ、エドウィン」
 ドロテアが何を頼んだのか? それにエドウィンが答えたのかも解からない。ただ熱風に、未だ熱を持つ遺灰と既に冷たくなった遺灰が交じり合い飛んでゆく。

遠くに行きたかった男の骨よ
砂に舞え
身を変えてまで、守り続けた男よ
空に踊れ
“姉さん、さようなら”
“ありがとう、ドロテア”
“感謝しています、みなさん”
姉を助けて死んだ少年よ
空に踊れ

 それらの声が聞こえたような気がしたが、ドロテアは答えることはなかった。
「貴方が永久に安らげるのならば、私達はどれ程もの苦難を突き進みましょう」
 神よ死者を送る言葉だけは同じです
 人よどれほど争ったとしても
 死者を送る言葉は同じままにしておいて
「貴方が永久に安らげるのならば、私達は貴方の事を愛し続けるでしょう」
 全ての宗教の祈る言葉は変わっても、死者を送る言葉だけは同じ。だから、ドロテアがどの言葉で死者を送ったのかは誰にも解からないし、誰も聞かないだろう
「安らかに、安らかに」

 風に舞い上がった遺灰が視界から消えた後
「さてと……マシューナルに戻るか」
ドロテアが声をかける。
「賛成」
ヒルダが手を上げて答える。
「久しぶりに帰りましょうか」
マリアも当然ながら賛成する。
 最後にエルストが
「行こうか」
遅れて言った。

**********

「あたし……」
 逃げて苦しい生活をして、それでも生きてこられたのは、此処で残って倒せないまでも必死で封じ込めていた人たちがいたからだ。その人たちを助けたのは、ドロテア。腹を空かせ、惨めな憤りは何回も感じたけれど、今自分が感じているような無力感は初めてだった。治らないといわれる病気にかかっていると、神父が教えた時だってこれほどの無力感はなかった。
 そう感じたリドは、深く溜め息をつく。その呼気に混ざる血の味に、感じたことのない味が混ざっていた事に気付く。それは敗北や無力、そして自分に対する“何か”
「強いな、どいつもこいつも。同じ人間だとは思えねぇぜ」
 ビシュアの声に頷く。砂混じりのタイルの上を走る足音
「具合は大丈夫ですか? よろしければ、楽になる法力を」
 あの鬼気迫った中での会話を覚えていたヒルダ、楽になる術を軽くかけただけの事を思い返してリドの元へと来たのだ。言われたリドの方が、驚きビシュアや他の盗賊達と顔を見合わせて“ああ! そういえば!”と思い出し頷き、答える。
「もう、大丈夫よ」
「そうですか。そうそう、ゼルダ病って寒い所にいると駄目なんで、できるだけ暖かい場所で暖かい日差しを浴びて過ごしてくださいね」
 ゼルダ病とは、女性のみが発症する不治の病である。見た目で判断を下すのは難しいはずなのだが
「何で、解かったんだ?」
 ヒルダは病名を当てた。リドが病にかかってから、ビシュアも少しはその病について学んでいた。勿論一般的な症例と、効くといわれる薬草程度だが。
「姉さんが言ってました。いくら私であっても病が何かも知らない相手に、症例が楽になる術をかけるなんて無謀な事しませんよ」
「そうか。へぇ……」
「そういえば、もう二人くらい居たような気がするんですが?」
 辺りをキョロキョロと見回す。ヒルダはてっきり二人は違う場所へと避難したとばかり思っていた。何せ盗賊、エルストのように逃げ足が速いと勝手に勘違いして。
「死んだ。あのドラゴンに弾かれて」
「宜しければ、祈りますよ。エド正教でよければ」
「代金は」
「必要ありませんよ。それではビシュアさん! 案内してください」
「待ってろよ」
「へい、兄貴」
 ビシュアは二人が弾き飛ばされた、宝物庫付近へとヒルダと共に歩いていった。少々、ドラゴンから離れながら。動かないと解かっていても、避けたくなるのは人情というものだろう。
 二人が歩いていく後姿を眺めながら、リドは口を開いた。
「グレイ」
「なんすか?」
「行きなさいよ、折角絵描きになれるのよ」
 お節介だと解かっていても、折角のチャンスを潰させたくはなかった。結局自分は何の才にも恵まれなかった、恵まれていたドロテアだって事故とは言いたくはないような出来事でその才能を眠らせた。
「でも。来いって言われて直ぐに乗り換えるのは、不義理かな」
「馬鹿なこと言わないで行きなさいよ。そんな事言ってて、ローマン病なんかに罹ったら遅いのよ」
 ローマン病は男性のみに発症する不治の病である。ゼルダ病と対をなすように語られるが、実際は相当違う。その症例は……語っても仕方のない事なので、割愛しよう。
「リドさん」
「行きなさいよ。あんた、盗賊向いてないもの」
 リドは笑いながら言い放つ。その言葉の温かさにグレイは驚いた。グレイがリドと知り合ったのは、既に発病後の事なので態度は冷たかった。それが信じられない程穏やかな口調で、軽口のようにグレイに話しかける。何があったのかグレイには解からない。だが、もう一人生き残ったニルスも
「そうだよ! 行けよ。お宝の配分が増えて、こっちも願ったりだぜ」
「おう! ちょっと行って来る」
 ドロテアの歩いていった方角、宝物庫の方へと駆けてゆく後姿を見ながら
「帰りの馬車は寂しくなるわね」
「そうだな」
 リドとニルスはそう口にした。

