「へえ、じゃあ明日のバザール開始のセレモニーでチトー五世の前で踊るのか。あの生臭坊主の考えそうなことだ、半裸の女ってだけじゃなく、生粋のトルトリア人にギュレネイス教徒が殆どいないこと知ってて尚か。まあ、テメエもいい金になるから笑顔で返事したんだろう?」
「ああ。客引きには俺たちの団はもってこいだ。何せ殆ど見かけないトルトリア人だ、高く売りつけたに決ってるだろ」
皮肉はトルトリア人の特技なのか? と言わんばかりにドロテアとベルーゼが話し続けている。舞踏団は団長の毒気には慣れているらしく動じない、当然三人はドロテアの毒気になれているので動じない。この場に第三者がいれば、いたたまれない上にドロテアとベルーゼは険悪な関係だと思い違うのは間違いない。
「どうだ、一緒にその場に来ないか?」
「そうだな……そこが一番いい席だろうし、どうだ? 招待されるか?」
「いいですね、姉さん。出来れば私もトルトリア風の衣装も着てみたいです」
「そうだな、テメエは着た事なかったな。マリアもどうだ、それ程の美人だったら何着ても似合うぜ。何より俺が見てみたい」
「ドロテアがそういうなら着せてもらおうかしら」
「決ったな、エルストは……誰か来たぜ」
話に花が咲いていたというよりは、団長とドロテアが一方的に攻撃的な口を開いていたわけだが、外に数人の、それも規律正しい独特の足音が止まる。
「警備隊長殿が」
ドロテア達に用事があるとわざわざ訪ねてきたのだ、警備隊隊長本人が。
「クラウスがどうした?」
「すみません、おくつろぎの所を」
「いいや、構いやしえねえ。とっとと用件を言え、俺は前置きが長いヤツは好きじゃねえ」
「では、用件を。明日のセレモニー、陛下が隣席なさる際に是非ともエルスト殿を同席して欲しいとの事です、宜しいでしょうか」
クラウスの態度は賓客にたいする礼儀をとるのだが
「ぶっ! エルストって呼んでくれないか?」
元々上司だった相手に、そんな口を聞かれて「うん、うん」と頷けるような男ではないエルストが、クラウスに訂正を求める。
「よろしいでしょうか? あと、わが国の決まりで女性の方々は司祭閣下と同席することは出来ませぬので、別の席を用意させていただきますが」
「俺たちはこの舞踏団と一緒にいるから、気にすんな。そうそうちょっと外で話でも聞くかエルスト来い。マリアとヒルダは話続けてろよ」
「何だ?」
「一応決まりとか一緒に聞いておいてやるんだよ。俺は記憶力いいが、テメエは悪いからな」
取り敢えずの言いぶりと、堂々とした後姿を団員達は黙って見送ったのは言うまでもない。
**********
「所で、どうだった?」
外に出て、ドロテアは単刀直入に質問する。
「内部犯ではありません、調べた結果国庫に異常は確認できませんでした。皇国首都、それに準ずる規模を持つ銀行にある国家予算の支払い総額を確認しましたが、支払われた金額、現在首都内にいる傭兵に支払われた金額に足りる分を下ろした者は、全員用途を確認いたしました。念のために今、国境警備隊に連絡を取っている所です」
かえってくる答えも、装飾なくそして簡潔でありながら相当に踏み込んだものだ。
『バカ正直な男だ』
ドロテアは、忍び笑いを浮かべた。勿論しのんだ笑いゆえに、エルスト以外の誰の目にも留まらなかった。
世界は首都がある場所は簡単に連絡が取れるのだが、国境とは連絡が取り辛い。
国の首都は“まず建物(古代遺跡)ありき”で建国されるのだが、国境は“取り敢えず国境”なので、辺りに遺跡がないことのほうが多い。遺跡があって国境と定めた方がよっぽど楽なのだが、その種の遺跡がある場所を国境に定めるとなると、思ったような国土をとることができない。国は大きければ大きいほど良いというのが、一般的な論理、結果一番重要な国境線が馬車や人が連絡の頼りとなってしまう。
