ドロテアとリドの対面を脇で見ながら
「普通に険悪そうですね」
声を小さくするわけでもなく、ヒルダは言った。
「ヒルダ……普通に険悪っておかしくないか? 言いたい事は解かるけど」
ドロテアは初対面の人と喧嘩をする事も多いが、顔見知りから売られる事も多い。自分から売りつけに行く事も結構あるが、売りつける場合は勝つための下準備を万全にして向かうので、圧勝である。何にせよ、ドロテアは喧嘩を売られても『大人の対応』とかいう、自分にストレスのかかるような態度は決して取らないので、大体いつも険悪になるのだ。通常であれば「ここで怒れば相手と同じレベル。自分はもう少し上だから」などと言い聞かせるようだが、ドロテアは自分が相手よりもレベルが上などとは思っていないので、徹底的に噛み付き、噛み砕く。相手を見下してはいないのだろうが……態度は見下しているようにしか見えないとしても。
「トルトリア人にしては、肌の色が少し濃いわね。この前みた舞踏団の人達も皆、白皙の肌だったけど」
ドロテアが過去怒らせた相手の中に、怒りで顔色がどす黒くなる人を見たことがあるマリアだが、それとは少し違うような気がした。化粧が濃過ぎるせいもあるのだろうが、それでも着衣のない、僅かに見える肌も同じような感じを受けた。
「そうですね。日焼けにしては変わった色ですから、内臓疾患かもしれませんね」
「……」
「どうしたの? エルスト」
「いや、なんでもないよ」
ヒルダが言った通り、内臓疾患であるならばこの熱が支配するトルトリア領を進む意味は? リドという女は盗賊ではないようだ、ならば余計に来る必要はない。酷暑の人目を盗む盗賊達の旅に同行したとしても、得るものは『死』
リドという女は、死を目前に控えているのだろう。エルストはそこまで考えて、考えるのをやめた。やめたのではない『ま、いっか……』と。
「城壁の外にでも逃げてるんだな。貴様等が襲われても、俺は助けはしねえよ」
「何を仕出かす気なんだ」
「此処に巣食っている魔物を全て殺す」
「出来る訳ねえだろっ!? 今まで二十年以上も何処の国も出来なかったんだぜ?」
「バカだな、てめえ。自分の物にならねえ土地の掃除するようなお人良しが統治してる国なんてありはしねえよ」
「……何処にいれば安全だ?」
「知るかよ、自分で確保しろ。此処が死の都にして、立ち入り禁止区域だって知ってんだろ? 見捨てられても文句は言えねえって。白骨街道、瓦礫の隙間を縫う熱風、そこを通っている時、誰かに助けてもらおうと考えたか?」
「わかった。結界張ってもらえないか? 俺たちが乗ってきた馬車に。それがないと帰られないから」
「いいだろう。金寄越せ」
ドロテアは金を取ると、金額に見合った結界を盗賊達の馬車の周囲に張った。ビシュアは全員を連れて、馬車に張った結界の中に入り、一応短剣を構えた。その頃、四人も丹念に描いた魔法陣の規定の位置に立った。ドロテアはその場で、魔法を唱え背後に中心がくりぬかれたような壁を呼び出す。それを見て
「準備できましたよ、姉さん!」
ヒルダは杖を掲げ
「私も出来たわよ、ドロテア」
マリアは短槍を構える。
「じゃあ、始めるか。エルストはいいな!」
「ちょっと待っ……」
「いくぞ!」
いつもの事だ、エルスト
ドロテアは左手の肘から下の黒い手甲を外し、右側の小脇に抱え込む。その右手には短剣。それを左腕の静脈まで刺し、引き抜き高らかその腕を上げる。白皙の肌を伝う噴出すほどではない大量の血が、大地に書かれた小さな陣の上に滴り落ちる。脇でヒルダが回復呪文を唱えるその声を掻き消す大きな声で、高らかに歌う。低俗な邪術、その身を振り向かぬ他の者に食わせておびき寄せるを使う。
「我が血肉を喰らいし愛しき者よ、来るがいい。愛してやるさ、さあ来い! 我が血肉を喰らいし愛しき者よ! この血を欲し! この血に答えて! さあ喰うが良い、わが身を喰らい、この世の絶頂を得るが良い! お前の愛しき女は此処に居るぞ」
