クナは出来ることならば逃げ出したかった。
『冗談ではない! と叫びたいのお……無理じゃが。小娘を前にして泣き言をなんぞ言え……もしかして卿はそれを狙ったのか?』
目の前で恐怖に耐えて盾を構えている娘の後姿さえなければ、卑怯だと言われようが何と言われようが逃げ出していたに違いない。目の前で、炎をかわし続ける盾を持ったクリシュナの後姿は、ずっと震えたままだった。小刻みに震え続けながらも決して逃げようとはしない。
クナは死ぬのは怖い、死後の安寧を説いていても自身が死ぬのは怖いのだ。いや死後は怖くは無い『死ぬまでの間』を想像するのが怖いのだ。周りで炎に焼かれ呻き声を上げる者達の姿を、できるだけ見ないようにしてクナは虫が飛ばないように縛り付ける。出来る事ならば縛りつけなどせず、どこかに飛んでいってもらいたかった。
「娘よ、退いても構わんぞよ」
「嫌です! 絶対に引きません!」
甲高い少女の声。何一つ自分の身を守る魔法をかけていない少女の決意に、クナは覚悟ではなくヤケに近い気持ちで叫んだ
「頑固よのお……ならば其方の働きを期待して、妾は自らにかけておる魔法を解いてその力も“あれ”にぶつける。良いな! 守れよ!」
自分にかけている防御の魔法をも解き“死を与えるもの”にもっと圧力をかけ、炎を吐くのも億劫にしてやろうと
「はい!」
少女の震えながらも確りと言い切った声にクナは魔法を解き、別の魔法を唱え始めた。
**********
突然“死を与えるもの”の周囲に円が振ってきた。魔方陣を書く際に用いられる規定円である。魔方陣の大きさを決める為に最初に引く円、その突然さと『降ってきた』事実から上を見上げると、ドロテアとヒルダ、マリアとエドウィンにビクトール、そして何故か付いてきた盗賊達が目に入る。ドロテアが四方に他の人を下ろし、当人は少し下降し叫ぶ
「貴様等全員で、この翅を切り落とせ!」
クナが必死に捕縛している原因でもある翅、ドロテアはソレを斬れと指示をだす。聖騎士も警備隊もみな“死を与えるもの”を倒そうそとしていた。その無謀さにドロテアは呆れつつも、楽しかった。無論最初から『倒せない』と言っていけば被害は最小限になる……訳でもない。最初から敗北を教えてしまっては人は立ち向かわない、勝てると、倒せると信じてなければ人は決して立ち向かうことはできない。中には稀に『無理だ』と言われても立ち向かえる人間はいるが、それは少数だ。
相手の力は強大だ、勝つつもりで戦わなければ引き分ける事すらできない。
「なに呆けたツラしてるんだよ、飛行呪文を唱えて切るんだよ。飛べないヤツは援護に回れ。俺は同じ事は二度言わん、解かったな!」
「かしこまりました!」
「だたいま!」
指示を出す隊長格から離れ、治療にあたっているパネに声をかける
「パネは魔方陣が描けるな! 他に描けるやつは? よし、三重円を描く最外がウルガバスキ、次が炎獄、最も側にゲバードの大地だ。炎獄は俺が書くから他のを適当にお前らが書け、間違っても上下を間違うなよ、ウルガバスキをな!」
「了解した」
重傷の者の治療を終えると、パネは三人の聖職者と共に立ち上がり互いの掌を向かい合わせ、なにやら唱え始めた。すると手の間に呪文が流れ出す
「立体呪文? ってやつなの、あれが?」
「魔法磁場と似てますが、非なるものです。炎獄は一番難しいらしいですよ、私は詳しくは知りませんが、立体呪文というのは小さな世界を中心から切ってそこに呼び出すようなもので、対象物の“どちらに”出すかを間違うと大変な事になるんです。大体は対象物の下方に小さな世界の下方を設置するんですが、偶に間違って対象物の上方に上方を出してしまって無意味になる事があるとも聞きました。何にせよ、難しい事ですし聖職者にはあまり馴染みはありません」
「でもあの大僧正は得意のようだけど?」
「バリアストラ派は知性にして魔道の派閥ですので、知っていて当然なんですよ。でも知ってて良かったですねパネ大僧正。知らなかったら今頃、地面に這わされてるに違いないですよ! それに姉さんバリアストラ派嫌いですし!」
「そうね……大僧正くらいなら間違いなくそうされるわね……」