「イシリア……か。同じ策で同じ効果は望めんだろうが……何か手があるのか? チッ、少なくとも戦争なんざしてる場合じゃネエと思うんだけどよ、あの国の現状じゃあ。でもまあ、起死回生の一撃とか思い描くやつも居るかも知れねえな」
戦争で疲弊した国を立て直すのに、より大規模な戦争。
当事者でないのでドロテアには何もいえないし、エルストも何も思わない。何か感情があるとしたら、亡命してきたクラウスだけだろう。
エルストの伯父は戦争に巻き込まれて死んだが、ただ巻き込まれただけだった。フェールセン人は戦闘に全く出る事はない。安全な場所で、安全な仕事に就ける。安全な仕事の中身は、精神を病むような仕事ではあるのだが。
**********
テントの中で団員達と話をしているマリアとヒルダ。会話に一瞬の空白が生まれた時、マリアが思いついたように外のドロテアとエルストのことを口にする。
「何、話てるのかしらね?」
「決まり事でしょう。司祭閣下と隣席する際には色々と決りもあるでしょうし」
間違いなく此処の司祭より偉いであろう相手に、ドロテアはタメ口だったり踏みつけたりしているのだが、それは言わない方が良い。いや、誰も言わないに違いない。
「ここの最高位は司祭なのよね」
「司祭とはいいますが、全然違う種類ですねえ。そうそう舞踏団の皆さんはどんな楽器を使われるのですか?」
「そう言えばさ、ドロテアって楽器とか全然やらないの?」
団一番の踊り手で、明日チトー五世の前で踊るアマンダが、二人に質問してきた。大きな鳶色の瞳は確かにドロテアと同じトルトリア人を強く感じさせる。その瞳を受ける鳶色を持つヒルダは、トルトリア人ではあるがどこかトルトリア人“らしさ”が足りない。
「自宅にはグランドピアノがあって弾いていますよ、普通の人よりは上手ですが、ただ指がダメになっているので」
そしてヒルダはアマンダに事も無げに告げる。
「えっ?」
アマンダ以外の者達も、声にならない驚きと疑問を舌の上に乗せ、そして飲み込んだ。そしてマリアが続ける
「大体の人は顔と雰囲気に注意がいって気付かないけど、指が楽器を奏でる指じゃあなくなってるのよ。私も気付いたのは大分後だったけれどね」
顔と声と態度と身体全体には注意が向くのだが、誰も些細な事には気付かない。
当人は隠してはいないのだが気付かれないのだ、何故か。
あのオーヴァートですら、それに気付いたのは半年以上経ってからの事だった
少しだけ重くなった空気を軽くするつもりもないだろう、当たり前のような口調と笑顔で
「魔法には差し支えないそうですからね。姉さんはああだったからこそ、呪文の生成が早いのですから悪いことばかりではないでしょうね」
ヒルダは生まれた時からドロテアがそうだったので、全く気にならない。寧ろ自分がドロテアと同じでないのが不思議だったくらいである。それ程ヒルダにとって姉であるドロテアは完璧な存在だった、そして今でも完璧な存在である。
「そうなんだ……昔上手だったのよ。私踊ったんだけど全然あの速さに付いていけなくてさ。てっきり死んだって思ってたのは、生きていれば絶対にピアニストになってると思ってたから」
「そうなの。私の中じゃ始めて会った時点でもう魔道師だったしね」
マリアにとって音楽家であるドロテアの姿など、想像も出来ない。
「そうか、でもそのアコーディオンなら弾けるんじゃないかな?」
「あら、話は終わった?」
「ああ。どうしたヒルダ」
「姉さん、弾けるアコーディオン」
「ああ? まあ人より上手には弾けるだろうさ」
ドロテアらしい言い方だが、この時だけは妙に神妙な空気が流れていた。そしてドロテアは自分がいない間の会話を悟る。『そんなに暗くなるようなモンじゃねえんだけどよ』おかれているアコーディオンのベルトを肩に通す
