ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【17】
 “よく言えばのんびり、悪く言えばやる気がない”“何を考えているのかわからない”“真面目さが足りない”その位が他人がエルストに対する評価だとマリアでも知っている。それが正しいか? となれば違うような気はするのだ、マリアも。だが、何が違うのか? と問われれば答えられる自信はなかった。
「警戒してくださっているのでしょう」
 マリアとエドウィンが結界越しに話をしている、側にいるのはクリシュナ。クリシュナがどうしてもエドウィンと話をして欲しいとマリアに頼んだ結果で、近くに人はいない。そんな中二人で話始めたのはエルストの事。マリアは始終エルストがクラウスと一緒にいる事を少しだけ不思議に感じていた。あの不真面目が服を着て煙草吸っているようなエルストが、規範重視のクラウスと立場は違えど一緒にいるというのが不自然に思えたからだ。勿論、幼馴染だという事は知っているが、幼馴染だからといって成人し別々の道を歩み性格上まったく接点のない状態で一緒にいるのか? そういった類の事を聞くとエドウィンはあっさりと“警戒している”答えた。
「え?」
「クラウス=ヒューダ、彼は元々ゴールフェン人です。チトーはゴールフェン人の亡命者を増やす為にゴールフェン人を厚遇する政策を打ち出しました、その広告塔がクラウス=ヒューダです。私が見ている分には彼は実力もありますが……彼自体はそれほど上手く立ち回り出世するタイプではないはずでしょう、だが彼はその実力と亡命者という過去から警備隊長という皇国の最も華やかな地位につけられ、広告塔となった。そんな彼に嫉妬する輩は大勢いるはずです」
「そうでしょうね」
 逆にクラウスが実力なくあの地位についていたならば、そう嫉妬もされなかったに違いない。ただ、司祭の腰巾着だと言われて司祭共々軽蔑されただろうが、そこら辺りはチトーだゴールフェン人の中でも最も才能があるクラウスを抜擢した。
「ビクトールから聞いていたのですが、チトーはドロテア卿を説得し何としてでも王学府の本拠地を皇国に置きたがっているそうですね」
「そうなのよ。唯墓参りに行っただけなのに、中々許可をくれなくてね」
「許可? ですか」
「そう、前に悪い事した……訳ではないんだけれど、いろいろ合って死刑にした神父の墓参りに行こうって前々から決めていたのよ。で、立ち寄ったら“これ幸い”と中々チトーが許可をくれなくてね。ドロテアの性格上、直ぐに許可を出した方が説得の糸口になるのに。それを知らないんだから仕方はないわよね。教えてあげる気もないけれど」
「成る程。それで、クラウス=ヒューダの事ですが、この場で彼を殺害して出世の糸口を掴もうとする者がいないわけではない……そう考えているのだと思います」
「クラウスを殺して出世って?」
「チトーもそうですが、ギュレネイス国内においてドロテア卿の性格が良くわからない者が多い、それが危険なのです。ドロテア卿に失策の咎を負わせてオーヴァート卿を呼び寄せさせる、という事が本気でできると思っているのだと」
「はぁ? どういう意味?」
 マリアの奇声は最もだろう。
「クラウス=ヒューダの死がドロテア卿の失策による物、よってドロテア卿は失策をあがなう為にオーヴァート卿を呼び寄せて欲しいというチトーの要請に応える。その下地を作った事でチトーに評価され出世できる。そのような歪んだ考え方を出来る人間がこの世には大勢います。クラウス=ヒューダはチトーの直轄の配下ですから」
「それって聖騎士団で当てはめると、ハッセム隊長がドロテアの失策で任地で死亡させてしまったのだからオーヴァートをエド法国に居住させろ……ってセツ枢機卿がドロテアに向かって言うようなものなのかしら?」
 そうなるのだが、当然聖騎士団側はそんな事をしない。
「そうですね」
「本当にドロテアの性格を解ってないわね。そんな程度で取引が成立する相手だと思っている時点でおかしいわよ、皇国の女性ならまだしもドロテアよ」
 聖騎士達はドロテアの性格に僅かながらに触れた事があるからそんな事は到底考えない。敵地に勝手に向かった勇者達を「見捨てて生贄にしろ」と言い放ち、枢機卿の足の骨を邪術で折り「歩けよ、ジジイ!」という女を目の当たりにしてみれば、それらの事が無意味である事くらい誰でもわかる。
