ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【25】
ドロテアは十九歳の時に言われた

私はお前が望むなら、どれ程でも時間を巻き戻そう
ただ、私が巻き戻せる時間は十九年だけだがな
そう、私が即位した時までしか巻き戻す事はできない
お前が生まれてからの人生は全てお前の望通りにできる

オーヴァートが三十四歳の時
オーヴァートが世界になった時に生まれた俺

今ならば二十七年前になるか

**********

 ギュレネイスに帰還して、チトーに少しだけ挨拶をするとドロテアは出立前に借り上げられていた邸に学者を集め、書類の作成・整理にあたった。実力主義を貫く学者、その唯一の欠点は書類をやたらと多く書いてしまうことにある。自分の知識を延々と書き付けるクセを多くの者が持っている。
「……ナンなんだ、この知識の羅列は」
 書類作成は想像以上に時間がかかると思われる。
 そんな中、一足早く戻ってきたクナとパネに「城の一部でも貸し出すか?」とドロテアは申し出た、少しの間ギュレネイスに止まり色々な政治的なことを行うのだそうだ。通常の国であれば教会があったり、少々金持ちの信徒の家を借りるのだが何せ此処はギュレネイス皇国、エド正教は無い。
 その申し出に『ありがたいが遠慮しておこう。猊下ですら足を踏み入れたことのない聖地に踏み込んでは礼を失う』とクナは辞退した。フェールセン城の主の部下が信仰の対象なのだから、当然そうなるだろう。クナ達は大きな邸を借り上げてそこを拠点とした。大きな邸は庭も立派で、ドロテアは舞踏団の面々を招待してクナ達の前で踊りを披露させたりした。誰よりも喜んだのがクナで、相当な褒美と後何度か訪れるよう料金の先払いまでしたという。
「いいお得意さんありがとう」
「あんなに喜ぶとは思わなかったぜ」
 ドロテアの想像以上にクナは喜んでいた。そのあまりの喜びぶりに少々興味を持ったドロテアは学者達の長々とした報告書に五度目の書き直しを命じて、ドロテアは三人を連れてクナのいる邸に足を運び、少しはなしをすることに決める。特に珍しい事を話すわけではないのだが、旅の途中の出来事をかいつまんで話してやるとクナは、そして後にいるパネも非常に喜んでいた。よくよく考えれば、セツ以外の高位聖職者は殆ど国から出ることなく、出たとしてもあまり刺激のない旅をしたり生活をしたりしているわけだから、ドロテア達の話しは極上の娯楽となるであろう。