**********

 ドロテアは内部にまだ魔物が潜んでいないかどうか? を確認する為にドラゴンが押し込められていた宝物庫に足を運んでいた。ドロテアも始めてみるのだが、外側から見たのと同じで、内側はただの四角い箱であった。窓一つない黒い金属壁の。全く飾り気がないのかと聞かれれば、首を振る。上部の方に、一定の幅の凹みが見えたのでドロテアが確認したところ、透かし彫りが施されていた。ドラゴンをも閉じ込めておける程の巨大な箱の周囲全てに施されている。誰が見るのか? 何の為にあるのかは解からないが。
 ドラゴン以外の魔物の潜伏はなく、動けなくはなったがまだこの場に止まっていた白骨を五、六個還し、それからゆっくりと辺りを見回す。
「建物自体には傷は無い。さすがドルトキアフェン選帝侯の固形金属なだけある」
 ドロテアがそれに似た黒い手甲で壁を叩くと、橙色の光が跳ね返ってくる。反響する音に、何処にも傷がない事が聞いて取れた。
「つまむと、ポロポロ崩れ落ちる」
 脇でエルストが、還した白骨死体を掴む。これほどの数を葬るには人手が足りないので放置したまま帰るのだが、せめて外に骨を出してやろうと掴むと簡単に崩れてしまいそれも出来そうにはない。
「身に過ぎた生命力を吸い込むとそうなる。人の執念ってのは大したもんだよ」
 言いながらドロテアは、大きな青い宝石を足で踏みつける。それはまるで硬度のない物のように、簡単に踏み潰される。
「高価なもんだったんだろうな」
 砕け散った青い宝石の粉を見つめながら言うと、ドロテアは
「恐らくブルーダイヤの、トルトリアの泉と呼ばれた逸品だ。目録で見たことがある」
 トルトリアの秘宝の名をあっさりと口にした。
「あ〜あ。可哀想にね、いろんな人」
 未だこの場に多くの宝が残っていると信じ、祖国再興を夢見る者達がいる事は有名だった。過去この国を統治していた一族とそれに連なる、偉い身分の人達が此処にあるだろう財宝を欲し、この国を再興しようとしている。それはただの欲のみで、全く実現性はなかった。
「そうだな、可哀想だな。此処にまだ、宝が残っていると想像して頑張ってる奴等」
「教えてあげないのか?」
「魔王倒して、ウィンドドラゴンまで倒しちまったら仕事なくなるだろ? 真の勇者様達」
「それもそうだ」
 そんな奴等の下らない夢を壊して、現実に引き戻してやる必要はない。永遠に、かなわない夢と在りもしない財宝の分け前に腹を立てて暮らしていけばいいのだ。
 箱の中には用はないと、出たところでヒルダがなにやら盗賊の頭と共に祈っている姿が目に入ってきた。
「律儀なヤツだ」
「どっちが?」
「盗賊に決まってるだろうが」
 モニュモニュと祈っている(ドロテアの視界)のを見ながら、二人が煙草に火をつけて口に咥えると、恐る恐るグレイが声をかけてきた。
「あの、スミマセン」
「あぁ? 何だ?」
「連れて行ってくれませんか、あのグレイって言いまして。絵を……」
「お前がグレイな……そこら辺の欠片拾って、俺が今作り出す魔法陣書いてみろ」
 そういうとドロテアは両手を丸くして、魔法としては複雑ではないが描くのに厄介な魔法陣を作り出す。グレイはそれを少しの間見ると、石のかけらを拾って砂の上にサクサクと描き始めた。描く順番などは、呪文通りではないのだが、描き上がったものは見事なものである。
「大したもんだ。で、許可は取ったのか?」
「連れて行ってやってくれ」
 祈り終わったビシュアが近付いてきた。ビシュア自体もグレイの盗賊の才はあまりこの先も伸びないだろうと踏んでいる。違う道があるなら、若いうちにそっちの進んだ方がいいだろうと。
「そうか」
「しっかりやれよ、グレイ」
「へい! 兄貴」
 そこまでは良かったのだが……
