マリアが目覚めたのは、バカに大きいベッドに豪華な天井が特徴な、法王庁の一室だった。服を着て、相変わらず人が全くいないような廊下を歩き、扉の開いている部屋を覗き込んだ。マリアの視線に気付いたドロテアが、軽く手を上げる
「目、覚めたか?」
「ええ」
「二日程寝てた。もっと寝ててもいいんだぜ」
「もう体中が痛くて寝てられないわよ。あら? エルストとヒルダは?」
「エルストは、ハーシルの部屋の探索に貸してやった」
「盗賊技能って役に立つのね」
滅多に役立たせる事はないと思うのだが。
「ヒルダは昨日から普通に仕事してる」
「あの子……一体どんな体力してるのかしら」
「若いんだろう」
「そう、ね」
「で、ドロテアは何を?」
「コイツか? コイツは火刑用の油の精製だ。セツ枢機卿も中々残酷好みでな」
「偶々アナタがいたから、最高の油でも精製を頼んだの」
「ま、そんな所。そうそう、体調が良ければ聖騎士団の方に行ってくれ」
「何か?」
「ネテルティの遺品。マリアに片付けて欲しいってさ」
「……そう。じゃあ準備して行ってくるわ」
「ああ。そうそうマリア」
「何?」
「セツが後でマリアに話があるってさ」
拉げた銀の髪飾りを手に、1人夜風に当たっていたマリアの元に
「マリア、少し話をしてもいいだろうか?」
「ええ。いいですが」
セツ枢機卿が訪れる。
「ネテルティの遺品の整理まで頼まれたようだが、手間をかけた」
「いいえ。むしろ……あの人もうずっと前から……死ぬのを待っていたみたいだった」
片付けはしたが、それは整理が行き届いて、行き届きすぎていた。ドロテアは思い出したと言った、ネテルティは『死に場所が欲しかった』のだとも。
「そうか。話しはそれではなく、吸血鬼を討った功により貴女を聖騎士に叙したいのだが、受けてくれるか?」
「別に私、吸血鬼を討ったというか……」
確かに串刺しにはしたが、止めの一撃はどっからどう見てもドロテアだった気がしてならない。
「あのままでも吸血鬼は倒されていただろうとドロテアも言っていた。それに功のある者に、それなりの位や恩賞を与えないと色々あってな。ヒルダのように位を一つ上げるだけで済むのは簡単だ。ヒルダも受けてくれるだろうが、ドロテアやエルストを聖職者として遇するのは不可能だからな」
それは、法王庁としてムリなのではなく、二人が相手にしてくれないということに他ならない。
「もしもドロテアとエルストを叙任するとしたら、どの階級で?」
「そうだな、エルストは聞けばギュレネイス高等学院出身だそうだから聖騎士だろう。ドロテアは王学府出身の薬草学者だ、大司教に即座につけても文句は言われまい。最もあの女なら枢機卿も難なくこなすだろう、妹も然りだが」
セツと同じ様な格好をしているドロテアを思い浮かべて『似合うわね』と、マリアは一人頷いた。聖騎士エルストは多分、似合わないけども
「成る程……」
「聖騎士に叙任されても直に聖騎士として務めなくてもよい。気が向いたらエド法国に来てくれれば」
「随分と優しいわね。噂じゃあ冷徹な枢機卿だって聞いたのに」
「人によりけりだ。美女には優しいつもりだが」
「そう。答えは明日でもいいかしら?」
「ああ」
「一つ聞いてもいいかしら?」
「何だ? マリア」
「結果として此処に吸血鬼がいたから書類を渡す事が出来たけど、もしもいなかったらドロテアはどうやって書類を渡そうとしたのかしら?」
「それは役所に書類を提出する気だったのだろう。あの女なら一ヶ月待ちくらいで会う事が可能だった筈だ。学閥を使えばもっと早く会えただろう」
「学閥?」
「……ここには学者がいないだろう、マリア」
「ええそうね」
「何故だと思う?」
「呼び寄せてないからじゃないの?」