「ほんに楽しいのぉ」
「そうかい?」
「ああ。妾は子供の頃から最高位に就けない立場だったゆえに、あまり扱いがよくなくてな……人は権力に敏感じゃからなあ。ハーシルが妾を推薦し、枢機卿になってもハーシルとセツでは格が違い過ぎるしのぉ。無理やり枢機卿に就けられて、就けた相手が権力を握れる予定がないとなれば王宮にいるのと同じことだった」
 次に女王の座を継ぐ者と、そうでない者の差は大きい。双子であればその落差に自分の生まれた順番を呪わずには居られないほどに扱いの差をかんじるに違いない。だが、それは普通の環境でも同じことでもあるのだが、それが特に顕著に現れるものらしい。
「ふ〜ん。……セツの事は嫌いか」
「嫌いではない。妾に嫌われようが嫌われまいが構うような男ではないがの。あれは猊下の御心さえあれば何とも思わぬ男じゃ」
 まさか『昔は大嫌いだった』など、誰も信用しないんだろうな……と思いつつ、ドロテアはヴェールを取っているクナの顔をみる。その表情には、セツの忠節を疑う色など、全く存在しなかった。
「男って言っちまうのかよ」
 セツはドロテアも驚く程の現実的な非聖職者ぶりを見せ付けてくれたが、クナからは外連味を強く感じていた。それはそれで良いとドロテアは思っていた、むしろセツのような女では可愛げがないと、自身セツと全く変わらない性格のドロテアは、自分の考えに心中苦笑いしながら、楽しそうに表情から性格が読み取れるクナと話を続ける。
「男じゃろ。エギはセツを好いておるが、セツはエギを部下としか思っておらぬ罪な男じゃ」
「アイツ美人好きだからな。見た事ねえけどエギの顔じゃむりなんじゃねえの? 美人って感じしねえしよ、セツのお気に入りはマリアだし」
「キツイのぉ。となれば、猊下もやはり美女なのかえ」
「はぁ? ……なんで美人だと思うんだよ」
「男が命をかける相手は大体、美女じゃろ」
 確かにクナの言っている言葉に間違いはない……のだが、アレクスは美女ではない。勿論美男でもない、強いて言うなら美少年……『三十七にもなった男を美少年ってのも可笑しいが、皇統だから派手に老け込む事もないしなあ。あのまんな五十とかになるんだろうな……ぶ、不気味かもしれん』などと心中で言っているドロテア自身が、年齢不詳で美少年的な美しさをも持つ二十七歳なのだが。
「そんなに派手に命かけてたっけか? あいつ」
 ハテ? と珍しく考える眼差しで目線を天井に向けてドロテアは考える。
「今から十三年も前のことになるな。妾がまだ僧正の頃の話じゃ」
 セツが処刑したハーシルの遺灰を調べ「十二年前が一番だった」と呟いた事件のことである。その時の首謀者もハーシルだったのだ、これについては過ぎ去った事なので何のお咎めも発表もなしではあったが。
「アレクスが暗殺者に狙われてセツが身を挺して護った話か?」
 ドロテアもそれならば納得がいったと、頷く。そのドロテアの頷きに被さる様に、クナが笑い話続ける
「そうじゃ。それが笑えるのじゃよ」
 手をひらひらと動かし「のぉ、パネ」というような視線で大僧正のほうを見ると、こちらはヴェールを被ったままの大僧正パネが、恐らく困った表情をしているのだろう雰囲気を作り僅かながらに頷いてクナの話を肯定する。
「ほぉ、どんな?」
「暗殺者の刃がセツの上半身を切り裂いて骨も見えるほどだったそうじゃ、それは卿であれば知っておるじゃろうが、その続きがのお。セツはその怪我のまま猊下を肩に抱え上げて法王庁の自室まで走りきったんじゃ。血は滴るとかではのうて、噴出したままじゃったぞ。あれは凄かった、冷徹な性格から赤い血は流れていないと言われた男が鮮血を噴出しながら疾走する姿は圧巻じゃ」
 さすがにドロテアも『やれやれ……』といった表情で向かいに座っているクナの顔をみながら呆れをはっきりと表した声で
「掃除大変だっただろな」
 当時は改装もできないエド正教の街で、血を噴出させながら走り回るセツ。あの白い壁がどれ程赤黒く染まり、掃除の者達が困っただろう。ついこの間ドロテア達が立ち寄った時、法王庁の入り口にはそんな赤茶けた染みなど見なかったところを見ると、相当に苦労して洗い落としたに違いない。
「掃除も大変だったろうが、その後も大変じゃ。何でも自分の落ち度で怪我をしたのだから、怪我を治さないと言い張って部屋から出てこんのじゃ」
「はぁ? 意味が解からねえな」
「猊下が再三治すように命じても首を立てに振らんでのぉ。猊下が治してくださるというありがたい言葉も無視じゃ。だが猊下はご自身を庇われて怪我をしたセツをいたく心配なされて、怪我をしたセツの部屋から出てこようとはせんのじゃ。三日間セツを説得してやっとセツは怪我を治す事を了承した。セツの怪我が治るまでの間、猊下は一歩も部屋から出てこなくて、皆が心配したものじゃよ。猊下が手折られるのではないかと」
 お前らそんな心配しかないのか? とか突っ込んではいけない。何処の世界でも男女の関係になられると他人の入り込む余地がなくなり、色々と困るのだが……別にそうでなくともセツとアレクスの間に他人が入り込める余地はないので、やはり無駄な心配なのだろう。
「姉さん、私何時も不思議なんですが、手折られるってなんですか?」
 何時もながら疑問がイイカンジに外れているヒルダに、ドロテアは容赦なしに答える。
「ヤラレるってことだよ」
「何をやられるんですか?」
「セツに抱かれるって事だ」
「抱かれるって? こう、ぎゅーっと?」
 ドロテアに抱きつくヒルダ、確かに力はあるのだが
「セツにこれをやられてみろよ。死ぬぞ圧死できるぞ、バキバキで内蔵が破裂するだろうな確実に」
「そうですね……」
 違うらしい事に気付いたが、ヒルダはそれ以上は追求しなかった。本当は追求したかったのだが、一応姉と枢機卿が歓談しているのだからあまり水を差してはいけないなと思い引く事にした。
「結果手折られなかったから良かったものの、今となっては笑い話じゃのお」
 変な話をすれば、処女や童貞でないことは結構簡単に判断することができる。魔法でも邪術でも、その他魔力を帯びた布、水晶、果ては薬など判別方法は多岐に渡る。恐らくセツの部屋から戻ってきた法王に隠れてそれらの方法を使ったのだろう。

 セツに使っても意味がないのは明白なことくらいは、皆理解しているらしい

 処女性・童貞性に関して色々な判断手法があるということは、ソレを知りたい人が多いというのも事実。知った所で痛くも痒くもない人にとっては無意味な事だが、そうでもない人も居るのだ色々と。
 それで話を戻すと
「……今でも皆警戒してるのか? お前たち」
 やはりみなの尊敬を集める法王たるもの、処女や童貞のほうが神聖性が高くて良いんだろうな……とドロテアはクナの表情を見ながら、口の中で少しばかりソレが解る邪術を唱えてみた。『クナは処女だけど、パネは……違うようだな。どうでも良いけどよ』
「そうじゃ。だがあの二人、よく二人っきりで会っとるし、入浴のお世話もセツじゃからなあ」
ドロテアに処女と言われたクナは、そんな事には気付かずに話を続ける。その内容は、ドロテアの顔に苦笑の笑をとったような表情を浮かべさせた。
「……」
「ドロテアどうしたの?」
「いやちょっと眩暈がな……まあ、そりゃそうだよな。野郎が野郎の体洗っても楽しかねえな」
 さすがのドロテアでも、何かイヤなモノを想像するとイヤになるらしい。想像しなければいいのだろうが悪いことにドロテアは両方の顔を知っているので、簡単に想像できてしまうのだ。“アイツに見張られながら風呂はいってんのか……覗いたヤツとか殺されるんだろうな、確実に。あー殺されるだけじゃ済まねえだろうな、記憶の処分とかどうしてるんだろうな。アイツ邪術使えるだろうが、まさか記憶抽出だけじゃなくて消去までできるのか? まさかな、さすがにそれは師がいないと無理だが、でもアイツのことだから出来そうだよな……”
 クナやパネの誤解が面白かったドロテアは、クナの誤解を解くこともせずに、むしろ増長するような言葉の罠を幾つか巧妙に設置した。