「ですが、それが事実でしょう。よってそのような利敵行為を封じる為にもクラウス=ヒューダの警備をエルスト殿に任せたのではないでしょうか」
「じゃあ、私とかヒルダにも言えば良かったのに」
「それも少しばかり。ギュレネイス皇国内において地位を失墜させる者の多くは女性問題です。チトーは、ヒルデガルド卿やマリア殿のどちらかに興味を持ちませんでしたか?」
「私に興味を持ったってドロテアは言ってたわね」
「それも危険なのです。クラウス=ヒューダが貴女に無理強いをしたとチトーに密告をする者がいないとも限りません。ヒルデガルド卿でも同じでしょう、エド法国の司祭、それもドロテア卿の妹に無体を働いたと噂を立てられれば彼は立場が危うくなります。悪い事に彼は強いですから、貴女やヒルデガルド卿に暴力を働く力がある事を誰もが知っているので噂は真実味を帯びます。そして人はそのような醜聞を好む傾向にあります」
「なんでこんな危険な場所に着てまで、そんな下らない事を考えなきゃならないのかしらね」
「確かにそうですが、彼らにとってはこういう場面でもなければ隙がないのでしょう、クラウス=ヒューダは」
「はぁ……ヤダヤダ。じゃあエルストはクラウスが味方に殺されないように見張っているって訳なのね」
「ええ。基本的にクラウス=ヒューダの方がエルスト殿より強いですからね、外敵に対してエルスト殿が警戒する必要はないでしょう。となれば身内の警戒と見るしかありません」
 マリアもエドウィンに言われてみればそうだと感じる。クラウスは実力があって警備隊長になった人物、エルストより強くて当然だ。
「でもそんな事したらドロテアは失策の非を認める所か、烈火の如く怒るわよ。ドロテアは“最低限の人員”が“死なない事”を前提に作戦を練っているんだから」
「考え方が違うので無理なのでしょう」
「そんなモノなのかしらねえ」
「医療器具や薬をドロテア卿は準備してヒルデガルド卿に管理させていたのもクラウス=ヒューダを守る為でしょうし、食事の管理を貴女達お二人にお任せしているのもそのせいでしょう」
「ドロテアはそこまで考えて?」
「でしょう。そうでなければあれ程エルスト殿がクラウス=ヒューダと一緒にいる必要性がありません」
 外側から生前の知性を持ったまま生きている者を見つめているエドウィンは、内部の不穏さをほぼ正確に認識していた。
「でもエドウィンですらそう感じているってことは、警備隊員もそう感じているんじゃないのかしら?」
「とは思うのですが、私がこちら側から見ている分ではそんな感じは受けません。彼らはむしろ“エルスト殿がクラウス=ヒューダを殺害しようとしている”ように取っているように見受けられますが」
 益々複雑な状態である。が、これはマリアにも何となく解かった
「都合良く受け止めて……もしかして、クラウスが昔エルストを引越しさせたからかしら? 何でも姉の縁談の邪魔になるとかで」
 それを恨みに思っているという事は言い換えればクラウスの姉にいまだに思慕を抱いている事になり、ドロテアに対しての世間一般でいところの不実に繋がるのだが、そこら辺りは綺麗に抜け落ちているのだろう。都合よく考える思考回路の者達にしてみれば。
「フェールセン人をマシューナルへ?」
「でも、それに対してエルストは何も感じていないはずなんだけど……他人はそうは考えないって事なのかしら」
「そうですね」
「そっか、クラウスがエルストを殺してもドロテアがいるから罰せられないって考えているかもしれないんだ」
「多分」
「それはあるかも知れないけれど、エルストは無用に人を殺すような男じゃないわ……大体昔同僚だったら、エルストの性格くらい知ってても良いようなものなんだけど」
「権力を握った人の慢心を思い描いているのかもしれません、彼ら自身が慢心している生き物ですから」
「エルストは別に権力を握ったわけでもなんでもないのに」
「エルスト殿の細君ドロテア卿の二つ名は人々の視界を曇らせ、考えを狂わせてしまうのでしょう」
「皇帝の大寵妃ってそれほど凄い名なんだ」
「最後の皇后という名も」
「誰も何もわかっていないからそうなるのよね」