「軽く聞き流してくれて構わんのだが、私はザンジバル派で、法王はジェラルド派と言う派閥だ。エド正教内にも色々な派閥がある、確かヒルダはロクタル派に属している筈だ」
「一枚岩じゃないって事よね?」
「そう。私は最大派閥ザンジバル派に属してる、最もこのザンジバル派も一枚岩ではない。あのハーシルもザンジバル派だったからな」
「あれ? それじゃあ法王猊下一人がジェラルド派って事?」
「ああ、クナ枢機卿もザンジバル派だからな当然」
「へえ……」
「だが大きくエド正教という”閥”ではある。これは国の垣根を超えて存在するが故にエド正教の力を強くしている。が、大陸にはもう一つ国の垣根を超えた”閥”がある。それが”学閥”と呼ばれるものだ。学者達には学閥の派閥というのが存在する。勿論あのドロテアもそれの一つに属しているだろう」
「それは、オーヴァートの学閥って事?」
「そうだ。それは世界最大の学閥だ、そしてオーヴァートの元に選帝侯・ヤロスラフがいる。彼の母君は私の後見人だった」
「ヤロスラフの母君……って事はザンジバル派って事?」
ザンジバル派の代表格のようなヤロスラフに戻ってこられると、法王の属するジェラルド派は一気に力を失う可能性がある。
「法王と私は仲は悪くは無いが、次の事を考えるとジェラルド派はザンジバル派の力を抑えたい。が、学者を招くとすると学閥が絡む」
「ヤロスラフが介入してくると」
「ああ、それを怖れたジェラルド派が学者を招く事を嫌う。そして我々ザンジバル派も法王・シュキロス、そしてハーシルと名声を落すには充分な人材を輩出した」
ヤロスラフが此処に入ってくると、その危うい勢力図が均衡を崩す。そしてその均衡を崩し、エド法国を手中に収める事も可能な男が背後にいる。
「でも本当に怖いのはもしかして、オーヴァートって訳ね」
「そうだ。あの男が干渉してくると厄介だと、誰もが思っている」
「セツ枢機卿はどう考えているの?」
「詳しくは知らぬ。そこでマリアに少々尋ねたい、あの男”オーヴァート=フェールセン”と言うのをどう思う?」
全ての奇怪な行動の噂すら、疑いの目を持った者たちには『偽装』に見えて仕方がない。……最も、オーヴァートの噂を頭から信じるのは、到底ムリだが。
「一言良いかしら?」
「好きなように言ってくれ」
「ザンジバル派の人もジェラルド派の人も馬鹿ねえ」
「馬鹿、か」
「もしもオーヴァートがその気になれば、三日で世界を征服しなおせるわよ。自分達を買い被り過ぎてるわ、あのオーヴァートと同じ立場に居ると思うから怖いのよ。オーヴァートがその気になったら誰も止められない、そうでしょ?嘗ての皇帝よ、力を持ったまま退位した皇帝」
「三日で、な」
セツ自身は三日で世界の大半を破壊できると公言できるが、世界を三日で征服できる自信はない。そしてそんな力も無い。
壊す事は簡単だが、支配するのは難しい。長い事支配者階級に身を置き、支配される階級と接しながら支配関して非常に難しさを感じ取っていた。
そこにマリアの一言だ。
「そしてオーヴァートは干渉なんてしないわ」
「……そうか」
「言ってたもの。”権力を得た者は失う事を恐れるが、私は権力を失う事を恐れない。なぜなら私にはヤロスラフがいるから”ってね。オーヴァートは見えない権力なんかより、傍に居てくれるヤロスラフや養子のミゼーヌの方が余程必要なのよ。法王猊下だって法王位よりセツ枢機卿が隣に居る事のほうがずっと大切な筈」
「それは……」
「孤独な大陸全土の皇帝より、たった一人でも忠義が傍に居る嘗ての皇帝の方が似合ってるし、満足しているわ。そしてそれを理解しきれない高位の聖職者は、いずれハーシルのようになるんじゃないかしら?」
「そうなのだろうな。誰も皇帝にはなれないからな……」
「セツ枢機卿はどうするの?」
「出来れば呼び寄せたい。今回の事で、多少は必要性というものを理解しただろう他の者も」