マリアは昔……そう、この旅について来るまではエド正教の大僧正さまは偉いと思っていたのだが……この旅のせいで段々と聖職者の地位が下落した。もちろん法王に対しては前以上の敬意のような物を抱いているが(ただしドロテアが言う事を聞いた、という事実に起因している)他の聖職者は……。そんなマリア内部において価値が下落の一途を辿っている聖職者ではあるが、パネは実力者であった。
眼前で繰り広げられる戦いの中ドロテアが引いた規定円の中に呪文を魔力で書き付ける。直ぐ側でドロテアも両手を広げ掌を合わせ煙草を咥えたまま、その開いた手の間に呪文を書き付けてゆく、視線に気付いたドロテアがパネの方を少しだけ見て煙草を口から吐き捨て、それを踏みにじりながら手の間に浮かんでいる呪文を規定円の中にたたきつけた。
「遅ぇぞ。ソイツは簡単だろうがよ」
それだけ言うと、ドロテアはその場を駆け出しつつ飛行呪文を唱え飛び“死を与えるもの”の方へと飛び去った。
「よくあの速さで間違いなく描けるものだ。セツ最高枢機卿が一目置き、皇帝が愛してやまない訳だ」
ドロテアから遅れる事三分、パネとその配下の聖職者達が呪文を書き終え設置した。ドロテアは“死を与えるもの”の上から円に書かれた呪文の間違いがないかどうかを確認する。
「よぉし、間違いはねえようだな。後は石版の起動威力とヒルダに任せるか」
言いながらドロテアは魔法を唱え翅を斬りつける
「意外と硬いじゃねえか。当然と言えば当然か」
思っていた以上に切り込みの入らなかった翅の付け根を見下ろしながら、再び魔法を詠唱しはじめた。
**********
恐怖……というのはそれだけで人を疲労させる。装備しているものは敵の力を感じることはない、全ての力を受け流す事ができる盾を持ちながらクリシュナは疲労していた。盾は確かに持っている力だけでよかった、そこにどれほどの炎が当たっても盾とその周辺を避けるかのように通り過ぎる。熱さを少し感じる程度だが、全く身の危険は感じない。だが、怖ろしかった。眼前の盾から目を離し横を見れば先ほどの炎や熱波で皮膚が剥げ爛れた者が目に入る。それを助け、治癒し再びその者は戦いに赴く。
クリシュナは自分にはそんな事はできないと恐怖した。一度でもあのような火傷を負えば、治ったとしても敵の前に出る事はできないと。盾を持つ手に力が入る、背後で自分を信頼して全ての防御魔法を外し目の前の“死を与えるもの”の捕縛に全てをかける枢機卿がいる。逃げる事は出来ない、だが緊張と恐怖で既に顔色は青ざめ、冷や汗すら既に出ないほどとなっていた。その炎の攻撃の合間に
「クリシュナ」
聞き覚えのある、いつも安心させてくれた主の声が聞こえた。振り返ると
「エドウィン様」
そこには何時もながら穏やかな表情を湛えたエドウィンが立っていて
「よく頑張った、クリシュナ。私が変わろう、いや私にやらせてくれないか?」
「は、はい」
硬直した手を急いで引き剥がす。緊張していたと、恐怖していたと知られたくはなかったが
「娘よ、緊張している事も恐怖している事も恥ずかしいことではないぞよ。なあ、イシリアのエドウィンよ」
「その通り、当然だ。クリシュナ、隠れていてくれなか? 私は絶対に話さなくてはならない事があるから、生き延びてもらわねば困るのだ」
エドウィンはクリシュナの指をゆっくりと離し、一回ほど炎を見送ってクリシュナの背中を押した
「大儀であったぞ、娘! ゆくぞ! イシリアの!」
「はい、畏まりました」
**********
ドロテアが虫と人との格闘を見下ろしている姿は、冷たいようなバカにしているような視線を投げかけているようにも見えるが、実際は機会を窺っていた。
『残り四枚か、どうだ? これで引き込めるか? あの翅の構造と虫の筋力念の為に後一枚切ってから……それとも二枚か、だが二枚切っている間にもう一枚が生えそうだ……時間差で間に合うか? だが呪文を起動させるのに時間がかかる、その時間の誤差で翅がある程度の形状を取り戻したら……覚悟を決めるかっ!』
普通の人間ならば「かわってくれ!」と言いたくなるような判断を、ドロテアは心中で一人下し、叫ぶ。
「貴様等! 後一枚だ! 全員で一枚の翅を切り落とせ! そして切り落としたら即座に円の外に出ろ! 中にいて死んでも俺は責任を負わん!」