「弾いてみて、ネエネエ!」
「弾かねえのに持ってたら、まるっきりバカだろが! 弾いてやるよ」
魔法を覚えるより音符を覚える方が断然簡単である。超人的な記憶力を持たないドロテアではあるが、頭の中だけではなく体でも覚えている“弾き”は簡単にこなすことができる。
誰一人動かずに、ドロテアが弾く音に魅せられている。
「鍵盤モンは理論上『指の数以上』の音符はネエから絶対に弾けるんだよ」
相変わらずドロテアは、何処までもドロテアだ。
マリアはオーヴァート邸でメイドをしていた時、よくドロテアのピアノを聞いていた。誰が聞いても上手いという、技巧も感情も。冷静そうにみえるが、結構な熱のある演奏。だが、それは燃え上がっているのではなく、どこか燻ったような熱さ。
嘗てヤロスラフは「マグマのようだな、ドロテアの演奏は。空気の熱で固まっても、その内側ではまだ血管の中を流れる血液のように熱い体液が流れている」
何がヤロスラフにそういわせたのか、マリアは解らないし音楽を言葉で表現できないのだけれども、確かに冷たい演奏とは程遠いと確かに感じる。
アコーディオンを弾いているドロテアの肩口を見ながら、マリアは先ほどのドロテアの言葉を反芻していた。
「二人姉妹……ね。確かネテルティに向かっても……」
そういっていたわね。トルトリア人に向かっては、何時もそう言う……。二人姉妹ってもしかして?
最後の日、死んだ者が沢山いたと
ドロテアに聞けば答えてくれるのは解っている。ヒルダのように笑いながら言うに違いない。
でも、聞いて答えが自分の思っている通りだとしたら、どう答えて良いのかマリアにはわからない。でもヒルダは聞こうとしている、ヒルダにはヒルダなりの答えが既に出ているのだろうと。
ヒルダに声を掛けて連れて来た二人の男が、何か居心地悪そうにドロテアとヒルダを見て、座長に耳打ちしているのを視界の隅に捕らえ、マリアはドロテアの旋律に意識を預けた。
『トルトリアで聞いてみましょう』
答えは確実に、そして簡単に帰ってくるのだが、それを受け止める自信がない。何処か頭の奥底でわかっているから余計に聞く事ができない。
「エルストくらい鋭ければ……でもあの人、鋭さ貧乏よね」
**********
マリアに『鋭さ貧乏』と言われたエルストは、ハイネルと合流して昨日の店に入っていた。今日は偵察なので、店を何件も回るのだが、入った店から情報を色々仕入れなくてはならない。中々大変な状況だ。
エルストは酒を口に運びながら、何も考えていないような表情で話をする。
「奥さん凄く怖いんだって?」
そう声を掛けてきたのはグラーニャ。三人には酷評されたが、美しい女である。その美しさの六割は化粧で出来上がっている事をエルストは知っているが、特にそれに何かを感じるわけでもない。ただ、
「別に怖くはないよ」
「物凄い怖いって噂、流れてるわ」
「誰が流したのやら」
少なくともエルストではないだろう。真のドロテアを知るエルストがそんな噂を流すはずがない、もしもそんな事をして噂の出所をつきとめられたら、心の臓も突き止められるのは言うまでもない。
「……怖くないの? 本当に?」
「全然。それにあの綺麗さの前にはそんなモン霧散するさ」
エルストはバカな男ではない。異様なまでに鋭さを兼ね備えている、横に座り口も重く語っている女がエルストに好意を持っている事は昔から知っている。数年ぶりに会ってもその好意は衰えていなかった、むしろ昔より強く感じられる。それがエルストに対してこの場から助けて欲しいという感情の一つである事も知っていた。
「そうね、でも……何であんな人と?」
「グラーニャ、止めな!」
女将の叱責が飛び、一瞬場が白けたのをいいことにエルストとハイネルは場所を替えると、金を置いて店を後にした。