血が止まった手が、まだ高らかに上げられている。日の光がその腕の血と筋肉の陰影を際立たせる、美しき女性らしい曲線美ではないその腕は、だが美しかった。例え『指が四本だけ』であったとしても。
「あの手……いや、あの左手の指! 血肉ってのは?!」
ビシュアが声を上げる。
美しいと、大寵妃だと、あれは娼婦だと、賢いと、口が悪いと……数々の噂が流れているのにも関わらず、この噂だけは流れていなかった。ドロテアが手甲をはめなおす、その手も確かに指は四本だけ。
「さあ! 来い! あの日俺の指を喰らった魔物よ! 貴様の血と肉を贄にトルトリアの魔物を残らず呼び出してやる。さあ!」
オーヴァートですら気付くのに半年を要した、誰もがそれに注意を払わない。ドロテアの左手の薬指は、第二関節の下から斜めに切れている、だからエルストはドロテアに指輪を贈らなかった。別の指につけても良いだろうが、そうしなかった。そしてエルストだけが、初対面の時にその指がない事に気付いた。
レクトリトアードが聞いた、ドロテアの心の鍵はなんだったのか? 直ぐに答えたのはエルストだけだと、ドロテアは答えた。レクトリトアードは『指はどうした?』と訊ねる事はできなかった、そして人間は切れた身体は元に戻らないと真に知った。自分よりも数段強い女の指がそうである事を目の当たりにして。
ヒルダは幼い頃から不思議であった、何故自分の左腕には長い薬指があるのか? と。勿論両親の指は健在だが、ヒルダにとって世界はドロテアが基準であったが為に。
マリアが気付いたのは、ピアノの弾き方を習った時。マリアは驚いてそれ以上習う事が出来なかった、もっとも美しいとオーヴァートが言った左手は、マリアには見続けるのが苦しかった。アレクスと共に寝た時、左手がアレクスの顔にかかっていたので、気付かれた。その指の隙間ではない空白に、彼は驚いた。ドロテアは隠さない、一度として隠した事はない、ただ、誰もが気付かなかっただけの事。顔の美しさ、態度の悪さ、人はそこまでしかドロテアを知るが出来なかっただけの事。
「嘘……でしょ。あんた……」
リドは口紅で隠した血色の悪い唇で呟く。彼女の中にあるドロテアは、あの舞踏団のアマンダの中にあったモノと同じ。背中まで伸びた、緩やかなウェーブの髪を大きめな一つの三つ編みにして、子供達が集まる場所にあるピアノを弾いている可愛らしい女の子。
鍵盤を叩くのが上手な女の子がいた
商人の娘で家には小さいながらもピアノがあった
小さな指を走らせて、鍵盤で楽を奏でた
この子は将来凄い音楽家になるよ、と誰もが言った
左利きの娘
少女は音楽家にならず、学者となった
ドロテア=ゼルセッド
「鍵盤モンは理論上『指の数以上』の音符はネエから絶対に弾けるんだよ」
ギュレネイスでアコーディオンを持ちながらそう言った、それはドロテアが知っている限界。魔道の才はない、格闘の天賦の才もない、あったのは音楽の才。
音楽の才に恵まれた可愛らしい女の子は既になく、そこにいるのは美しくなり過ぎた女。
地中から足元に届く振動。地中から姿を現したそれは、口を開き叫び声をあげる。ドロテアの言葉に呼応しているのかどうかは解からないが、叫びながら突進してくる巨大化したシーラウスのような姿をした魔物・フラガボットは、他のモノには目もくれずドロテアめがけて突進してくる。
「来ましたよ! 姉さん!」
その声に頷き、
「生きてたか! 会いたかったぜ! 本当に生きてて良かったぜ!」
ドロテアはそれを捕らえた、魔力で編んだ網に。それを先ほど出現させた中心のくりぬかれた壁に、叩きつける。フラガボットはその中心に入れられると、大声を上げた。ドロテアの声に呼応しているような声とは別の、意味は聞き取れないが、魔物の絶望の声と言うのがあるのならば、これであるだろうと思える程に。