重複するがドロテアの策は何段階かに分けられる。まず移動用の翅を切り落とし、足がその身体の重量を支えられないようにする。“死を与えるもの”が移動をしなかった事から足が弱いことは推測される。もともと移動する事をしない性質であるかもしれないが、移動をしなかった事実と移動する際に翅を必要としたところから、全く見当違いではない。
三重の魔方陣を敷く。通常の魔方陣は『円』全てに魔法が記され、発動する。立体型は人目に触れる面としては三重に、大きな円の中にそれよりも小さな円を描いているように見えるが、その部分が立体として立ち上がる『球』の魔方陣。
それを三重にして機会をうかがう。最初の最初に魔法陣を開く魔法を使う。
その後虫を吸い込む力のある空間を開く、引き込まれまいと足と翅で耐えるだろう虫。その虫の弱い足に多大な負荷をかけるのが目的だ。もちろん、それで落下してしまってくれれば楽なのだが、それを期待するだけというのも作戦としておぼつかない。
足の劣化を招いたと判断し、その空間を閉じ次の空間を開く。炎獄と呼ばれる全てのものを焼き尽くす紅蓮の世界、炎の精霊神の力の余ったものが集まった世界だといわれている。炎系の魔法を使うのはドロテアの得意とするところだ。その炎の中に落す、落ちて神の残り香で焼き尽くすつもりでいた。焼ききれるかどうかはドロテアでも解からないが、後日焼ききれていなければシャフィニイに依頼して処分してもらうつもりではいる。異次元に放り込んだからそれまで! というのはドロテアのキツイ性格上納得がいかないらしい。ウルキガバスは風の精霊神の支配する世界なので落ちられたりしては確認ができないので、ドロテアとしてはできれば落ちて欲しくはないところである。上の工程を二度繰り返し、好機を見計らって炎獄に叩き落し最後にそれらの球形の魔方陣を全て閉じる。
これらの魔法はパネが魔法陣を書いていた時のように人びとが連なり、円形を描き発動させるのが主な方法なのだが、幸い石版があったので大きな立体魔法陣の側に小さな制御魔法陣を作り上げ、ヒルダ一人に制御を任せる事とした。
ただ、ヒルダから流れる魔法の量(石版を見つけた際に円柱の上にあったのは、円柱が魔力を放出していた)がかなり多い為、作戦には何よりも早さが必要であった。
「切れました!」
最後の一枚が切れた勝ち鬨にもにた声をクラウスが上げる。ドロテアの命令を遂行したという点でギュレネイス側が勝利したと見て間違いはない。
「よくやった! クラウス! 全員退避! ヒルダ! 行けっ!」
「はいっ!」
行使円に入り、第一の呪文を石版に吸い込ませる。辺りが開く“音”に包まれる、轟音とも違う振動する音、それを聞きながらヒルダは次の魔法を起動させる呪文を吸い込ませた。先ほどまでの音とは全く違う音と共に“死を与えるもの”の咆吼が響き渡る。円の中にあった翅や死体が一気に吸い込まれてゆく。
「よぉし、足の弱さは想像以上だ! これなら簡単に引き込まれるな」
翅で飛ぶ事は不可能、足で身を支えるのもギシギシと甲虫の外骨格が軋みを上げる音も、その中に混じる。
目の前で起こっている状況に驚きを隠せないでいたエドウィンにドロテアは近寄り
「エドウィン、その盾寄越せ」
「はい」
「パーパピルス体術でも見てろ、小娘と枢機卿と一緒にな」
悠々とその身よりも大きな盾を右手に持ち、ドロテアは炎と戦っているマリアと石版を持っているヒルダに向かって歩いていった。未だ頭部は地表に平行である“死を与えるもの”は炎を口から吐き、この魔法陣を起動させているヒルダを殺害しようとしていた。『貴女くらいは』魔法の知識があると嘗ての持ち主が言っていたのだから、その事に気付くのは早かった。そして、運悪く虫の顔の真前に行使台は設置されていた。書いた時は“死を与えるもの”の顔の右脇だったのだが、相手は動く物いつの間にか、正面を向かい合った状況となっていた。
フォォンフォォオンと炎を吐きだす音が響くが、ヒルダが動く気配はない。この種の魔法は一度行使したら、簡単には捨てられない。もちろん死んでしまえば放棄した事と同じになるのだが、そこら辺をヒルダは信頼していた。ヒルダの信頼通りにマリアが、虫とヒルダの間に立ちふさがる。