 セツがアレクスを好きだが手を出せないでいる……ような素振りの会話をしたのだ。
 クナが部屋に戻った後、四人だけになり全員で静寂を楽しみつつ罠の設置を他の三人に説明するドロテアに、三人とも笑った顔を少しばかり硬直させたのは言うまでもない。

 気を取り直してヒルダが話し始める。
「それにしても完璧に女の人だと勘違いされてますね」
 アレクスの事を指しているのは明らかだ。
「女顔だけどね確かに」
 マリアも女顔だとは思うが、あそこまで完全に女だと思われているといっそ女になってしまったほうが良いのではないか? とすら思える。
「わざとなんだろうな、髪も長いし。危険と言えば危険だけど実際の所猊下は強いしな」
 女性聖職者に対しての髪形は全く規定はないが、男性聖職者は髪の毛が短い方が良いとされている。理由は諸説あるのだが、一番は教会内で男と女が見分けやすいというのが有力だ。見分けて何をするか? と聞くものもいないだろう。
 通常はヒルダのように髪をしまい込んでいるのだから、髪が見える場所など入浴場くらいしかない。それで見分けるのだから……所詮聖職者も人間だ。『手折られる』の意味を聞き返していたヒルダが、ちょっと小首をかしげてエルストの言葉を聴いている中、ドロテアは煙草に火をつけ手に顎をのせて部屋の隅をみていた。
「……」
「ドロテア、どうした?」
 “わざと”の意味を聞き返されているエルストと、聞き返しているヒルダを無視してマリアが尋ねると、大したことじゃないといった風に手を少しあげて、もう片方の手で煙草つまみ口から放して
「いや、吸血大公と戦った時セツを盾にしないでよかったなあと今更ながらに思ってた。普通に大怪我して三日以上かかったんだろ、レイなんざ足が遺跡の砲撃で千切れ飛んでも三分で完治だ。今でもそうだがセツのその当時の年齢を逆算しても回復力が衰えるような年齢でもないし、ちょうどレイくらいの年齢なはずだからなその頃は。もっとも、あいつら回復能力が衰えたりするのかどうか知らないが。とにかく、それで普通の刃物で怪我したんだから、普通なんだろうな、あの体。あれほどの法力を行使できる体なのに……なあ」
 力と体のバランスがまったく取れていないことに、ドロテアはある種の興味を覚えていた。オーヴァートより劣るとはいえ皇統であるアレクスと同等かそれ以上の力を操る男の体が通常の仕様とは、ドロテアでも思わなかった。
「突然変異なんだよ、多分」
 ヒルダとの話を適当に誤魔化し打ち切って、話し始めるエルスト
「そうなんだろうな……アレだけの力を行使するとなると自然治癒力も強いはずなんだけど、そうでなけりゃ自分の力で体が壊れるだろうが……無意識で回復魔法使ってるとしか考えられない。それにしても、有名な事件だがそんな後日談があったとはなあ」
「有名なの?」
「コイツはヒルダもよく知ってるだろ?」
「知ってます。襲われた猊下を身を挺して庇われたセツ枢機卿。そして抱えられた猊下がセツ枢機卿の背中を切り裂こうとした相手に放った光の一撃で、相手を霧散させたのです」
「肢体が弾けとんだのか?」
「なわけネエだろ、エルスト。それじゃあ別に偉大さもへったくれもねえ。アレクスの一撃が当たった際、襲ってきた相手の体は本当に消え去った。この前見たオーヴァートが人を粉々にしたのと同じようなモンさ」
「あ、なる程な」
 アレクスが『何者』なのか知っているエルストはその言葉に得心した。オーヴァートと同じ力を操れるのだから、先日のイシリアでのフラウナ処刑と同じような状態になるのは当然だな、と。
「でもさ、ドロテア」
「なんだよ」
「セツ枢機卿怒って馬車まで跳んで来たらどうする?」
 罠は巧妙で、必ずやセツに向かい殺人的に炸裂するだろうとエルストには解る。ヒルダとマリアはアレクスがドロテアに好意を抱いているところまでは解っているが、ドロテアに“女性に対する”思いを抱いている事は知らないので上手くいけばいいねえ、くらいである。
 そんなエルストの一言にドロテアは
「こき使うに決まってるだろうが、面倒な事に巻き込んだツケだ」
「払いきらないで増える一方か」
「なあ、エルスト」
「なんだ、ドロテア」
「パネの本名はなんて言うんだ?」
「エウチカ=クリューガード」
 何の躊躇いもなく戻ってきたその言葉に、ドロテアは“クリューガード”と口の中で言葉を繰り返し『なる程ね』と笑った。
「そうか。フェールセン人っても色々あるからな」

“まあそんな訳で金を渡したのさ”
“言えない相手なのか?”
“エウチカ……クリューガード”
“そりゃあ敬虔な信徒らしいお前の親に言えないな。中々立派な親孝行じゃないか”