フラガボットの身体に小さな管が無数に刺さり、体液が外に流れ出す。その体液で濡れた魔法陣が、輝きだす。音を立てて動き始めた、呼び出されたフラガボットを媒介に地に、空に住む魔物をこの場に呼び出す邪術。生きている物であればなんでも良いその邪術の贄に、人間よりもはるかに生命力の強いソレを選んだ。
「続々おいでになってるな」
地震のように地面が揺れる。同族の叫び声が聞こえたのか、フラガボットが大勢集まってきた。鍵盤に走らせていた小さな指は、今は宙で魔方陣を描く。華麗に九本の指で、世界でも類を見ないほどの速さを。次々と裂かれてゆくフラガボット、そしてその死体をエルストが魔法をかけて陣の外に投げる。
「空からも来たわよ! ドロテア!」
「対空は任せておけ。マリアは地上を頼む」
空を切る腕の動きと、絶え間なく動く指先が紡ぐ
「風を呼びし我が祈り。天に座したる無数の魂よ」
片羽を切られバランスを崩した所に、エルストは死んだフラガボットを投げつけてみたりしていた。
「致命傷は与えられないなあ」
「当たり前だろうが」
魔物で溢れかえっていても、エルストはエルストだった。
魔物の流れや動きを大まかに支配する魔法を使いながら、的確に急所を切り裂く。背後の贄が弱ってきた姿を、視界の端でとらえ
「おい、ヒルダ! 後の贄に回復かけておけ!」
まだまだ生かすつもりで、ヒルダに治療させる。
「はいはい!」
ヒルダは回復させ、フラガボットの身体に刺さっている管の一つを準備していた水桶に差し込む。減った体液を補給する為だ、人間ならば出来ない事だが相手は生命力は人の数倍の魔物、この程度で回復してしまうのだ。この場合は、回復力が仇となっているが。
襲い掛かる無数の魔物を切る、黒い触手で突き刺す、爆ぜさせる。
「何て強さだよ……あそこまでなるのにどれ程苦労したんだろうな……」
腹を切り裂かれた魔物は、苦痛に満ちた断末魔を上げるが、それに良心の呵責などはない。芸術的な敵の屠り方とは全く別物の、機能的なその戦い方。
あわせた掌を身体の幅ほどに開き、再び魔法を唱える。マリアが敵を薙ぎ、エルストが魔物を刺す。長い間に、魔物達は数を減らしていたらしく、ドロテアが万全を期した陣の前に成す術なく殺されていった。あの日、突然の襲来に右往左往するだけの人を殺した魔物達の、哀れな姿。
山のように詰まれた、その死骸。
「この近辺に後は一匹も魔物はいない」
ドロテアは周囲に魔物がいない事を念入りに確かめると、
「さてと、後片付けといくかっ!」
魔物と言う魔物を、炎獄へと落としさる。残ったのは臭いのみ。血と臓腑の入り混じった臭い、いわば死臭だけ。
「片付いたみたいだな、ドロテア」
遊び半分に魔物を倒していたエルストに、向き直り笑う。
「この程度のモンなんだろうな。そうそう、役に立ったぜ俺の血肉を喰らった愚かな魔物」
最初に捕らえられたフラガボットに、唱える。
「死ね」
それは長大な恨みを綴った呪文よりも、何よりも深い恨みを誰もが感じる事が出来た。中心で姿もない程に爆ぜたフラガボットが入っている壁を地中へと沈める。吹き抜ける風が、この死臭を消し去るのにはもう少しだけ時間がかかりそうであった。
四人にはそんな事は関係ないようで、マリアが
「結局ウィンドドラゴンは出てこなかったわね。見てみたかったのに、どう歩くのか」
短槍を折りたたみながら、そう言う。その位の余裕が残っていた、
「豪気だなマリアは。何時の間にそうなったんだ?」
死力を尽くして戦うのは、ドロテアの好みではない。戦った後に、再び同じ戦いを繰り返せるくらいの余力は残すのがドロテアだ。
「貴方と一緒にいる間によ」
「幾ら俺でもそこまでは豪気じゃねえぜ」
笑い声が青空と血や体液に染まった瓦礫や廃都に響き渡る。そして、余力と豪胆と言えばヒルダだ
「御飯作りますね、待っててください! あっちのほうに飯場があるのを、戦っている最中に確認しましたので」
余力が残りすぎているのも色々と問題のような気がする。動いたので、大量に食べましょう! と言われる事必須。肩を鳴らしながら、食糧を取りに馬車へと向かおうとしているヒルダに