あの臙脂色のマントを脱ぎ左手に持って、右手に短槍を持つ。炎が噴出されそうになるとマントで防ぎ、炎がなくなれば縁にかかっている足に短槍で攻撃をする。そしてグォォン! という音と共に盾で虫の足を潰しながら魔の舌を支配できるだけ出して、ドロテアは虫の口に攻撃を加える。炎が出てくるギリギリまで虫の口内を破壊する、そして炎が出てきてきたら盾でかわす。
「その程度の炎で俺を怯ませようってのは、無謀だったな」
世界で唯一聖火神の炎を使う女は、そういいながら再び虫の口内を破壊しつつ、足に攻撃を加え始める。
「よう、あれ程側まで寄っていって戦えるもんじゃな。度胸と場数の違いかの?」
度胸というか、ドロテアの態度を度胸という言葉だけで括ってよいものかどうなのか? 初めて見るのがドロテアではクナの考えも間違ってしまうに違いない。
「怖くないもの……なのでしょうか?」
同じ盾を持ちながら、恐怖で一歩も踏み出せなかったクリシュナは
「さあ、ただ我々は怖いな。彼女に何かあったら、この戦いは敗北で終わるから」
「そうですね」
「だが勝つだろう。全く根拠のない事だが、負ける姿が想像できないよ彼女達は」
翅を切り取った勝利者である
「加勢しますか? クラウス隊長」
部下が質問してくるが、踏み出せないでいた。協力するにもドロテア達は一切軍事行動を練習した事がない為、全くクラウス達と足並みがあわないのだ。単体戦を得意としている二人の側で集団戦闘を繰り広げても無駄である。特に戦っているのがドロテアである以上
「どうやって加勢する気だ……側に寄れば邪魔になるだけだろう……」
それでも何となく真面目な男は加勢しようと近寄ってきた
この状況で特筆すべきはエルストがいない事に誰も気付かない、否、エルストがいない事にクラウス辺りは気付いているから言いなおそう。この緊迫した状況下においてエルストがいない事を誰も重要視しないというか、疑問に思わない、むしろ居なくても誰も困らないと考えてしまう所にエルストのエルストらしさが確かにあった。
要するに、居ても居なくても大差なし……という認識。エルスト当人にとって望むところである。
魔の舌を“死を与えるもの”の喉奥に差込、炎が作られる臓器を探り当てそれに傷をつける。人間でいう肺の部分にそれらの機能が備わっていると考えるのが最も妥当であり、そこまで潜りこませて、傷をつける。
「おいっ! もう少し下がってていいぜクラウス。危ないからな」
が、ドロテアの指示の元後退を余儀なくされた。
「ヒルダ、次!」
ドロテアは指示を出しながら、足を叩き壊す。外骨格が潰れた足が二本が縁にただ置かれている。指示を受けたヒルダが再び呪文を吸わせる、炎の世界・炎獄だ。炎獄の無風状態に体勢を立て直した“死を与えるもの”は飛び上がろうと足を離しかける
「今ですね!」
ヒルダはその姿を見てゲルシータで再び“開く”。急激な変化に体勢を崩した虫は、仰向けになり吸い込まれかけた。地上の“縁”に足も届かず羽ばたきもつかえない、虫は本能に近い判断で先ほどまで攻撃に使っていた触手を伸ばし地上の縁に、まだその身体の一部を残す。それをみて、ドロテアとマリアは顔を見合わせ頷いて、駆け出す。縁にしがみ付いている触手を切り落とすのだ。吸い込まれる威力のあるギリギリの所で触手を切り裂く。『ここに落すのが目的』と虫が思う程に。
触手自体は斬るのは簡単だが、何せ数が多い。それをみて、他の者達も加勢に向かう。邪魔だとは言わなかったが、必要ないとドロテアは思っていたに違いない。全体を見回し、今だっ! とドロテアは最後の指示を出す。
「ヒルダ! 最後だ! そしてエルスト!」
誰もが大聖堂でのんびりと待っているんだろう、とかその程度に考えていた男の名前が切り札のように呼ばれた
「エルスト?」
クラウスがあたりを見回しても、見えない。だが硬質の物体が斬れる音がした、目の前で“死を与えるもの”の翅が全て切り落とされ、真上に飛び上がる。
光神は光の屈折度を変化させ透明化させることが出来る。
「ハルタス! 解除。行くぞ! エルスト!」
飛び上がってきたドロテアの手を掴み、エルストはドロテアの全身を抱きかかえる。それと呼応するかのように炎獄が開く、
「炎獄に落ちるにはちょうどいい魔法だ! 食らえよレーサント・ラグ!」
ぶつかれば周囲に広がる炎の魔法は、沈みかけている“死を与えるもの”の身体にぶつかり反射して、次々と触手を切り落とす。