**********

 下世話な噂話に花を咲かせようとアレクスの入浴・沐浴を窺いに来るものは相当数いるが、覗いた彼等・彼女等が生きて帰ったことは無い。尽くセツに発見され処分される。そしてドロテアが推察したとおり、記憶の処分も怠らない。
 エド法国は年に二度、花街の下水清掃を行うことは前にも説明したかもしれないがこの清掃にも意味がある。どこの花街でもそうだが、生まれて必要のない子などを下水に捨てる事が多い。ゴミとして出すと、当然ながら捕らえられるからだ。その代償は刑罰ではなく罰金なのだが、出来れば一円も払いたくないのが子を捨てる人間の心理。よって見えない場所に廃棄するのことになる、その最もな場所が下水。それを放っておくと疫病が蔓延する恐れがあるので、エド法国では態々法王庁が指示して下水を清掃する。その際捨てられている『不浄の子』を弔い炎で浄化しその灰は海に流すのが決まりなのだが……その灰の中にみつかってはマズイ記憶を持ったまま殺された人々の灰も混じっている。
 焼く際にバラバラにされた体もくべられているのだ。

 セツに死角はなく、そしてアレクスの性別を窺おうとする輩も後を絶たない。

 あまりセツを怒らせない方が良いようだ、ドロテアなみに

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 その後、クナとパネはドロテア達よりも先にギュレネイス皇国を旅立った、その際の馬車の御者はイリーナ。
 ドロテアはクナに礼を言うわけでもなく、イリーナとザイツと両親が礼を言いに来たが「大した事はしていない」と淡々として礼の嵐を通り過ぎた。
 イリーナは手綱を握りながら、遠くなる故郷を背に一度も振り返ることなく一路エド法国へと馬を走らせている。馬車の中で枢機卿と大僧正は先日見た、趣味の悪い見世物である処刑、そこにおいて絶対の恐怖というものを見せた男について語っていた。
「あの男は怖ろしいのお」
「セツ最高枢機卿にもお見せしたかったですな、あの司祭の恐慌状態に近い表情。むしろ、本当に恐慌していたかもしれませんな」
「ほんに、あれが皇帝から大寵妃を奪い取った男の本性なのじゃろうて。世の中の者というのは、存外表面しか見ておらぬのじゃな、妾もそうだが」
「あれほど巧妙に牙をかくされていれば、誰も気付きはしませんでしょうな。昔から牙を隠し続けていたのか、それとも牙をあの方が磨いたのか、今となっては判別は付きません」
「その言い方、知り合いだったのかえ?」
「遊び相手も少なくて……イシリアから移住してきた隊長も遊び相手が少なかった。お互いあまり遊び相手がいないので、人目を避けて遊んでいましたよ。そこによく混ざっていましたよ、思えば不思議な男だったのでしょうね」
 子供時代、人々に忌避される種類の子と何故遊んでいたのか? 今となってもわかるはずもない事だった。
「あれの事じゃから、気づいたのではないか?」
「完全に気付いておりました、変わった男だったのでしょうな、幼い頃は気付きも……しなかったわけでもないですな。昔はまだそれほど鋭さを隠しはしませんでしたからね、隠してはいないのかもしれませんがな」

秒針の音を聞き分けた男

鋭すぎる男というのも見抜けないものだ。鋭すぎて、見抜こうとする相手の態度すら見抜いてしまうから。
あの男は笑顔で騙されてやるのだろう

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 クナ枢機卿とパネ大僧正はチトー五世から処刑の席に招待された。
 ギュレネイス皇国で処刑は“男だけの楽しみ”とされている。クナはセツとは全く違う理由で『女だと知れている』ものの、現在の枢機卿は全員建前上「性別は不明」とされている。クナがハーシルによって位をあげられていた頃、前法王の代から枢機卿だったもの以外は「性別不詳」としていた為にクナもそれにならい性別不詳とされたのだ。
 パネは属している派はヒルダのロクタル派の対極にいるバリアストラ派。当然力のないロクタル派の反対側にいる派なのでバリアストラ派も力はない。無力に近い派の最高位であるパネなのだが、ロクタル派“未来”枢機卿と法王庁で噂になっているヒルダの登場によりパネもセツに近づかなくてはならなくなった。
 セツはヒルダをロクタル派の代表にしたならば、ロクタル派に便宜を図ろうとはっきりと言った為に反対の派であるバリアストラ派は焦りはじめた。そして、もっとも力のあるザンジバル派に近付かざるを得なく、結果セツの意思には従わなくてはならなくなったのだ。
 セツにしてみればバリアストラ派のパネなどどうでもいいのだが、来た者は最大限使うのがセツの流儀でもあった。
 そして今回クナが派遣を切望した際にセツがパネを選んだのはパネの派閥が無力であり、死亡してもなんらセツにもアレクスにもダメージはなく、尚且つパネが派を裏切る行動をとる事は無いと看破しての配置であった。派を元々裏切るような人物は、わざわざ苦汁を飲んでまで別派の者の配下につこうとはしない。
 話は戻るが一応「男性かもしれない枢機卿と大僧正」を処刑の場に誘うのは外交上必要なのだった。今回の事件で全くわからないままチトー五世の暗殺に関与してしまった者達の処刑。
 クナはため息をつき、
「前は大伯父上で今回は力ない女子(おなご)達か。妾は処刑に立ち会うのが仕事のようじゃな」
「私一人で行って参りましょうか?」
「よい。妾を女と知りつつもエド法国に顔を立てた司祭の意向くらい汲んでやるろうて」
「では」
 こうして二人は処刑場へと向かった。