「ヒルダ。飯作る前にちょっとついて来い」
ドロテアは声をかけ、
「?」
指を指す。その方向に全員が目を向ける。
「あの盗賊達が狙った通り、あそこは宝物庫だ」
「普通は王宮の中にあるんじゃないの?」
「普通はな。この建物は城壁を作った後、後代に選帝侯が作った箱のような建物だ。城として使うには相応しくなかったんで、此処を王家所有の宝物庫にして城は上部に建てた。当然ながら城壁をのぞけば此処が一番頑丈な建物だ。もっともこの建物、頑丈で入り口が一つだけで鍵なんてのは付いていなかったらしい」
「何故ですか?」
「知るかよ。だから入り口には七人の衛士を立てて、見張らせていた記憶がある。近寄りはしなかった、興味なんてねえからな」
この存在が、トルトリアに人を呼ぶものである。ドラゴンであっても壊せない場所に保管されていると知られている『宝』
持ち出せた者はいなかったらしく、どの盗品街でも品物を見かけることはない。砂漠にある数々の秘宝、それは今此処にいる盗賊や、遠くでこの国を手に入れようとしている人々の興味の対象。
「強いな、アンタ達」
全てが終わったと見て、ビシュアはドロテアに近付いてきた。
「テメエ等が弱いだけだ」
そう、ドロテアに言い返されるが、盗賊なのだ別に強い必要はないだろう。
「俺は調べてきたんだが、あんな化け物がいるってのは聞いた事がなかった。命かながら逃げてきた奴等は、それらしい事を言ってたが門番が本当にいるとは」
単純にビシュアは“アレ”が宝の門番だと思っているようだが、ドロテアにはそうは思えなかった。では“アレ”が何の目的でいるのか? と訊かれれば答えられないが“アレ”がなんであるかは解かっていた。
「……門番でも何でもねえだろ、“アレ”は。行くぞ!」
「はい。姉さん」
歩いてゆくドロテア達の後の距離をとり、ビシュア達も付いていく。ビシュア自体は、あれ程怖い女には近寄りたくはないのだが、リドが後をついて行ったので気になり付いて行った……ドロテアと殴り合いの喧嘩になったら困るな、と。重い病にかかっているリドだが、気は強い。そしてドロテアも気が強い、再び口論になれば次は無いとばかりに、つかみ合いになってしまえばリドには勝ち目はないだろうから、止めないと……そんな気持ちでだ。勿論、ビシュアと他の一緒に仕事をしにきた盗賊が全員でドロテアにかかっても、全く勝ち目がない事くらいは解かりながら。
ドロテアは頭蓋骨を抱いた“ソレ”の側に近寄り
「おい、久しぶりだな」
ドロテアは声をかける。“ソレ”はまだ、
「貴様もこの宝物庫を開けに来たのか?」
人間の言葉を喋る事が出来た。過去に、小さな村で遭遇した子供だましのような魔法生成物とは違い、完全に定着させられてしまったもので、あと数年もすれば言葉も忘れてしまうに違うだろう、もっともそれは“姿が変わったから”というだけではなく、話す相手がいなくなってしまったから、そんな理由もある。
記憶も消えかけているようで、ドロテアが「久しぶりだな」と声をかけたのにもかかわらず、相手はそれに直ぐに反応を返してはこなかった。
「さっきの戦い振り見て、戦う気になるか?」
「強いな、あの時にお前達のようなのが居てくれたならば」
それでも衝撃の大きい出来事は確りと覚えているらしく、トルトリアが崩壊した日の事は覚えているようだった。
「無駄な話だが……少し魔法をかける。動くなよ」
ドロテアは手をかざし、それが“人の腕”で持っている頭蓋骨に魔法をかけ始めた。『違ってりゃ違ってたで……』そうであって欲しいような、そうであって欲しくないような、気持ちで魔法を唱え終わる。ポゥ……と淡い黄色の光に包まれた、茶色になっている頭蓋骨から現れた。頭蓋骨の大きさに見合った少年の霊が、ドロテア達の目の前に。霊というにはあまりに嬉しそうな表情を浮かべて、手を広げる
「よう……やっぱりそうか」