 ”ドロテア”とは全ての争いに対しての切り札であるが、それはまた全ての争いの出発点でもある

**********

 ヒルダがあいも変わらず元気良く食事の支度を終えた後、
「そういえばゲオルグさん」
 ゲオルグに声をかけた。
「なんでしょう司祭」
 ギュレネイスから大急ぎで出立し、到着してからも休むまもなく人々は動いていたが、警備隊長が肉体的疲労と精神的疲労の併せ技で休息を取ったため、他の隊員や騎士たちも順番に休む事になっていた。大分落ち着いて、次の指令を待つ彼らをざっと見渡したヒルダはエド正教徒ならではの違和感を感じ取り、その違和感を解消するべくゲオルグに声をかけた。
「なんか聖騎士団員が偏ってませんか? ハッセム隊長の配下ならエルセン出身のローランタン副隊長がいるのでは?」
 エルセン貴族出身の騎士・ローランタン。ハッセム隊長の右腕とも言うべき人物でセツ枢機卿と共に吸血城に攻め入った時にでも同行していたローランタン副隊長の姿が見えなかった。エドの騎士の中でも有名で尊敬される人物で尚且つロクタル派に属している彼が来ていないので、ヒルダは何か怪我か病気でもしたのではないか? という意味でゲオルグに尋ねたのだが。
「エルスト殿の身の安全を考慮しての配置です。勿論ローランタン副隊長がそのような行動をとるとは思ってはおりませんが」
「はい? 何でエルスト義理兄さんの身の安全を?」
 全く違う答えが返ってきたのでの、ヒルダは怪訝な表情を隠さず問い返す。その演技ではない疑問の声と空気にゲオルグの動きが止まる。
「ご存知……ありま……」
「あ、良いですよ。後で姉さんに聞きますから」
「あの、で、出来れば我々が帰還した後にお聞きしてくださらないでしょうか……あの、勝手にそのような事を口走った……となる……」
 余計な事を言ったとなれば半端なく攻撃されるだろう事を、ゲオルグは肌で感じ取った。今まで貴族やなにやらで覆われていた“鈍感”というベールが剥ぎ取られ“危険性”を感知する感覚がむき出しになったゲオルグは、ヒルダの答えに腰を引かせて頭を下げて頼み込む。その最初とはまるで変わった低姿勢ぶりに笑いを抑えながら
「解りました、皆さんが帰った後で聞きますよ。安心してください喋った人に関しても口にしませんから」
 その答えに胸を撫で下ろしながらゲオルグは立去った。その後姿を見て
「何でエルスト義理兄さんの身が? エルセンと何か関係があるんだろうなぁ……でもエルスト義理兄さんが直接関係しているとは到底思えないから、問題があるのは姉さんの方なのかな。何だろう?」