「ヒルダ! コイツ使って荷物載せろ!」
「来て下さい、グレイさん。姉さんに言われたら即座に動かないと大変ですからね。命が惜しかったら、即実行ですよ!」
 当人を目の前にして二度も同じ言葉を繰り返す辺りが、ヒルダらしい。
「へっ! へぇ!」
 数々の強さを見た生粋の盗賊のクセに、何故か絵が上手な世渡り下手な男は、転びそうになりながらヒルダの後をついて馬車の方向へと走っていた。
「あんまり、虐めないでくれよ。要領の良くない男だからな」
「知るかよ。貴様もちょっと長生きするんだな、十年もすりゃあ大陸有数の画家として名を知られるようになるだろ」
「……そりゃスゲエ、注意深く身の程をわきまえて長生きしてみるよ」
「精々長生きするんだな、あの女の代わりに」
「あんた、ドロテア……卿って呼ばなきゃならないんだったか?」
「いらねえよ、アンタで構いはしねえよ。訊きたい事はなんだ?」
「色々知りたいんだが」
「さっさと訊けよ」
「あのな、リドって本名か? 何か違うらしい事をどこかで訊いたんだが、理由とかわからなくてな。それとアイツがかかってる病気って、絶対に治らないのか?」
「まず、病気は治らん。あの肌の色からしてゼルダ病だろ? 女がかかる内臓の病で手はない。そしてリドは本名じゃねえ、トルトリアだけなんだろうが、幼い頃に親と死に別れた娘は名前を変えるのさ。知ってるだろ?“〜の娘”って名乗るのを。その娘の元になる父親が死んで、母親も死んじまったらもう“〜の娘”とは名乗れない。だから名前を縮める、さしずめ俺が名乗るとしたら……ドド? 格好悪ぃなあ。名前の最初と最後をあわせるのさ」
「じゃあ、あんたリドの本名知ってるのか」
「知らないとでも思ったか……まあ、昔は可愛らしい娘だったぜ、俺ほどじゃあないにしても。元々気の強い娘で、良く喧嘩してたな兄貴と、三人程いた記憶がある。あの様子じゃあ死に別れてるだろうけれど」
 『テメエなんか知らねえ』と言った割には、随分と覚えているようですドロテアさん。
「リドの本当の名前教えてもらえないか?」
「本人に訊きゃ良いだろ。じゃあな」
 そこまで言って、ドロテアは歩き出した。
「取り付くしまもねえ……」
 呼び止めようかと思ったが、どう考えても呼び止めたくらいで止まってくれる人ではないと思い直し、声を飲み込んだ。それにタイミングよく
「ああいう性格なんで」
 エルストが声をかける。
「あれは、あれでいい性格だとおもうぜ。あのくらい気性が荒くなきゃ、男が側に寄ってきて仕方ねえだろうしな。それでなくても寄ってくるみたいだしよ、俺は個人的に気の強い女の方が好きだ」
 何となく見れば解かりますよ、ビシュアさん。
 ビシュア達が望んだ品物は、殆ど残ってはいなかった。黒い箱の中には白骨と、硝子よりも脆くなった透明の玉が転がっているだけ。
「残ってる宝は僅かだけど、持っていかないのか?」
「閉じ込める為に、捨て身だったんだろうな……お前も盗賊だろう?」
「まあな。こんな遠くまで出向いて暴くほど甲斐性のない盗賊だけど」
「何で、この宝物庫の扉を開けようとしなかった?」
「特に欲しくないから」
 言いながらエルストは転がっている小さな箱を拾い上げた。
「その気持ちがなくなったら、盗賊としちゃあ、お終いだろ」
「かもね。それでも良いさ」
 眼鏡を外し、フレームから金属棒を取り出すと落ちていた小箱の鍵穴に差し込み、カチャカチャと音をさせる。直ぐに音は止まり、箱は抵抗なく開く。その中にあったのは、小さいながら高価な宝石。
「高値で売れる宝石だぜ、いらないのか? 病人と一緒だと金がかかるだろう」
 エルストが差し出したそれを、ビシュアは受け取る。
「そうか、ありがたく貰っておく。お前は必要ないのか?」
「ない」