真昼の太陽の下に、透けた幽霊とはあまりにも似合わない。
【元気だったみたいで、嬉しいよ】
頭に響く、その幽霊の声。此処は廃都だ、それもいいだろう。
「この子……」
エルストが膝を折り、少年の顔を見て笑う。笑うしかないだろう、あまりにもよく似ているのだから。
「そこの魔法生成物、グリフォードが抱いている頭蓋骨の主だ」
「グリフォード? 知り合いなの?」
「ああ、そっちは忘れているだろうけど。半端に人型だから、面影が残ってやがる」
「……誰だ?」
【グリフォードさん】
恐らく幼い頃のドロテアはこんな顔をしていたに違いない、そう面影が残る幽霊もグリフォードと呼ぶ。
「ちなみにグリフォード、テメエが抱いている頭蓋骨の主の事は覚えているか?」
首を落とし、胸に生える手が抱きしめた頭蓋骨を見る。手の中でクルリと向きを変え、自分を見上げさせる。
「この頭蓋骨の主……は」
砂が暗い眼窩から涙のように伝い落ちる小さな頭蓋骨。“グリフォード”の前に差し出す、薬指のない左腕
「そしてこの左手。その頭蓋骨が誰だか解ったか? グリフォード」
− 六歳の子供が一人で逃げられるわけないだろ −
グリフォードという男の人生の中に存在する、衝撃的な出来事の一つ。目の前で食い殺された少年と、必死に助けた少女。
「な……ドロテアか? ドロテアなんだな!?」
少年を食い殺した魔物は、贄にされ魔物として最高の苦痛を味わいながら殺された。そう、あの魔物はドロテアの指と幽霊となった少年を噛み、食ったのだ。
「そうだ。あれから既に二十二年も経った、あの時六歳だった俺も今じゃあ二十八歳だぜ。昔のお前より歳とったさ。さあ、至れ邪教を祭るもの、死者を冒涜せよ」
禍々しい呪文を唱え終えると一人の少年が現れた。幽霊と呼ばれるその少年は笑って全員に向かって頭を下げる。おそらく目の前の小さな幽霊が成長すればこうなるのだとしか言い様のない姿。
「この幽霊は誰? って聞く必要もないんだけど……そっくりね」
マリアがそれ以外の言葉はないと、首を振る。それも似ているのだ、ヒルダに。
「ああ、そりゃもう。こんなに沢山いると有難味もないし、なにより世界で一番美しいとは言えない、やっぱりマリアじゃなきゃなあ」
【姉さん、久しぶりだね】
「オマエもな、ゼファー」
六歳当時、ドロテアは姉であった、ヒルダの姉ではなく、このゼファーの。そして五歳のゼファーはもうじき兄になる予定だった、ヒルダの兄ではなく成長した幽霊・アーサーの。
「因みにこの左手側にいるのが俺の夫エルスト」
「始めまして、夫のエルスト=ビルトニアです」
エルストが頭を下げる。
「右手側にいるのが親友のマリア。美人だろう」
「始めまして、マリアよ」
マリアが笑いかける。
「そして、俺の背後に隠れてるのが」
「ヒルダだよ。ヒルデガルド」
【ヒルデガルド?】
「顔見りゃ解かるだろ。照れるか泣くかどっちか一つにしろ!」
そう言って、ドロテアの背後にいたヒルダの腕を掴んでゼファーに向けて投げつける。
【僕の妹……この側にいる、成長した幽霊は?】
「お前待望の弟だ。両親共々逃げ延びたが、母さん身体に堪えたみたいで結局早産で……死んだ。でも確かにお前の弟だ、連れて行け」
−今度僕お兄ちゃんになるんだね。いっぱい、いっぱい遊んであげるんだ!−
「身体は成長してるが、知能は発達しなかった。俺の力じゃこれで精一杯だ、しちゃあいけねえ事だが」
二十二年前兄になれると喜んだ“相手”と対面し、抱きしめた。そして“子供”の姿をしているゼファーはヒルダに手を伸ばす。
【初めまして、僕の妹のヒルデガルド】
「始めまして、兄さんって言うのかなあ?」
ヒルダもその手に手を乗せた。ヒルダも兄がいる事は薄々気付いていた、そして此処にいるのではないかという事を。
何もなければ幸せだったとは言うまい
膝を折り、薄い透明な存在を形だけヒルダは抱きしめる。その姿を脇に、ドロテアは彼に話しかけた。
「生きていて……良かった、ドロテア」