 姉の過去に全く興味のない妹は“それ”が全ての根底にある事など知る由もなかった。

**********

 ヒルダに半襲われ半分泣きながらエルストにしがみ付き、情けなさを露呈した上に薬を盛られて正体なく寝入った果てに見た夢は上司がいつの間にかヒルダで目の前に食事を多数盛られ「食べるのが仕事ですよ」と言われ苦痛に満ちて食べ帰途につく。帰った先が何故かヒルダが再び登場し再び食事に向かう。真面目さが災いするクラウスは夢の中でも抵抗せず、ヒルダに連れられて向かった先にあったのは倒した虫の生け作り。
 幸か不幸か薬の威力が強かった為か、途中で起きることが出来ず夢の中で腹一杯胸が一杯、ついでに色々な意味で一杯一杯になったクラウスが目を覚ましたのは丸一日半ほど時間が経ってからだった。
「うなされてたけれど大丈夫だったか」
 心底暇そうに煙草の灰があちらこちらに落ち、缶から吸殻がはみ出しそれでも煙草を咥えている口は髭生やして手には料理酒を持ったエルストに
「全く寝た気がしない」
 クラウスはそう答えるのが限界だった。
「何か食うか?」
「いらんっ!」
 その荒い語気で強く真向から否定するクラウスの口調にエルストは腹を立てるでもなく
「水でも持ってくるから待ってろ、あと隊員にも知らせてくるから寝起き顔をどうにかするんだな」
 と言って立ち上がった。エルスト、クラウスの脇で「もう食べられません〜ランシェ司祭殿〜」と永遠に繰り返している言葉を聞いていたので、あの返答にも大体の予想がついていた。
「さすがドロテアの妹だよな」
 世間的にはエルストの義理妹でもあるのだが。
 目を覚ましたクラウスは、実はエルストが盛った薬が原因なのだが、夢見の悪さから来ていると勘違いしている胸焼けを落ち着ける為に柑橘入りの水を大量に飲み、櫛で髪をすき、剃刀をあてて身支度を整えるとすぐさま仕事に戻った。

**********

 出発する前のエルストの眼前に叩きつけられた書類の山。
「なんだ、コレは?」
「クラウスに提出させた人事院の書類だ」
 エルストの前にあるのはクラウスが率いてゆく警備隊全員分の経歴書。職務査定などが書き込まれた秘密文章がエルストの前に投げつけられた。
「目、通すのか」
「焚きつけにしたけりゃすりゃいいぜ」
 パラパラとめくって、目を通しているエルストにドロテアは話続ける
「その書類の中からクラウスを殺しそうなヤツを選び出せ」
「そいつらを抜くのか?」
「原則的に出来ない事くらい知ってるだろが、テメエはよ」
 平定に向かう学者の護衛につけられる各国の武力には原則的に介入できない事になっている。それは当然だろう、学者は古代遺跡が専門であって護衛などの武力を用いる行為に関する事は全くの素人だ。いくら平定する学者の権力が絶大でも、全く知らない部門に口を出すのは宜しくない、だが人間は厳密に決めておかないと口出しする恐れがある……ということでそれは明文化されている。
「じゃあ。本当に警戒するだけか」
「基本的にはそうだな。俺は忙しいから目を通していない。大体警備隊員の顔と名前を一致させる作業なんてしたくもないしな。幸いお前なら辞めたとはいえ、総合学院時代の記憶を手繰れば殆ど全員解るだろ?」
「そうだな」
「どうせ俺達の、特にお前の仕事はクラウスの警備しかないんだから、精々気使ってやれよ」
「まあなあ」
「大体、これだけの数の学者と武力行使の専門家が百人近く、そして追加で法力の専門家が三十人以上向かう中で俺達がする事といえば内部の亀裂による足の引っ張り合いを防ぐ事以外ないからな。全員が仲良く協力しあって、相手の事を尊重して任務をこなす……なんて状況だったら俺達は向かう必要はない。俺達の向かう理由は唯一つ、任務中の軽挙妄動を防ぐ事だ」
 言ってしまえばそれだけなのだ。今回は名は知れていなくともしっかりと王学府卒業した学者も多数いる、警護にあたる隊はその国の最高司令官を登用、そして別の国からは威信をかけて実力者がおくられてくる。だがこれは実力はよくても全て足並みが揃わない、立場の違うものたちの混合。
 これを調節するのがドロテアの任務であり、そしてドロテアの最も得意とするところであった。
「あ……マズイのがいるな」
「どんなのだよ」
「ウィレムの再来になるかもしれないヤツ。でも一度クラウスに負けてるから大丈夫かな」
「へえ、あのクラウスもライバルを蹴落とす為に捏造したりするんだな」
「叩いて埃が出てこないようなヤツは警備隊じゃあ出世できないからね」