**********
「エルスト!」
嬉しそうな表情の男は、何とも不吉な言葉を紡いだ。俺はその言葉に重なるように不吉な言葉を発する。
「貴方“も”殺せるんですか」
「当然だ」
『お前にこの伊達眼鏡やる。ただの伊達眼鏡じゃないぞ、これをこうすると! なんと開錠道具になる』
そこまではありがたいんだが
麗しい姫君の危機に
騎士が立ち上がり 見事に姫君を救い出し
騎士は姫君を残して
その国を去っていった
姫君は永遠にその騎士を想い続けて
他国の王の妻となりました
朗々たる声で歌ったわけだ、皇帝は
そして言ってきた
『お前は騎士じゃない、国王じゃない、そして麗しい姫は自分の危機を自分で回避できる。だが……』
俺の手元には史上最強の武器がある
それは人助けの為のものじゃない
「頼んだぞ、エルスト。俺を大いに使うが良い!」
「言われなくたって使いますよ」
「それでいい。あと」
「できるだけ、ドロテアには内緒……でしょ?」
皇帝が手に入れることが出来なかった女を手元における、それだけで随分と立派なことをしたような評価を受ける。
ドロテアを手に入れた事が世界最高の勝利にして栄誉なら、俺はそれを貰った事になるだろうな、ドロテア自身に貰ったものだ。
居心地も悪くない、飽きる事もない
『エルスト、お前にプレゼントしよう! フェールセンを処刑する為にフェールセンによって造られた伝説の武器を!』
**********
店をはしごしても『仕事』である以上、酔う事ができないため結局二人は最後まで素面に近い状態で夜道を歩いていた。
「人に狂信的に恋をしている目ってのは、誰でも同じだな」
ハイネルの妹・ラトリアは権力欲の強いエールフェンから来たウィリアムに恋をした。一方的に熱を上げて
「一方的じゃない分、性質が悪いかもな」
ウィリアムはフェールセン風に改名し、ウィレムと名乗った
「あの時は聞かなかったが……妹も、殺したのかな」
その手段を選ばない行動、そして自らだけは法から逃れる手段を用いていったウィレム。
「ああ、バレる前にな。処刑隊の手にかかればロクな事はないからな」
「耳が痛いな」
「エルスト、お前は処刑隊が嫌で辞めたんだろ、警備隊……いや処刑隊を」
ギュレネイス皇国警備隊所属処刑隊。罪人を裁き殺す権限を持っており、処刑執行の日まで、罪人に対してどのような事をしても黙認される部隊。女が犯罪者として捕まり処刑隊に渡された場合は、普通の人間では、直視に耐えない行為をされる事もあり
「良い星だな。知ってるか? あの星の中に、遺跡があるんだって知ってたか?」
辞める者が多い部署であり、歪んだ思考を持ったままそこに居座るもの多い部署でもある。
「へえ、知らないな」
「俺達が地上で、人の首の骨を折ってた頃、上空でも大騒ぎがあったんだってさ。空の上でも権力闘争だってさ、何処でも離れられないもんだよな」
エルストもハイネルも処刑隊所属であった。女性を収監し、拷問を加えるのが嫌いな二人は男性のほうの仕事を多く受け持っていた。ただ、性別が違うだけだが、同性の分気が楽だった。自白させるのに加える拷問も、男性を棘の鞭で殴っている方が気楽だった。そして何故かこの部署は位が高かった、だから誰も口を挟まない。
「お前の女房も参加してたのか」
「そうだってさ。当時は権力闘争の只中の人物の愛人だったから、火の粉は否応無しに飛んできたそうだ。権力って何処に居ても、ロクな事しでかさないな」
別にエルストは望んで警備隊の処刑隊に属したわけではない。フェールセン人は無条件で高い地位に就けるのだ、特に最近は皇帝を呼び戻す為に嘗ての召使であるフェールセン人を重用し、皇帝に何度も呼びかけているのだという。
「俺も警備隊止めようかな……何かいい仕事あるか?」