全部ではないだろうが、所々記憶の戻った彼は、生来の性格に戻ったらしく穏やかに口を開く。少々大きめになった口から漏れる言葉は、聞き取り辛いものの意志の疎通には事足りた。
「アンタもな」
「ドロテア」
「何だよ?」
「世界は滅んだのか?」
この二十二年間、もっとも知りたかった事実……なのかどうなのか? ドロテアは彼を見上げながら喋る
「いいや、滅んじゃいねえよ。滅んだのはトルトリアだけだ」
「そうか……聞いてもわからないだろうが、何故俺は此処でこの姿になっているんだろうか?」
「知るかよ。最初の一、二年は記憶は鮮明だろうが十年を越えれば目的はほぼ忘れる。人型を残している所から、十五年くらいまでは僅かに残ってたかも知れないが、その時書き記すか何かした覚えは?」
「ない」
「なら無理だ。だが、目的も忘れたお前が此処に居るのは意味がない」
目的も使命も忘れてしまった彼は、この場にいても何の意味もないだろう。
「そうだな」
「俺らは明日帰る。その時、お前も殺して帰ってやる。嫌だとか言うなよ」
「解かったよ……ただ、明日まで此処にいたい。意味は解からないが、此処に居たい」
「好きにしろ」
宝の番人に仕立て上げられた……とは思わないが、何かが彼をこの場に引き止めるのだろう。ドロテアがアレクスに引き止められた時のように。
「ドロテア」
「他に聞きたい事でもあるのか?」
「いいや、言いたい事だ」
「どうした?」
「強く、美しくなったな」
「おぅ。みんな言うぜ」
彼の中には、幼い頃のドロテアの姿が蘇ってきたようだ。遠巻きに見ていた盗賊に
「ビシュア、あいつはもうテメエ等を襲わねえよ。後でゆっくり開けな」
ドロテアはそう声をかけ『ヒルダ! とっとと飯作りやがれ!』と叫ぶ。『はいっ!』という声と共に、ヒルダは駆け出しゼファーはアーサーの手を引いて、ヒルダの後を駆けてゆく。
「あの建物の影で休むか。じゃあな、グリフォード」
ドロテアは彼にも盗賊達にも振り返る事なく、歩き出した。宝物庫の前で取り残された盗賊達、特にリドは
「ああ……どうしたリド」
「べ、別に……」
腹立たしかった。
「お前も知ってたのか? その神父だった奴」
「覚えてないの……悔しいけど全く覚えてないのよ。同じ神父に教えてもらったはずなのに」
「気にするなよ。神父だってリドの事覚えてなさそうだから、な!」
「……ますます悔しいわよ。自分がバカだって思い知らされてるみたいで!」
グリフォードも通常の状態であれば、リドを思い出したかもしれないが既に記憶は混濁している状態で、今ドロテアを思い出した事すら奇跡的な出来事であった。何より、彼の中では衝撃的な出来事だった、ドロテアの手とゼファーの頭は。
**********
「二十年以上も頭蓋骨抱いてるってのは、相当後悔してるんだろう」
影に厚手の敷物を敷き、三人は腰を降ろす。そこからは飯場が見えた、自分によく似た幽霊と会話しながら、偶に目を擦り料理を作るヒルダの姿を視界にとらえながら話をする。
「彼、グリフォードさんて?」
「近所に住んでいたイシリア教の神父だ。子供達に字や計算を教えてくれていた、気の良い男だった。最後の日、指を弾き飛ばされた俺を抱きかかえ、サンドワームの口に収まった弟を必死に助けようとして」
助かるわけがないのに、手を伸ばしたら手元に頭だけが残ったグリフォードの手の中に。想像以上に血が出なかったソレを抱えて、左手から血を流しているドロテアを抱きかかえグリフォードは、人混みの中を掻き分けて進み、運よくドロテアの両親と会う事が出来た。届けられたソレに両親は驚き、娘を受け取ると馬車にありったけの荷物を積み込んで逃げ出した。その時両親は、グリフォードから頭蓋骨を受け取りそびれた。母親が受け取ろうとした脇で、千切れかけていた娘の指二本がポロリと落ちて踏まれそうになったのだが、その相手を母親は体当たりで倒して指を拾い上げた。それで限界だ、受け取るのを忘れてしまった。