四年ほど前に知り合った
荒んだ所もあるが、中々に綺麗な女
少し踊りが上手く、それで稼いで食っていた
病にかかったのは何時だったか?
俺と知り合う前から罹っていたのかもしれない
治らないと知ってからは痛々しかったが
多分俺だって同じようになれば、そうなるだろう

「気休めを言わないでよ! どうせ私、死ぬんだから!」
「次はトルトリアのエルランシェに行こうと思ってるんだが……一緒に行くか?」

あの時、その地で死を望んでいたような気がした
治してやれないのならば、そこに連れて行ってやろうと
それくらいしか出来ないからなあ

その焼き尽くすような強い眼差しに良く似た強い日差し。リドも、そしてあの女もそれを持っている。

「それじゃ、またどこかで会う事があるかもね、ビシュア……さん? かな?」
「同い年くらいじゃねえのか? アンタ……エルストだっけ?」
「そう」
「何か有益な情報があったら、届けるよ。ま、俺が掴める程度の情報じゃあ必要ねえだろうけど」
「期待してるよ」
 エルストがビシュアの隣を通り過ぎると、ニルスが走ってきた。ニルスに、宝になりそうなもん拾っておけと言いながら、ビシュアは話をしているリドとドロテアを眺める。

**********

 馬車で荷物を準備しているグレイとヒルダとマリアを脇目に、ドロテアは積んでいる金庫を開け、中から薬を取り出した。
「コイツをくれてやる」
 ドロテアが投げた壜をリドは反射的に受け取る。透明な白いビンにコルクで蓋を閉められている、そのコルク栓は厳重にゼリー状の糊で固められていた。
「何よ、コレ……」
 エド法国でハーシルが使った“慈悲の粉”の僅かな残りを集め、セツが管理をドロテアに任せたのだ。『お前ならば、的確に使えるだろう』と。
 目の前に出された壜を前に、リドは歯軋りをする。街の少し高級な薬屋でこうやって薬を売っているのをリドは知っている。薬を買うから、無駄でも買わずにはいられない。一時だけの、偽者の安らぎを得るために全ての稼ぎをつぎ込む。そしてそれを得るために、再び働く。その繰り返し、やめてしまえば良いと、何度思ったか解からない。
「慈悲の白い粉。治療不可能の不治の病で苦しむ人間の自殺に用いられる。一瞬にして死を迎える痛みもねぇし……ま、俺は飲んだことネエから知らねえけどよ」
 治らないのを知りながら少しだけ症状が軽くなる薬を買いに行き、治らないのを知りながら、誤魔化すだけの薬を店は売る。
「……いらないわよ」
 治りもしないのによく薬を売れるものね、とバカにしながらも。その薬を買いにいってしまう自分をもバカにしながら。
「そうか、なら売れよ。高値で売れるぜ」
 高値の花だった“慈悲の白い粉”庶民では買えないその薬。欲しかった、昨日までは、でも
「さあね。でも私は使わないわ、無様に血を吐きながら死んでいくわ、ギリギリまで」
 血色の悪い掌、紅が落ちれば紫に近い唇。濁った瞳、咳き込むたびに喉に広がる鉄の味、それでも
「それもいいだろう」
 もう少しだけ生きていようと思った。此処まで一人で生きてきたんだもん、最後まで一人で生きていくわ。
「私は貴女とは違うの。死ぬのが怖いから、悪足掻きしてもがいて死んでいくの」
 “次はトルトリアのエルランシェに行こうと思ってるんだが。行くか?”
 ビシュアの言葉に頷いた。あの暑さに耐え切れるかどうかは解からない、でもあの焼けるような暑さを感じたのは二十年以上も前。エルセンの涼しさも穏やかさも、しっとりとした雨よりも、あの暑さに懐かしさを感じる。馬車を準備してくれた、荷台に乗って幌の陰でその暑さを感じる。それは、覚えていたよりも大した事はなかった。体には堪えて、病気は悪化しているようだったけれど体調は悪くはない。
 一人で砂漠を逃げたあの日のほうが、よほど熱く苦しかった。
「そうか。テメエの死に様なんざ、俺には興味はねえしな。くれてやるから好きにしろよ……じゃあな、リリス=ラウセッド!」