「ないな、中々」
「そうだな……お前さ、ブラミレースとかいう元神父の墓参りに来たんだってな」
「ああ、男墓にな」
ギュレネイス皇国で犯罪を犯し、死刑となったものは全て管理区の墓に収められる。死刑になるということは、人の世で購いきれない罪を背負ったものであり、死しても死体は不浄なものとされ、教会が一手に管理することになっている。
唯一分けられるのは、性別のみだ。
**********
ウィリアムはウィレムと改名した。
クラヴィスはクラウスと改名した。
クラウスはイシリア教国から亡命し、移住したゴールフェン人である。
ウィリアムもクラヴィスも、武芸に秀で、知性も突出していたが、チトー五世は、自分によく似ているウィレムを若干嫌っていた節があった。ドロテアが見て取ったとおり、自分に似ているものを嫌うタイプなのである。
ウィレムは美男子でもあった、勿論クラウスも美男子である。ただ、クラウスは者静かな雰囲気で人を寄せ付けない孤高の雰囲気がある、それに対しウィレムは華やかで話しかけやすい雰囲気を纏っており、そこを使い女を手下にした。女を用いて敵を蹴落とす手段を取った。
ウィレムは女を犯罪者に仕立て上げる際には、細心の注意を払っていた。そして女が捕まり口を割っても、全く無視した。ただの女の証言と、警備隊の隊員で兄が警備隊長である男の証言では、どちらが重く扱われるかは言うまでもない。そして女の親族が無実や情状酌量を訴えるという事は、ギュレネイスでは少ない。直に処分してくれといわれて終わりなのだ。
だから、ウィレムは幾らでも用いた。ウィレムの為に口を割らずに死んでいった女は、相当数いた。その状況にいち早く気付いたのは、処刑隊に属していたエルスト=ビルトニア。
ドロテアにすら“鋭い”といわれる男だ、気付かないはずがない。そしてその“鋭さ”がエルストの警備隊員であることを拒否させる一因となったのは、皮肉なのかそれとも……。
当時、処刑隊に送られてくる女の容姿が“似ている”事にエルストは不信感を持った。
容姿がバラバラであれば、エルストもそれほど早くには気付かなかっただろうが、若干似ていたのだ、容姿が。元々処刑隊に送られてくる女は、商売をしている女が主で普通の家庭の女はそういない筈だったのに、エルストが捜査しただけでも、半年で五人それも身を売る女ではなく一般家庭にいる子女、そして人妻、それは異例の多さだった。
クラウスの下に配属されていたエルストは、ある調査の段階でハイネルの妹・ラトリアに行き着いた。
ラトリアはどう言いくるめられたのかは解らないが……おそらく警備隊の仕事の一つで、図書館の者が疑わしから捜査を手伝ってくれとでも言われたのだろう。
図書館から蔵書を盗みウィレムに渡していた。図書館の蔵書、それも一般人が入れない地下書庫に行かせ、本を探し秘密裏に持ってかえって来るようにといわれていた。
ウィレムが盗んだ鍵を受け取り、ラトリアは禁書を五十冊も盗みだしていた。禁書とは字の如く、世間に流布させてはいけない本である。ウィレムはラトリアから受け取った本を売る事まで指示していた。
そして禁書を盗まれた責任をとり辞任に追い込まれたのが図書館長である。図書館長は老年に差し掛かる年齢だが、図書館長の息子がウィレムのライバルとなっていたのだ。父親の失態にウィレムのライバルは犯人探しに躍起となった。それだけが彼の地位と信頼を取り戻せる唯一の手段なのはいうまでもない。
そして禁書を五十冊も売っていれば、足も簡単に付く。そして禁書の売り買いは一冊でも死刑になってしまうのだ。
『ラトリアがウィレムに熱を上げているのは知っていたが、そこまでバカだったとは……』