 司祭との感情の一つも篭らない、そして礼儀的には非の打ち所のない挨拶をした後クナは席に着きパネは席を断り立ち見することにした。大僧正は枢機卿と同席することは決してない。それを知らない皇国側ではないが、席を離して準備したりすれば暗殺の気配ありとされ、座らないのでパネの席を準備しなければ法国を見下していると思われてしまう。
 要するに、座らない貴賓席を一つ準備してそこに座らない人がいることで万事が納まる。それが儀礼と外交と形式というものだった。二人とも、処刑を前に目を泣き腫らした女や、いまだ暴れる女、そして助命を叫び声がかすれてしまっている女などを見下ろし
「……案外綺麗じゃのぉ。悪名高い警備隊の拷問などを食らわなかったのじゃろうか?」
「思うに我等をこの処刑に立ち合わせる際、女性達に暴行された痕が生々しく残っていてはいらぬ報告をされると警戒したのでは?」
 偉い聖職者は当然ながら治外法権なのだが、民間人や普通の聖職者はその国の法律やその裁判官の宗教によって裁かれるのが普通であった。エドウィンがハーシルの処断の依頼書をドロテアに運んでもらったことが治外法権で、ヒルダがブラミレースを簡略裁判で裁いたのが民間レベルの例である。当然エドとギュレネイスもそのような取り決めなのだが、此処で警備隊が枢機卿や大僧正の前にあからさまに暴行や折檻など虐待された女性を処刑場に引き出し、それが報告された場合その事例を盾に「エド正教徒の尊厳を守る」と最高枢機卿が銘打ち『エド正教を奉じる民間人の治外法権』をギュレネイス皇国に求めてくるとも限らない。当然それをチトーは警戒する。
 パネは口にしたのだ。勿論それもあるが、もう一つ理由があった。
「じゃが、妾とお主がここに来る前に女子達は縛を打たれたはずじゃぞ?」
 普通は此処まで高位の者が来るとは考えてはいない。よって、多少の暴行の形跡はありそうなものだが、どう見てもそれらは無かった。もちろん、隠せる隠せないのレベルはあるが、それらを差し引いてもだ。
「……あの方達が関係したのではありませんか? あの方の妻が今回の総指揮だったのですから、あの方に慮って」
 パネは軽く衣を上げ、処刑場の出入り口をさした。そこにはやる気なさそうな灰色の髪の男が一人。
「成る程な。怖い、恐ろしい、態度が悪いなどと言われるが、悪名高い警備隊の拷問を当人の美しい威光一つで阻止したのじゃから、そのような悪口など凡百が口にしてよい言葉ではないな」
 そのもう一つの理由はドロテア。
 既存の権力者におもねる事をまったく顧みないでいながら、最高の権力者の庇護の元にあると考えられている、最も学者らしい学者であるドロテア。そのドロテアが記し、オーヴァートが直接目を通すであろう最重要報告書にそれらの事を書かれるのを恐れたチトーが、ギュレネイス史上最も多く女性を収監したのにも関わらず、それらの行為を厳禁し守られなかった場合はその小隊全員を処刑すると命じたのだ。不満を感じた警備隊員が大勢いたようではあったが、こればかりはどうしようもなく、またイシリア教国に任務で赴き無事帰還した学者と同僚がドロテアの名を口にしただけで頭を大振りして引きつけを起こす様をみて不服ながら従った。ちなみにイシリアでの『ドロテアによるオーヴァート暴行事件』は間違いなくチトーに報告されている。
「そうですね。それにしてもエルスト殿は何故あそこに居るのでしょうな?」
「エルストは警備隊員だったそうじゃ。多分、女子の首を折る人員が足りぬので手伝ってもらったのじゃろうよ。趣味の悪い事じゃ、そして断ればいいものを。その位、あの飄々として何を言われても堪えない男には簡単じゃったろうに」

 二人は処刑が行われる場所へと向かう通路の側に、背中を預けて処刑を行われる女達を黙ってみているエルストの姿を発見していた。だが二人は、いつもと少し違うエルストの外見上の変化に気づかなかった。
 気づいたとしても大して重要視しなかっただろう。エルストが伊達眼鏡を外して手に持っていることなど。

**********

 処刑場の外で入っていく人の波を遠めに、神父が祈りをささげていた。その神父の周りには三人の女。
「何を祈ってるの? クルーゼ」
 マリアがクルーゼに聞くと、落ち着いた声でクルーゼが答える
「彼女達が……安らかに眠れる事を」
 犯罪者として処刑される彼女たちに祈りを捧げるものはいない、捧げてはいけないのだ。
 ドロテアは煙草を咥えながら、今にも雨が降り出しそうな青空を見上げて無言でいた。辺りを見回していたヒルダは、ある看板に目がとまった。

『パネ大僧正はエウチカ=クリューガード』

「ねえねえ、クルーゼさん。あの建物の看板に書いている“クリューガード”って何屋さんですか?」
 大きい建物だが違和感を覚える造りの建物は、辺りを人がガヤガヤと行きかっていても何をするわけでもなくひっそりと静まり返ったまま。看板が出ているのだから、何かの店であることはわかる。ヒルダが指差した方を見ないでクルーゼは簡単に答えた
「“クリューガード”はギュレネイスでは処刑屋を指しますけれど。それが何か?」
“エウチカ”がフェールセン人を指す濁音のない四文字名前だとすると、ヒルダの頭の中で直ぐにその図式が成り立ち
「フェールセン人の処刑屋?」
「そうです」
「他にはあるんですか?」
「いいえ、一軒きりです」
 ヒルダは違和感を覚える建物を良く見て気づいた。一階には窓がないのだ一つも。
「何で、一階に窓がないんですか?」
 その答えは、完全に回答を知ってるヒルダの姉からもたらされた。
「そこに処刑器具が並べられてるからだ。あそこにだけは刃物がズラリと並んでいるらしいぞ、首切り用の斧とか、足切り落とし用の斧とか。軽い刑罰の場合はあの家でやる、手首の切り落としとかな。だから一階には窓がない」
 この国で刃物の武器が唯一置かれている場所。エルストとクラウスが最初の襲撃の際に「刃物はないか?」と言い合った、その刃物が多数ある場所。
「でも、見世物なんでしょう?」
「聖職者が立ち会えば見世物、そうでなければ不浄。ブラミレースもあそこで処刑されたんだ」
「あそこで?」
「見世物にしないとなればそうなるだろう。そして一度でもクリューガードに足を踏み入れれば、ほとんど聖職者としては扱われない。お前立ち会ったんだろ?」
「……はい」
「バカというか……でも良かっただろ。ブラミレースは止めただろうが」