死ぬのが“怖い”私と、死ぬのが“嫌な”貴女と
決して貴女にはなれない
どうせ死ぬなら故郷でと思ったけれど
そんな考えがバカな事だと知った
馬車に乗った女を、笑顔で見送った
さよなら、もう二度と会う事もないけれど

「何よ、あたしの名前覚えてるんじゃないの……誰が死ぬモンですか」
 遠ざかる馬車、馬蹄が聞こえなくなってもしばらく見送っていた
 もう、死に行くしかないけれど心は晴れやかだった。熱さが涙も何もかも蒸発させてしまったに違いない。違う言葉があるのかも知れないけれど、私は知らない。ずっと立ち尽くし、壊れた城壁から見えなくなるまで見つめていると、後ろから声が掛かった。
「俺たちも戻るか、リド。エルセンでいいか?」
「え?」
「エルセンは俺の故郷だし、少しは懐も暖かくなった。ゆっくり療養できるだろう、最後まで俺に付き合えよ」
「あたしの最後でも看取る気?」
「俺は大したことは出来ない男だけれど、一緒にいようぜ」
「そう……じゃあ約束してくれる?」
「何だ」
「私が死んだら、この粉あの女に絶対に返して。使わなかったって見せてやってよ」
 突き出した小さなビンを受け取り、笑った。最後までこうやって送ってもらえるなら……強がりでもなく、あたしの人生幸せなのかもしれない。
「わかったよ、行くか」
「それとね!」
「何だ? まだあるのか?」
「私が死んだら、とっとと忘れた新しい人生歩んでよ!」
 ビシュアは笑ったけれど、返事は戻ってこなかった。言わなくたって、ビシュアはそのうち別の女と知り合って生きていくだろう。それでも言いたかった。

父さん、母さん、兄さん達。もう少ししたらいくからね
そして、ドロテア
昔っから変わらないわね
気の強い、頭のいい、美しい顔立ち、そして優しかった
失ってしまった左手の薬指
それが私だったら良かったのにね。何故か心の底からそう思えた時、何かが心の内側を満たしたような気がする
このままの気持ちで死んでいきたわ。

そして残っていて売れそうな宝石を馬車に積み、私達は北西へと帰る。

リドとドロテア=ヴィル=ランシェ

 二度と会う事のない、その二人は 『聖異郷』の名を冠した故郷を立去った。最早二人にとって、そこは故郷などではない、ただの廃都。誰かと共にいる場所が、自分達の故郷になるのだと