『ハイネル、事は急を要する。調査報告書を俺が上げなくても、一緒に調べているイルトやスヴェンが行き着く筈だ。イルトもスヴェンも暴行はしないだろうが、他の奴等、特に父親の失態と自分の信用を取り戻そうとしているジョルジーノが来たら防ぐ自信はない』」
相手はウィレムがライバル視しているのだから、位でいえばエルストを軽く凌ぐ。そんな人物が来たら、エルストには抵抗する術がない。階級というのはそういうものだ。
『……報告書、一日だけ待ってくれ。そしたら提出してくれエルスト』
翌日書類を提出し、即座に逮捕に向かう。恐らく無意味だと思いながら、遊びにも行った事のあるハイネルの家へと向かった。
その日の空はギュレネイスには珍しく青空だった
だからエルストは故郷の青空が嫌いになった
あの時も雨が降っていてくれたなら……
多分ハイネルは泣けただろう……
“妹は自殺した”とハイネルが門柱に背を預け出迎える。死体を検分したのはラトリアのことを知っているエルスト。
『間違いないか? エルスト』
ラトリアは可愛らしい少女だった。灰色の髪、そして二度と開かれない目蓋の下に眠るのは薄い青色の瞳。エルストが偶に訪問すると、料理を振舞ってくれた家庭的な少女。“いいお嫁さんになるよ”と言うと“兄さんが片付いたらね”といいながら手料理を次々と並べていく。
そんな事がエルストの脳裏に一瞬だけ浮かんだ。
『ああ、間違いないな。友人の妹だから、助けてやりたかったが駄目だったな』
紫と黒が混じった変色した首の色、そしてソファーに寝かせられ毛布がかけられていた。
『自殺……なのか?』
『自殺……でいいだろう』
イルトもスヴェンも黙って引き下がり、エルスト達は犯罪者の遺体のみを引き取り処分した。
首があらぬ方向に曲がっている、この殺し方はギュレネイス警備隊の特徴。片腕で首を抱きこみもう片方の腕で頭を掴み首をへし折る、妹をそうやって殺したハイネルは、両親もなくたった一人の妹も失い、一人っきりになる。
ウィレムは罪を逃れた、そうやって罪を逃れるのだ
妹が大事であれば、殺してしまうしか方法がないような国に兄は仕える
そのウィレムが失敗したのは、クラウスの姉・クララに近寄った事が引き金だった。ウィレムは最大のライバルであり、チトー五世のおぼえも良く、ウィレムを凌ぐ出世を見せたクラウス。彼を失脚させる目的でクララに近づいたのだが、クララはウィレムに靡かなかった。そして、クララにそれとなく注意を促していた当時付き合っていたエルストに事の詳細を報告した。
エルストも何時かはクララに元にくるだろうと予測はしていた。そしてクララから受けた報告をクラウスにハイネルとラトリアの話を混ぜて説明したのだ。抜き差しならない状態になった事に気付いたクラウスは、一介の部隊長でありながら、ウィレムの罪状をチトー五世に直接報告する事に成功する。
クラウスの前の警備隊長はウィレムの年の離れた兄であったが、ウィレムの罪状でお飾りとなり下がり、その事件を切欠に実質クラウスが実権を握ることとなった。
エルストはそれからしばらくして辞職する
**********
「そうだ。墓参りさ……逃げればよかっただろうにな。逃げられたのに、バカだなあ」
ブラミレースのことを言ったのか、それともハイネルの事をいったのか。一日あれば首都から逃れることは可能だろう、逃げた先に何があるかはわからないが逃げてみても良かったとおもう。
罪を償う場所が確りと機能していないのだから、逃げればよかったのだ
エルストはそう思う。そうとしか考えられない
ハイネルが殺す事を選んだのはエゴだったのか、それとも彼女が望んだ事だったのか。
生きる事を諦めたわけではない、ハイネルは生きているのだから。
確かに犯罪者に優しい世界は必要ないだろう、でも……そうであっても……そう思うのは人間として間違っているのだとしたら?