“俺もバカだけど、お前もバカだなクルーゼ”

 やっていない罪を被って死ぬお前に比べれば、心中でそうは思ったが口に出す事はできなかった神父
「はい。でも一番の友人の死をせめて……それで神父として扱われなくても後悔はしていません」
「当たり前だ。ここで後悔していると言ったら、そのままお前も殺してやるよ」
「そうですね……」
「でも、聖職者が処刑屋に足を踏み入れたら聖職者として扱われないっていうのは何故?」
「体裁。処刑屋ってのは不浄な生き物なんだそうだ。不浄な場所に足を踏み入れれば不浄なんだとさ、それ以外の不浄は殆ど黙殺なくせして」
「くだらない世界ね」
「世界は繕えば繕うほど、無様になるもんなのさ。可哀想なモンだ、人々の為に処刑しているのに人々に忌み嫌われて、普通の生活が送れない。殆ど世襲制でさ、誰も継ぎたがらないから仕方ないんだろうけれど。どこの国でも処刑屋はそうだけどな。っとに、無残な犯罪で殺された被害者の親しい奴等がソイツの処刑を望む感情は否定しねえけど、それを行って死体を片付けて人々に嫌われている人がいる事を知らないのは、それもまた犯罪だろうがよ」

 寄越された書類通りに、犯罪者のはらわたを引き抜き、箱に収め死刑執行管理官の前に差し出し、軽蔑の目で見られる処刑屋。彼らは何か悪い事をしたのだろうか?

クリューガードは買物をする自由もない。
必要な物資は教会から届けられる。
クリューガード金を持つ事も許されない。
彼らが使った金を使う事を誰もが拒むからだ。
クリューガードを家に招いてはいけない。
その家が不浄になり、不幸が訪れるからだ。
クリューガードは街中を歩く自由すらない。

道が汚れるからだ。

敬虔なギュレネイス教徒だったエルストの両親に、エウチカ=クリューガードを家に招いて金をくれてやったなど言ったらどうなるか?
言わなくて正解だ

エウチカ=クリューガードに金貨を渡したエルスト=ビルトニア
彼が不幸になったか? と問われれば皆口を揃えて言うだろう

あの男は身に過ぎた幸せを手にしていると
身に過ぎた幸せは不幸であるか?
それは彼にしか解からない、エルスト=ビルトニアにしか解からない

そう……何故彼がエウチカを嫌わなかったのかも、誰にも解からないのと同じように


「質問していいですか?」
「なんだ、ヒルダ」
「どうやって世襲制にするんですか? 誰もお嫁やお婿に来たがらないでしょう、それだと」
「……嫌といえない相手がいるだろ。今そこで処刑される人々みたいにな」
「罪人を?」
「そう、強制的に送り込む。その犯罪者ってのも大体……死せる子供達の是非は問えねえなあ……」
あれは間違っていた、だが間違っている認識から抜け出す手助けになっていたのも事実

エウチカ=クリューガード、今の名をパネ

『ただなあ……どうも年数が合わねえんだよな。エルストより二歳上でクラウスが此処に着た時にはまだ居たって、クラウスが此処にきたのは二十年前だろ? アレクスが法王の座について今年で二十一年だから……エルストが間違ってないとすると。おや? 一番最後の死せる子供達はパネじゃねえよな……まあ良いか、アレ着てりゃあ中身はわからねえもんな』