**********

 荷台に乗り、遠ざかる城壁を見つめながらヒルダが口を開いた。
「姉さん」
「何だ?」
「あのさぁ、姉さんの指オーヴァートさんなら治せたんじゃないんですか?」
 気付けば誰もが思うことだろう。
「それか。治せるには治せるんだが、この手に六歳当時の指が付くことになる。無くなるってのはそう言う事だ、俺の生きてきた歳月に薬指はないから指自体が成長しない、例え勝手に成長させたとしても、俺と共に成長したものではないから結局俺の指じゃない。此処に指を戻そうと思えば、俺は六歳まで戻って生きなきゃならないのさ……人生をやり直すって事になるのか。俺の人生は指一本の為に無かった事に出来るほど……軽いとか安いとかは言わんが、なかった事にしたくはなかった」
 無くなった物は、そんなに簡単に戻っては来ないのだ。それほど簡単に戻ってくるのならば……失われるという意義もまた無くなってしまうだろう。
 一度、確りと話を聞いた。もしも自分の指を元に戻すとして、その指を失った原因を排除するとしたならば……世界はどうなるのかと? 答えは簡単だった、トルトリアが滅びないだけだと。その指を戻す為だけに、百万の人間を生き返らせよう、そう言われて頷けるほど、ドロテアは横着ではない。
「人生をやり直すってのは俺の指一本で百万の人々を生き返らせる事になる。それは逆を返せば、俺の指一本で百万の人々が殺されるって事にもなる。そうだろ?」
 百万の人々の生を取り戻し、それに連なる百万の人々の人生を変えてしまう事。指一本にその価値はあるかもしれないが”そうだ”と言い切れる程、厚顔でもなかった。なにより、
「そうですね。建前上、人の命の平等を説く聖職者としては、やめた方がいいでしょう……としか言えません」
 自分の手に負えない事柄もあるのだと、指一本の代償が自分の手に負えない世界になってはどうしようもない。そして何より……人生を消すのが惜しかった。それが一番だろう、十七の小娘が人生を消すのが惜しいというのもおかしいが、あの時はあの時で楽しかったのだ。例え幸せでなかったとしても、エルストとまだ出会っていなかったとしても。復讐なり何なりを考えて、それなりに生きていたのだ、それを捨てて生きろと言われても『はい、そうですか』とは答えられなかった。
「でもね、もし姉さんが指を取り戻す為に過去に戻って、トルトリアが崩壊しないで済んだとしても、私が生まれなかったとしても、マリアさんに出会わなかったとしても」
「エルストとは出会ってたでしょうね」
「そう思いますよ。私も」
「……何でだよ」
「そんな気がするんですよ。エルストさんって姉さんの運命の相手でなくとも」
「出会ってるでしょうね」
「やれやれ……」
 ドロテアはそれだけ呟くと煙草に火をつけ、口に咥えたまま唄を口ずさんだ。石畳をかける馬車の音にかき消され、殆ど聞こえ得ない程度の小さな声で。それは、御者台にいるエルストにもグレイにも聞こえない。
 一方御者台座らされて、手綱を握っているグレイと脇で地図を開いているエルスト。最早やる気のなさが頂点に達しているエルストは、欠伸をしながら
「マシューナル街道を通っていくか、整備はされてなくても石畳の道は確りと続いているだろうからな」
 南へと伸びる街道をひた走る事に決めた。整備された街道で、マシューナル王国に最も短い時間で到着する道だが、
「良いんすか?」
 当然警備もいる。だが、関係ないとばかりに手を振り
「平気平気。警備員もドロテアが乗ってれば、無条件で通してくれるから。警備員達の上司が頭の上がらない女だから、知ってるだろ? ドロテアが大寵妃だったって」
 足を組んで寝体勢に入る。自分の妻を大寵妃だと、特に自慢するでもなく卑下するわけでもなく普通の言葉として言い切ったエルストに、
「へ、へぇ……お兄さん変わった御仁だって言われやしませんか?」
グレイは訊ねたが、全くそんなことは無いと言って眠ろうとしていた。
「特には。居眠りしてても良いか、脇で」
「構いはしやせんけど」
「それじゃ」
 エルストは地図を畳むと、ポケットに入れ布を顔に被せ、少しだけ唄を口ずさんだ。歌詞が確りと聞こえてこない、馬車の音で途切れるほどの小さな音律は、全くグレイには見当がつかないものであったが、とても真昼の砂漠に似合っているような気がした。

12の鐘が鳴る昼に
金に輝く華を持って歩こう二人で
12の鐘が鳴る夜に
銀に輝く砂丘を見よう二人で
金と銀の都を 時を告げる鐘が鳴る
指折り数えて 眠りましょう
眠りましょう 眠りましょう

最早、子守唄を聞かせる相手もなく、故郷だったその場所に唄を捨てて
これが最後だと、二人は歌って捨ててゆく

さよなら  と

【第一部完】


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