**********

「此方の方が数段上だな。素人目にも解る」
 クラウス自らの活躍で手に入れたグレイの写本を前に声をあげた。クラウスが追えを上げるほどその本は見事なものだった。その脇から
「ご謙遜を、あれ程魔法を使えるクラウスさんが素人な訳ないじゃないですか」
 ヒルダは笑顔だがクラウスの笑顔はひきつる、少なくとも相手の機嫌を良くする為の愛想笑いくらいは出来たはずなのだが今のクラウスは初期のレクトリトアードの無表情さ克服練習風景以上の苦しさをその表情に作っていた。レクトリトアードの表情訓練は十二年間人差し指の一関節分以上開いた事が無い口を無理矢理開かせることから始まった、もちろんその最初の教官はドロテアである。レクトリトアードはドロテアの恐怖を持ってして口が人差し指の二関節分になったとか。その表情訓練以上の苦しさを浮かべているクラウスを全く無視してヒルダは、
「あ、そうそうクラウスさん下半身の腫れは消毒してなぁムギュ」
「じゃあな! クラウス! またな!」
 ヒルダとエルストの最早クラウスの前ではお決まりとなった羽交い絞めの口押さえ。そのままエルストはヒルダをひきずって結界の内の何処かへと消えていった。そして普通の人間は下半身の腫れと聞けばなにかは大体想像がつく。その場に一緒にいて、一人残ってしまったマリアはクラウスに冷たく一言
「……ただの男ねえ」
 マリアはクラウスがそんな反応を示す事くらいはわかっていたので体を洗う事など最初から拒否していた。
 それに関してはマリアはヒルダよりはるかに大人だった。いや、大人というより嫌な面によく遭遇していたというべきだろう。
「あ、ああの」
「未来の枢機卿は伊達じゃないわよ」
 そういってマリアは立去り、一人本を手に立ち尽くしているクラウスの背に哀愁というか絶望を見た者は多い。
「嫌われてるのだろか……」

大丈夫、マリアは殆どの男が嫌いだから君だけじゃないよクラウス。

 新しい本を手にし、僅かだが休息を取った全員は鍵を外す事に気が急いていた。そこに突然ヒルダが手をパンパンと叩きながら、殊更悲しそうに口を開く
「ここで皆様にとても厳しい現状を語らせていただきます、宜しいですね」
向き直りクラウスに確認を取る。
「何事でしょうか?」
 構いませんよ、と続きを促すクラウスを満足そうな頷きで「ありがとう」と表現し、
「どうぞ、エルスト義理兄さん」
 エルストに話をふった。振られた方はまだ髭も剃っておらず着衣もだらしないままで、
「また俺か? ……ま、まあそれじゃあな、実は人が死にすぎている」
 頭をかきながら立ち上がり、簡単に現状を説明した。その説明に誰かはわからないが
「はい?」
 心の底から問題の意味が解らない声を上げた者がいた。声を上げたものは一人だが、実際は皆声を上げたかったに違いない。エルストは伸びた髭で被われている顎を撫でながら説明を続ける。
「まあ聞いてくれ。ドロテアは作戦を練るとき人死を『十人以下』と設定して作戦を敢行する。だからな、十人以上人が死んでると叱られる指揮官が」
「……」
 ハッセム隊長は言葉もない。
「……」
 クラウス隊長も言葉がない。
「幸いイシリア騎士団も力を貸してくれるから、何とかなるだろうがこれ以上の人死はドロテアの作戦立案上まずい。いや腹を割って言えばチトー閣下まで殺されかねない、むしろチトー閣下が殺される程度で済めば良いが国ごと取り上げられる可能性もある。エド法国もしかり、あそこは運悪くエールフェン選帝侯の所有地、ドロテアが怒ったら、ただ事じゃあ済まない、移動する時間をくれれば良いがくれなかったら家族も何もかも一緒に消される恐れがある。よってこの先一人でも死者をも出す事は作戦上許されない」