エウチカ=クリューガードはパネですらない、だがそれでも生きている
そのヴェールの下で薄い青色の瞳で世界を見渡し、人々に偽りの名で傅かれているとしても

エウチカ=クリューガードが生きている事を喜んでくれている人が一人でもいる限り、パネという名の聖職者は生き続ける

**********

 笛の音がなり、楽隊が音楽を奏で始める。
「始まるようじゃな」
「そうですね」
 処刑される者は全員首に縄をかけられ、その縄が隣に立てられた台の滑車に紐が通されている。手首と足首と膝は縛られた上に膝まで土に埋められている。音楽が奏でられている間に処刑する男が二人組となり、処刑されるものの背後に回る。
 一人が首にかかっている紐をぎりぎりまで引くと、もう一人が手首の紐を切り落とす。
 苦しがり、首の紐に手を伸ばすと笑いが起こる。
「趣味の悪さには言葉もでませんな、枢機卿」
「そうじゃの、だが司祭がこちらを伺っておる。妾は目を逸らさぬぞ、あの司祭や警備隊員などに嘲られとうない。とかくこの女を下風に見る国でな」
「ご立派ですが、あまり無理をせぬように」
「パネは平気なのかえ?」
「私はギュレネイス皇国出身で、家はこの処刑場のすぐ側でした。首を折るのは処刑の花形で警備隊員の仕事ですが、他の軽い刑罰は処刑屋が受けます。処刑屋は刑場のすぐ側に住むのが常でしてね、人々に嫌われるので街中には行けませんし処刑屋の子供は処刑屋にしかなれません……それが嫌で故郷を飛び出したのですが、まさか十九年振りにここに戻ってくるとは」
「お主こそ、目を逸らしや」
「平気ですよ。今思えば私は故郷を捨てましたが、綺麗な言葉で言えば忘れたことはなかった。普通の言葉で言い表せば、どうなったか興味があった。私が捨てた家はどうなったんでしょうかね、と」
「左様か。お主が妾についてきた理由は、故郷をも見たかったのじゃな」
「そうなりますな。そろそろ楽が終わります、首の縄を引き体勢を正せている方は補助、あくまでも首を折るほうが主」
「ふん、人を殺したほうが上というわけじゃな? おや、エルストは首を折るほうらしいが……あれは何ぞ?」

音楽が乱れずとまった瞬間、観客の視線は一人の男に集中した。

「エ……エルスト?」
 誰もが処刑を忘れてエルストの方を見る、手に持っていた眼鏡がじょじょに大きくなり長い棒となった。だが、エルストを背後から見ていた者達は、突如叫び声を上げる。その棒をかざした時、エルストの持っていたものが棒ではなく巨大な鎌であることがわかった。それも刃にはあの『皇帝文様』が入っている。
「あれは皇帝陛下の御印!」
 クナが席から立ち上がり声を上げた。王族であったクナですら滅多に見る事のできない皇帝の印がはいった武器。
 エルストが口を開いた、何かを首を折ろうとしていた女に問うていた。女は驚いたような表情を浮かべ硬直した。エルストは再び女に問う、女の表情が死を迎える以上の恐怖をたたえ始めた。その表情をみて、騒いでいた男たちが声を押し殺し辺りはこの処刑の場にはありえない静寂に包み込まれた。そして再び同じ事を女に問う
「グラーニャ。お前は俺に言ってはいけない事を言ったんだ。それが何だか解るか? これで三回目だけど、思い出せないか? 」
 喉元にあたる鎌の刃、そして決して大きくは無いが通る声。エルストの声はドロテアも褒め、セツも褒めた。その声が淡々と、淡々過ぎる程の口調で女に問いただす。
「解らないって言ってるでしょ、エルスト! 助けて! お願い! 私あなたの事が」
「“奥さん凄く怖いんだって?”“物凄い怖いって噂、流れてるわ”“……怖くないの? 本当に?”“そうね、でも……何であんな人と?”一言一句間違っていない筈だぞ、グラーニャ。“あんな人”ってどういう意味だ? 言ってみろ」
 グラーニャの首の紐を持っていた男が、それを放し後ろ弾かれた様に飛ぶ。エルストが持っている鎌が異様な光を発し始めた。
「あ……謝るわ! あなたの奥様の事悪く言ったの……」
 グラーニャは自分“だけ”は違う罪状で殺されようとしている事にやっと気が付いた。自分は、司祭の暗殺未遂の共犯者という理由も解からないままに処刑されるのではなく、確りとした理由がある事を理解した。それはあまりにも利己的な理由だが、
「この鎌は皇帝がドロテアに仇なす者を『お前の判断で刈れ』と寄越したものだ。死を与えるものなんてのは範囲に入らない、だがグラーニャお前は範囲に入るんだよ」
 世界を滅ぼしても良いと認められていた理由でもあった。誰も知らない、だがその場にいた誰もが理解できる理由。
 言いながらエルストは司祭を見上げる。カタカタと震え、壊れたように涙を流す女を腕に抱いたまま
「クロード、あまり足止めしていると俺は貴様を殺すぞ。今すぐ許可を出せ!」
 鎌を振り下ろし、衝撃刃が司祭の脇に立っていたクラウスを掠める。その衝撃を受けた刹那、処刑される者達が埋められている地面が鎌と同じ色に輝きだす、そして建物全体も。エルストが片手を空に向けた時、空も色が赤紫色に変わり。
「皇帝はこの地上にドロテアの美しさを理解できぬ者が生きていく場所は無いと言ったのさ。さよならグラーニャ、俺はお前の事なんとも思っていないから。殺すのに罪悪の欠片もない。あるはずないだろ?」
 手を離し、体勢が崩れた女にエルストが振り下ろした鎌は“縦”に女を切り裂いた。叫び声すら聞こえない彼女の死体から流れ出す血の臭いが一瞬にしてあたりに充満する。ヒクリヒクリと動く、地面に刺さったまま二つに裂かれた体を後に、鎌が発生させる赤い風にあおられる臙脂色のマントは、何時もよりも色が鮮やかだ。バサバサと音を立てているマントと、再び司祭の前に突き出される鎌。ソレを前にクラウスは動くことが出来なかった、目の前にるエルストという男は間違いなく自分の知っているエルストではない。
 そこにいるエルストは“死を与えるもの”など比べ物ならない程。

