ビルトニアの女
神の国に住まう皇帝鳥は飛ぶ事もなく啼きもせず【29】
 これから枢機卿を増やしていこう。
 私が法王になった頃に、元から枢機卿だった女性がいた。バルミア枢機卿、夫はエールフェン選帝侯だった。
 彼女の息子は聖騎士であり僧正でもあった。だが彼は私が法王となるとエド法国を去っていった。
 もし、セツが法王になっていたら彼は枢機卿になってエド法国に残っていただろう。
彼女の息子は選帝侯。
 選帝侯は皇帝以外のフェールセンには仕える事はない。それだから彼女はセツを推したのだ、息子が去っていくのを止める為に。セツが法王になり、彼は枢機卿として残り皇帝に仕えただろう……だが、私が法王に。
”済まないなリク……いや法王か”
 紫色の瞳を見る事はもう無いと思う。選帝侯はフェールセンの元へ、法王である私の元にはセツが残ってくれた。頼みに頼んで残ってもらったようなものだったが、それでも……随分と我儘を言ったはずだ。多分セツは待っている人がいた筈なのに、今でもいるかもしれないけれど。何でも話したが唯一つ、二人とも肉親については、一度も語った事はない。それは花街に住む者達より……言うことが出来ない。何も無いから

一夜だけの待ち人が、仮初に待つ街の宵とは思えぬ明るさの道を歩く。

 誰を枢機卿に任命しようか考えながら、私は花街を歩いてエルーダに戻る。彼女だけは私の正体を知っている、私が法王だという事だけだが。あのドロテアさんのように”全て”を知っている訳ではないが。
「ミンネゼンガーどうしたんだい?」
俯いて、高級陶器の美しい水色に映る自分の顔に頷いて
「あの……女将」
意を決して顔を上げる。約束をしていた
「何だい?」
 女将は母親のように笑う……いや母親ではない。私はあの母親がこの地上で何よりも嫌いだ、唾棄すべき存在として嫌う。優しく笑う女将に手を伸ばして
「額にキスを」
”初恋が終わったらおいで、アンタにはそれが似合うよミンネゼンガー”彼女は昔そう言った、だからその約束が今叶う
「やれやれ覚えていてくれたのかい?もう二十年も前の話だろう。こんな婆さんにキスしてどうする」
 彼女が若い頃でも美しさは遠くドロテア=ランシェには及ばない。そしてそんな事は関係ない
「でも」
あの日、この女将がセツを説得してくれた。

−残ってやる
−本当に?
−わざわざそんな嘘を付くか
−嬉しいよ!セツ
−騒ぐな、リク


そして私は再び名を変えるアレクサンドロスと

皇帝になれなかった そして法王になってしまった

**********

虜囚のようなこの位、いつかセツに譲るのか?
”法王になりたい?”
”就きたかったら、とっくにお前を追い落としている”
出来ることならセツよりも長生きし、違う人物にこの位を譲り渡したい
私は『自分が生きている間の未来は見る事が出来る』
予知夢でセツが死んだらどうしよう? と
矛盾しながら私は眠る

**********

「綺麗な女に恋をしたかい」
これ以上無い程に美しい女性に
「はい。直に失恋しましたけど」
思ったとおりの優しく柔らかい唇で、いい香りがした
「楽しかったかい?」
 彼女特製の煙草を一箱貰い、香炉で焚いて。彼女の香りがした、彼女の夫の香りがした
「はい」
それでも私は恋をした
永久に実る事の無い恋をした
ありがとう、恋をさせてくれて
エルストさん
「アンタの唇は綺麗なまんまだね、リク」
エルストは恋し続ける
もう永久に呼ばれる事も無い名前だけれど


エルストは、ドロテアと共に何所までも行けるのだ



「いい、酔いっぷりだなエルスト」
「そりゃ……お褒めに預かりまして……」
「まあいい、寝てろ。で、まあこれでも噛んでろ」
 船酔いに効くハーブの類いを小箱に入れて船室にまで持ち込んでいたドロテアが、蓋を開けて二枚ほどエルストの口に放り込む。
「うう……所でドロテア」
噛みながらエルストはベッドに腰をかけたドロテアに近寄り
「何だ?」
「アレクスって何処かで会った事ある気がするんだが。何か目元が……いや瞳がさ」
「瞳がなんだ?」
「似てるんだよな、俺の故郷に」
 今はギュレネイス皇国の首都フェールセン。その一帯は雨が降る、季節は暖かくとも冷たい雨が降る。雲一つ無い空から降るその雨は
 過去の皇帝の涙だと言われる。
「ヤツの母親とオーヴァートの母親は姉妹だ。雰囲気は違えど似ていて当然だ」
もう一人の”フェールセン”
「そうか……どうりで。だからあの時、ロインを呼び出さなかったんだな。いや呼び出せなかったのか」
 不敵と評するしかないようなドロテアの微笑を前に、それが真実だとエルストは納得して。口の中の香草が一瞬だけ苦味を失う。
「ああ。……オーヴァートの母親は当主となりパーパピルスへ。妹は海を越えてネーセルト・バンダへ」
二つの王国の名を持つ少年。神を捨てた一族の末裔が法王に
ラ・セロナード・プリンス・エルスト=カルヴィェロッサ=デ=ネーセルト・バンダ
 もう継ぐ者もいなくなった辺境の城は、高い山の中にひっそりとその身をおいていると言う。

−人の住まなくなった城というのは悲しそうだった
−テメエが言うな、オーヴァート


妹は夫に殺された、不義の現場に押し入った夫が串刺しに、いやメッタ刺しに
不義を働いているのを誤魔化す為に妹は、いつも息子を連れて歩いていた
幼い息子は不義の現場と、父親が母親と男を殺害する場面を見た
甥は死んだ、生きていても女は抱けないだろう

母はそう言い、俺に後を託して消えた

恐怖心が先に出る。私は生涯、誰とも肌を合わせる事は無いだろう
若き日にセツを探して娼館に辿り着いた。無茶な移動方法で、閨に降り立った私は
女性を抱いているセツを見て、叫び声を上げた
叫びたかったのは女将と、セツの方だろう

思い出せば笑うしかない

「この子を置いて行くのかい?」叫び壊れるかのような声を上げて、半狂乱になったアレクスの気を失わせた後
抱いていた女に言われた。女曰く、アレクスは行為自体に恐ろしい恐怖感を持っていると
後にポツリと”浮気していた母親が浮気相手と同衾している時、父親が槍で……目の前で刺し殺した。怖かった”
何が怖いのか言わなくてもいい。その時を境に理由探しも止めた

清らかな法王よ、その傷を負いながら随分と優しく笑う

オーヴァートは自分の代で、フェールセンの血筋を途絶えさせようとしている
選帝侯の自分にそれを止める術はない。そして法王もまたそれに従うかのように
ならば、殺さなくてもいい。ましてやそう、オーヴァートが指示した
オーヴァートが決めた事は最後まで従うさ

俺は枢機卿にはなれないんだよ。皇帝以外のフェールセンには仕える事が出来ない

カルバライン=ヤロスラフ=エールフェン=ディ=ウィド=ウィルトバイルは決して、ラシラソフ=エルスト=フェールセン=ディ=フィ=ランブレーヌに仕える事はできない。

−今はギュレネイスと呼ばれる地で戻らぬ主を待つ城がある
−そうだなあ。あの城はもう主を迎え入れる事はないだろうからな


カルバライン=ヤロスラフ=エールフェン=ディ=ウィド=ウィルトバイルが仕えるのはこの世で唯一人。
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