ドロテア=ヴィル=ランシェ
恐怖以外の何者でもない女

「普通は犠牲くらい予定内とか言うんでしょうけれど、増援が殆ど望めない場所でそんな事言う馬鹿はそうそういないわよね」
 マリアの一言。
「そうですけれどね。人海戦術ってのは基本かもしれませんが、それがすべてに通用するとは誰も考えてはいないでしょう」
 ヒルダの一言。
 そしてエルストは続ける、
「だが、慎重過ぎてドロテアが国境線付近に到着した時に結界が解けていなければ、言う必要も無いような状態になる。よって細心の注意を払い犠牲を皆無にした上で最速の解除を行う必要性がある!」
 問題はそこだ、あまりに注意しすぎて時間がかかりすぎても駄目なのだ。
「貴方達の腕の見せ所ね」
「人死を出さない采配って一番難しいですよね、頑張って下さいねハッセム隊長殿と腫れが引いたクラウスさん」

一生言われるのかクラウス?

 犠牲の上の作戦を立てていた両者はもう一度会議をしなおす事となった。会議場、とは言ってもただ衝立で区切られただけの空間なのだが、そこに両者何人かの部下を連れ、学者達と頭をつき合わせて話し合う。途中の休憩でクラウスが連れて来た一警備隊員が
「隊長“腫れ”とは?」
 ある疑問を口にした。非常に聞かれたくはない疑問だが、ここで取り乱しては元も子もないしクラウスは一般的には表情を押し隠したり、会話をしたりが得意だ。
「先ほどの戦闘で浴びた体液のせいで腫れてな」
「大丈夫でいらっしゃいますか?」
「薬が極上品だったからもう平気だ。それにしてもどうしたものか……どうした?」
 疑問を口にしていたクラウスは、自分より年下の隊員のみた事もないような表情に問いただす。
「失礼ながら本職、隊長のそのようなご表情始めて拝見いたしました」
「表情?」
「元警備隊員・エルスト殿とお話をしている際の隊長はお話しやすく感じます」
「……」
「失礼いたしまし」
「いや気にする必要はない」

クラウス自身、そう感じないわけでもなかった。
それがどういう感情か? となると非常に問題なのだが。

 会議終了後、クラウスはエルストにこの先の作戦を告げに来、そのまま怒涛のヒルダの料理攻勢に遭遇し二人で鍋と杓文字とフライパンを前に、再び空腹になる為の時間稼ぎの会話をするしかなかった。その食事の席でクラウスは
「……と、言われた」
 先ほど部下に言われた言葉をエルストにそのまま告げていた。自分の感じている、という事は抜きにして。
「だってお前肩肘張りすぎだもんな。ま、それが良い所だけれど」
「人の上に立つ器ではないとは重々承知しているが」
『こいつレイより扱い辛いよなあ。レイは素直な分楽なんだけどコイツなあ。ああ、なんか心の垣根が取れてるような気がするよ……気じゃなくて本当に取れているに違いないよ。やっぱりヒルダに襲われている所を助けたのがきいたかなあ、なんだっけ? 危険に晒された男女は恋愛……俺達男同士だったな。それにしてもあの時ヒルダを引き離さないとクラウスがヒルダを抱いて……意外とお似合いかも知れないな』
「大体人上に立てる器のある人ってそうそういないから気にするな、適当な事しか言えないけどさ」