フェールセン人、それは皇帝が作った人間

 ドロテアが邪術を施されたエルストを見分けられなかった理由。それは良く似ているからだ、存在そのものが

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「なっ! 何? この色」
 地面や建物が次々と発光し
「街全体が赤紫色になって」
 異様な熱まで持ち始めた。首都全体が恐怖にひきつったような声を上げる中
「攻撃色だ。それも……」
 一人空を見上げながら呟く。姉の声に振り返ったヒルダは
「姉さんの手甲も!」
 驚きながらも、場所が場所ゆえに気付いた。
 ドロテアは確りと肩から手間ではめている手甲をじっくりと見つめながら、
「誰かが命じたんだ」
 はっきりと言う。
「何を?」
「処刑を。まあ……この場所で俺の手甲以外にフェールセン城に命令できる皇帝金属なんざ一つしかねえよ。っとに、オーヴァートの野郎め、どれだけ馬鹿なことしやがった! そして……何乗ってんだよそれに! らしくねえだろ、やる気なしが」
 苦笑いをしながら、眼鏡を治すような仕草をする。その仕草はとても似ていた、よく見ているからだろう何せ自分の夫の仕草なのだから
「もしかして、エルストの眼鏡……あの嘘つき! 詐欺師!」
 イローヌ遺跡の前でドロテアの手甲程の力は無いとマリアに向かって言っていたのだが、この状況はドロテアの手甲に勝るとも劣らない威力。
「あの馬鹿、何にそれほど腹を立てたんだろうな。全く……よぉ」
 ドロテアは自分の赤紫色に変色した手甲を見ながら軽くため息をついた。

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「エルスト! エルスト殿! 今、すぐっ!」
 チトーの焦りの声をどこか一人冷静にクラウスは聞きながら、処刑の途中だが「今から準備して参ります」とその場を退出した。
 一人グラーニャを処刑し、クラウスから墓を参る許可書類を貰ったエルストは鎌をいつもの眼鏡に変えて、処刑場所の出口に立ち振り返り
「早く処刑しないのか? お前たち俺より気は強いだろうし、才能もあるじゃないか。皇帝のお下がりの女を貰った男に負けるのも癪だろ?」
 そう言って立ち去ってゆくエルストの姿が見えなくなるまで、警備隊員達は動く事ができなかった。

エルスト=ビルトニアの真価を知っているのは、オーヴァート=フェールセン

 エルストは処刑場から出た足で、クルーゼを連れてブラミレースの墓参りに向かったのは言うまでも無い。マリアもヒルダも、その場にいたドロテア以外の誰もがエルストに対して何の質問もしなかった。ドロテアは一言
「お前が殺したのはグラーニャか?」
 エルストも一言
「そうだよ」
 と答えただけ。

 エルストはクリューガードの家に向かって軽く手を振った。そこに人影は見えたが暗くてよく解からないがただ頭を深く下げていたのは解かった。
 着衣から女性なのは見て取れたが、それがエウチカの母親なのか姉なのか何なのか、ドロテアは聞き返しはしなかった。

雨がひどく降っていたから

 空も大地も下の色に戻った後、ギュレネイスでは考えられないような、他のどこでも考えられないような熱い雨が降り注いだ。
 色濃い虹の下、色とりどりの花を持ち堂々と罪人の墓へ向かって歩いていった美しい女達は『女神』にも見えたという。その女神にも似た女達に付き従った男は、威厳も恐怖もなにもない何時ものエルスト

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「あの時の司祭の表情は見物じゃったが、エルストの表情は二度と見たくは無いの……」
「あの後の処刑は殆ど遊戯でしたな。処刑とは恐ろしい物ですが、あれ程観客が恐れ慄いたのは初めてでしょう。そして殺害する警備隊員達があそこまで恐怖を浮かべた顔で殺すのも」
「誰もが大寵妃の悪口を言っておったのじゃろうて。ほほほ、愉快じゃ」
「そうですな」
「ところでお主は家族には?」
「いいえ、会ってはきませんでした。私は死んだ子供ですから。処刑場の側が家なので、見かける事はできましたがな」
 年老いた母親の姿。偶々クリューガードの家に生まれてしまったがために、犯罪者の夫を持つこととなった。全てを嫌って故郷を捨てたが、母親は嫌いではなかったんだと、今ならば言える。そして犯罪者だった父も。成長して調べたのだが父は重犯罪者ではなかった、考えてみればそうだ、血に餓えた犯 罪者など生かしておくわけもない。父は犯罪者ですらなかった、不正を暴こうとして権力に負け、そして処刑屋に引き渡された。
 昔は嫌いだった、何故両親共に仲がよいのか……だが、今ならば解かる気がする。
 これほどまでに離れてしまっては理解もなにもないのかも知れないが……長生きしてもらいたい。本来ならば金などを送り楽をさせるのが筋だろうが、生憎実家に金を送っても何も変わらない……どうしたものか? などと考えていると
「そうかえ。じゃが、この馬車を操っている娘はたまには故郷に返してやらねばの。だがドロテア卿に聞いたところ、この娘と知り合った原因はやはりギュレネイスらしく男の狼藉者共に襲われかけたのをマリアが助けたのじゃそうだ。よって故郷に返すには、それなりの隊を組むべきじゃろうな。それに妾は処刑屋に足を踏み入れたくらいで聖なる資格が失われるとは思わんぞ」
 断続的に続く車輪の音の中にたまに響く手綱と鞭の音。
「その役、このパネに引き受けろと?」
 言いながら、パネ大僧正はうなずきながら目の前にいる王族枢機卿が思っていた以上の度量のある人物である事を思い知り、
『やれやれ、ザンジバル派は人が多くて困る……』
 でも多分、このまま何もしないで私と父母はつながりが失せるのだろう……それもまた仕方の無いことなのかもしれない。それを後悔するには私達はもう遅いのか、それともまだ整理がつかないのか。
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