「彼の手元に残ったのは、弟さんの頭だけだったわけか」
その後グリフォードは逃げないで、身を魔法生成物に変えて戦ったのだろう。グリフォードがそれほど高位の魔法を使えたとは思わないが、残っていた魔道師などが必死に交戦したに違いない。事実、トルトリア最後の王クトゥイルカスは魔道師で、先頭に立って徹底抗戦したという。勿論勝つためではなく、人々を逃がす為に。詳細は伝わってはいないが、その後ウィンドドラゴンの被害がない所から、クトゥイルカスが最後の一撃を加えて、倒せないまでも身体を休める必要がある程の傷を負わされ撤退した説もある。
殆ど抵抗らしい抵抗が出来なかったのに、そのような言い伝えがあるのか? それはエルストが永久時計といったあの棺にある。あの時計は鐘を打つ、その鐘が十二回響き渡る時人々の魔力は最高値に達するのだ。原因や理論は解明されてはいないが、その鐘が鳴り響いている最中だけは人々は類稀な魔法を使用する事が出来る。勿論鐘が鳴るのは一分程度で、何が出来るわけでもないが、一撃を加える事くらいなら可能な時間でもある。真実の程は解からないが、そんな言い伝えが残る程クトゥイルカスは勇敢だったのだ。逃げ延びた人々は口々に讃えた。
「そうだな。混乱の最中で両親は頭部は残したまま逃げた。助かったと実感した後に後悔したが、もう此処に戻って来る気にもならない。残っているとは到底思えないからな」
生きている事を実感した後の後悔は大きかったようだ。そしてドロテアは記憶違いかとずっと思っていたことがある。
記憶にある頭だけになった弟は、とても穏やかに寝ているかのような顔をしている。何かと間違えているのではないか? と思い返しても、食いちぎられた弟は、それでも穏やかな顔をしていた。
「助けられなかった神父は後悔したのかしらね」
今、再会した弟もそれは穏やかな表情をしていた。彼は死んだが満足していたのだろう……か? ならば何故此処に、未練を残しているのだろう? ドロテアは陽光に左手をかざす。
「三本同時に切られて、一本……左薬指だけは切り取られて弟と一緒に食われた。かろうじて中指と小指は皮一枚で繋がっていた」
逃げる途中、親が必死に指を包帯で巻き、魔法を使える人に頼んで繋いだ。
「聞いてみたかったわ、あなたのピアノ」
ドロテアは元々左利きだった。
「もう、中指と小指は変わらなく動くんだけどな……」
指は繋がったものの、自由に動かす事ができなくなった。その指の機能回復を目的に、楽器以外で指を使う魔法を学ぶ事にする。才能はないと教えてくれた魔法使いは言ったが、元々魔法で生きていくつもりはなかったので、それは気にはならない。動くようになった左指、利き腕も完全に右に代え、指の分だけ足りない握力を補う為に無手の武道を習う。それら全てを行った頃には、既に十歳を過ぎていた。生きる道を選ぶ年頃になっていたドロテアは、学者になる事を選ぶ。
その判断は正しかったのかどうかは解からないが、最終的に今此処に居る。指一本でエルストやマリアや……他のヤツラに会えたのなら、安いものなのかもしれないなあ。
今ならそう思えるよ、昔はそう思えなかったけれども。
「ご飯できましたよ〜」
「ああ。エルスト持って来い」
「はいはい」
生きていくのに不自由ないほど、自分で機能を回復させた左腕。生まれながらに美しかった女が、唯一身体に対してした努力。オーヴァートがその左腕が最も美しいと言って、それを隠す為に指が五本ある左腕を覆うショルダーアーマーを与えた。ドロテアの意に即して、無いはずの指も動く手甲。近年までそれをそのままドロテアは使用していたが、エルストとの結婚を機にオーヴァートに折る様に命じた。
ドロテア本来の手を持った手甲が出来たのは、つい三年前のこと。
随分と長い年月かかりましたね
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