「閉じろっ!」
上から見ているドロテアからは、まるでスローモーションのように見える“死を与えるもの”の落下していく姿。
「もう一息くらい魔法で押す。抱えてろよ」
「はいはい」
ドロテアが最後の“とどめ”とも言うべき魔法を、収束し閉じてゆく穴に浴びせかけようと両手で円を作り立体呪文を書き始めた。
「マリアさん! どうですか!」
「風が凄くて見えないんだけど、多分半分くらいは……でもなにこの、地面から吹き上げる風は!」
「収縮風です。そろそろ内収縮を起こすんで穴の方に吸い込まれるはずです、気をつけて下さいね。規定円の中に入らなければ大丈夫ですけど……もう少し力をこめて、早く閉じちゃおうかな」
最早姿の片鱗すら見えない“死を与えるもの”に安心して、ヒルダはその部分を急いで閉めることにした。判断としては間違っていない
「よぉし……この魔法で……エルスト!」
確りと両手でドロテアを抱えているエルストに、鋭さではなく焦りの声で肘でその方向を指す。言われた方向を見た時、すでに遅かった
「クラウスッ!」
背後から部下に突き飛ばされたクラウスの姿が、ドロテアとエルストの視線に確りとはいった。落ちてゆく虫と同じように、怖ろしい程緩慢に、だが手の施しようがない。突き飛ばした男・フラウナは二、三歩後退りした後振り向かず駆け出す。叫び声が上がったのはその後の事だった。
せめてもの救いは、ヒルダが収縮速度を上げていたので“地表”となっている部分が多く、それにしがみ付くことができ収縮に吸い込まれるまでの時間が延びた事だろう。
「ヒルダ! 開かないと! クラウスが落ちちゃうわよっ!」
何とか声を出したマリアに、ヒルダは手の中の力を最小限に抑える。
「開く呪文がないんです! 姉さん余計なものは渡さないから! 開く……じゃなくて無効かな? か、書くって書くって……此処で石版を離したら魔法が……誰か! っても間に合わない……えっと! マリアさんコレを持ってください!」
これほど大きな魔法を途中で放棄しては危険であり、焦って間違った呪文を書くのも危険である。
「え、ええ! 解ったわ」
マリアは槍とマントを投げ出してヒルダからそれを受け取り、石版をかざした。それを見もしないでヒルダはマリアが投げ出した槍を持って駆け出し
「クラウスさん! 大丈夫ですか!」
規定円ギリギリまで近寄り、槍を差し出す。
「掴ってください!」
叫ぶものも、槍が短槍だったのが敗因と言うべきかクラウスの腕力がなかったのが敗因と言うべきか、クラウスはその槍を掴むことが出来なかった。両手で必死にしがみ付いても、もうはがされそうな程。
「ドロテア! 」
「好きにしろ、エルスト」
手に持っていた魔法を放棄したドロテアは、両手でエルストの首と後頭部に掴った。その容赦ない掴りの感触を首と頭部と頭髪に感じつつ、エルストは両手を離して、ドロテアの左腕を掴む。
「全知にして万能なるフェールセンのゴルドガラバナに拠るべき 」
轟音の中ドロテアが聞き取った、エルストの古代邪術の詠唱。その直後、ドロテアの左腕を掴んでいたエルストの腕から黒い“魔の舌”のような触手が溢れ出し、地面を這うクラウスに突き刺さる。その黒い蠢くものが溢れ出している手から、首から手を離し黒い手甲を纏った腕を引き抜いて
「随分と見たことのない邪術だな」
「そりゃまあ……ね」
ドロテアはエルストを蹴り、その反動で小さくなっていた収縮風から逃れ地面に降りた。
「ヒルダ! 閉じろ!」
蹴り飛ばされたエルストも、その反動で地面に転がり落ちた。腕から生えている黒いものでつながっているクラウスも、血を撒き散らしながらエルストの勢いに引かれて地面を転がった
「はいっ!」
無事魔法を唱え終わった後に残ったのは、疲れきって座っていながら眼光鋭いドロテアと、自分で術を行使していながら血を流しているエルストと、それを食らって血が流れているクラウスと、石版を天にかざしているヒルダと
「終わったのかしら?」
やっとの終決に息を吐きながら、疑問を口にしたマリア。そして未だ勝利の実感の湧かない生き伸びた人びとと、死んでしまっている人びと。
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