何時もの通りやる気なさそうな口調で答える。

 どうしても食べられなかった二人は、クラウスが呼び寄せた部下三人に食事を押し付け何とか無事ヒルダの好意から逃れる事ができた。そこまでするならヒルダにもっと食事の量を減らして、と言えば? と思われるだろうが……既に言ってみたのだが「遠慮しなくても大丈夫ですよ、食糧はまだまだありますから!」と返されて終わったのだ。
 髭を剃る為に洗い場に下りてきたエルストにマリアが石鹸を持って近寄り声をかける
「ねえねえエルスト、危険な警備隊員って大体目処ついてるの?」
 小さな声ではないが辺りに聞こえないような声で話しかけてくる。エルストはマリアのほうを見るわけでもなく、石鹸を泡立てているマリアの隣で貰ってきたお湯に浸したタオルを絞り髭に当て、タオルで隠れたくぐもった声で聞き返す。
「何処からそれを?」
「エドウィンから」
「成る程ね。フラウナってのが危ない。フラウナは元々クラウスと同時期に入隊した男で俺より一つ下、クラウスは二年飛ばして卒業した頭良い奴だ」
「張り合えてはいたの?」
「クラウスが年次を上げてくる前は総合学院で主席、クラウスがきてからは次席。プライドが高いフェールセン人でゴールフェン人のクラウスに負けたのが悔しくて仕方ないのさ」
「殺しちゃえば」
 タオルをとり、マリアが泡立てていてくれた石鹸の泡を手に取り塗り付けて剃刀を持ちながら話を続ける
「ドロテアに感化された?」
「それは大いにあるけれど、何であんなのを入れたのかしら?」
「……ん〜多分失名誉復を嘆願したんだと思うなあ」
「名誉回復?」
「あいつ今副隊長だからな」
「副隊長って隊長の下じゃないの?」
「隊長の下の階級は隊長属士」
「ってことは、副隊長はその下くらい?」
 マリアは鏡を持ちエルストに向かい合いながら二人は話続ける。
「そうそう。ほらクラウスの次に来る程頭良くて武芸も良かったのに今副隊長だろ? 順当にいっていれば属士になってるはず。警備隊の隊構成は大きく隊長隊と副隊長隊があるの当然副隊長隊を統括しているのは隊長隊なんだけどさ、隊長のクラウスが二十一副隊長隊を直接見ているわけじゃない。クラウスの直属の七人の属士これが各々三つの副隊長隊を統括してるんだけれど、属士になったフラウナの管理していた副隊長隊が失策をしたらしくてね、その責任を取らされて降格。それ自体はよくある事だよ」
「当然じゃない」
 マリアは当たり前でしょ、エルストを見上げるように上目遣いで小首をかしげる。マリアの無意識の行動なのだがとても魅惑的な表情で、普通の男ならば胸に何か特別な感情が湧き上がってくる所だが、
「なんだけどね」
 エルストはその行動に何の感情をも持たない。それがマリアがエルストを気に入っている箇所なのだろう。
 エルストに魅惑なり、劣情なり、高揚なり、恐怖感なりを感じさせる事ができるのはドロテアだけだ。
『まあ、その失策が仕組まれたものでなければね。仕組まれたってコトに気付いた辺りは切れ者だろうね世間一般では、最もドロテアに言わせれば仕組まれる隙を作った時点で切れ者とは言わないだろうさ。ま、エドウィンの目をも欺いているんだから中々やるじゃないか、総合学院時代の後輩さん』
 エドウィンの目をも誤魔化し、他の警備隊員の目をも誤魔化してはいるが、エルストの鋭さの前にはどうやら敗北を喫しているようである。
 勿論フラウナは気付いてはいないのだが。
「髭、剃り残しあるわよ」
 そう言ってマリアは疑問の答えを持って階段を軽快に上っていった。その足音を聞きつつ、エルストは鏡を覗き込み再び白い髭を捜し剃刀をあてる。
「白い髭って陽の下でもない限りよく見えないんだよなあ」
 髪は灰色だが髭は白いエルストであった。
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.