「ついででいいから、女墓に……華でも添えてくれないか」
「何が好きだったけ、ラトリアは」
「忘れたよ、もう……」
「適当に選んでおこう。ところで、ブラミレースと一緒に来たはずのクルーゼはまだいるか? 会いたいんだが」
「ああ、いる。教会の下働きでな」
どんなに後悔しても、独りよがりでも生きていくのだ。
ウィレムの兄であり、警備隊長であったロスエルは後に『首を吊って自殺した』といわれているが、実情は違う。”首を吊って自殺”それは処刑したという警備隊の隠語だ。
誰が彼の首の骨を折ったのか、エルストは知らない。その頃には既に警備隊を辞していた。ただ……噂は聞いた、それを確かめる気はなかった。
− クラウスだ −
ハイネルと別れ、歩きなれた道をゆっくりと歩きながら、冷えてきた夜空を仰いだ
「雨でも降らないかねえ」
あれ程出世してるところをみると、その噂は真実なのだろう。悪法であろうと法だと“従え”と言った彼の行き着いた先なのだと。それを羨ましいとエルストは思わなかった。いや、思えなくなったから辞職したのだ。
あの真面目なクラウスが、人知れず、おそらく命乞いをしているだろう、弟の罪をきせられた前任者の首を折る姿を思い浮かべ、幼い頃から隣にいたクラウスには辛かっただろうとエルストは思う。
「俺がどれ程そう考えても、救ってやる事はできないんだよな」
『始めまして、クラヴィスです。まだ引越してきたばっかりで友達がいないから……友達になってほしいんですが? お願いしますエルストさん』
クラヴィス少年は何時しかクラウス隊長となった。
生きている事が嫌になることと死ぬ事は、近くにはあるのだが違う。
『人が作る法は完璧なものはない。寧ろ悪法のほうが多いだろう、それに従って生きていくのがいやならば法律をかえるか国を作るかだ。どちらもできないのなら、黙って従うかマシと思える別の国に出るかだろうな。だからオマエはマシューナル王国に来たんだろう? オマエは……』
生きている事を嫌いにならない為に死を選ぶ。だから生きている事が本当に嫌いになってしまった自分は死を選ぶことはなかった。
そして今は、絶対に死を選ぶことない。
何か首の骨折っても死ななそうな女だ、勿論首が頑丈だとか太いだとかいう訳じゃない美しい首筋だ、たるみ一つ無く細くて白くてそれでいて確りとした首、そして黙って折らせる筈もない態度。多分殺される直前まで抵抗するんだろう“潔く殺されろ”なんて言葉は殺す相手の勝手な言い分だからな。
「ドロテア、寝てるのか」
うつ伏せになって寝ているドロテアの背中に口付ける。
「起きてる」
少し掠れた声が返ってきた。寝ていたのだろう、億劫そうに少しからだを動かし、ベッドに空きをつくる。
「そうか。腹の方は大丈夫か」
「大丈夫だ」
「じゃあ寝ようかな、俺も」
服を脱ぎ捨てて、ドロテアの隣に滑り込む。そして、眠たそうな声が質問してきた
「……ラトリアの墓参りするのか?」
何でも喋ったのは楽になりたかったからだった。言い終えて呆けるまもなく
「どうしようかな。別にしなくても、したって言えばいいしな」
「テメエなぁ……」
全てを聞き終えたドロテアの口から語られた過去は、法や性別、人間性を超越した残酷さがあった。そして未来は破滅を望む危うさがあり、現在は罪を飼っていた。
”強い”というよりは、狂気に等しいその生き方を全て聞かされ俯いた俺に
「少しは楽になったか」
鳶色の瞳は一瞬たりとも潤まず、その表情は全く変わらなく……
人は自分より不幸な人間がいると安心すると、ドロテアは知っていた
だが自分が不幸だとは微塵も思ってはいなかった
過去は不幸だと思っていたらしいのだが、不幸である事を止め
ドロテアはドロテアになった
不幸をその手で握りつぶして
そして俺は“現在飼っている罪”を見せてもらった。そして“破滅を望む未来”をも見せてもらった。
見せてくれたのは愛されていたとかではなかった、その時は
今は愛されているといえる
女の腹から流れる紅い血には何の感慨もないが、ドロテアの腹から流れ出る血には呼びかける
名前もなく呼びかける
狂気を育てる事に一役買っている俺は、それでもドロテアを抱く
「イヤなら俺が一人で墓参りしてくるぜ」
その子を育てる事は法によって禁止され罰せられる、その子を育てない事も法によって禁止され罰せられる
それでもドロテアはその道を選んだ
だからその道が途切れぬように、後をついて回るか先回りする
「適当でいいさ」
これほどまでに罪人に魅せられる咎人になったのか。それでも俺は処刑人なんだな
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