「ええ。頑張ってね。セツ枢機卿になら出来るというか、セツ枢機卿は呼ぶつもりでしょう? そうでなければ私には聞かないものね」
「そう、だな。ところでマリア男に言い寄られて困ることはないか?」
**********
麗しい姫君の危機に
騎士が立ち上がり 見事に姫君を救い出し
騎士は姫君を残して
その国を去っていった
姫君は永遠にその騎士を想い続けて
他国の王の妻となりました
身体を離して無言のままいると、抱いた女が歌った。掠れたような小さな声で。
「オマエはギュレネイスの女か」
裸にならずに女を抱く癖がある。誰も理由は尋ねない。
「ええ、そうよ。貴方もなの?」
離した女の身体は歳よりも少し疲れている。歳は知らないが、本当は触っただけで判断が付く。つける必要も無いが
「そうだな、もう長らく帰ってはいないし……帰る事もない」
もう故郷もない。待つ者もいない。待つ者がいるのはこのエド法国だけだ。
女は髪を梳きながら窓の外を見つめた、少し疲れた表情に、艶も薄れた髪を愛しそうに。
「そう……私この歌あんまり好きじゃないのよね」
ほの暗い室内で、ポツリと女は呟いた、そして男は尋ねた。
「何故だ?」
片目を覆い隠したまま女を抱くのは何故、そんな事誰も聞きはしない。
「助けてくれたなら、最後は一緒になってくれたらいいのに。そうは思わない、ランドって言うのよね」
この女ももう戻る事はない、故郷に。だから、
「……面白い事を言った男がいた」
「何?」
朝焼けに消える三人を見ながら聞いた言葉。
「その歌の解釈だ。騎士は女だったと」
少し化粧の落ちた顔が、女の本当の表情を浮かび上がらせる。
「………なにそれ?」
「ギュレネイスで歌い継がれているから、騎士は無条件で男のように思われるが、実は異国から来た女の騎士だと」
騎士と言うにはあまりにも口が悪い、そして強い。
「そんな強い女……。居たわねあの女みたいな、そいつを言ったのはこの前吸血鬼を倒した男ね」
黒髪の女に声をかけても、容易く断られるだろう。
「ああ。ヤツもギュレネイス人だからな」
正式にはフェールセン人という、蒼い薄い瞳が特徴的な男。
「てっきり男だとばかり……だから姫は騎士を想い続けて」
「他人の妻になったと、こればかりは王ですら太刀打ちできまい」
「あの黒髪の女が姫で」
「亜麻色の髪の女が騎士」
まるであの女たちのようだ。
カタリと櫛を置き、女はもう一度歌をうたった
**********
黒髪の女を愛しても、相手があの女では太刀打ちできはしない
”男に言い寄られて困ることは無いか?”
”ドロテアのような強さと知性とドロテアのような顔だったら付き合ってもいいわよ、で大体引き下がるわ”
”それは……引き下がるしかないな”
麗しい姫君の危機に
騎士が立ち上がり 見事に姫君を救い出し
騎士は姫君を残して
その国を去っていった
姫君は永遠にその騎士を想い続けて
他国の王の妻となりました
一番助けて欲しかった時に助けてくれたの
あの笑顔を作らせる事の出来るのは、ドロテア=ランシェ唯一人
騎士でもなく、王子でもなく、暗黒邪術師の女。
ただ、私に良く似ている
鬱陶しい法衣を脱いで、室内で遺灰の入った壷を足で踏みつけながら、紫煙を吐いた。
ハーシルが自分やアレクスを暗殺しようと指示を出した事は、一度や二度ではない。長い年月、何度もあった。
そして『セツがハーシルを暗殺しようとした事』も何度もあった。セツは『自分でハーシルを殺害しようとした事』は何度もあった。ただそれを実行に移す事は出来なかった。
処刑場で火をかけられるハーシルに”ざまあみろ”と心の底から思う
燃やされる嘗ての枢機卿。その灰を集めて過去の謀略を魔の舌でセツ枢機卿は引き出して
「十二年間前が一番成功しそうだったな。それ以降では今回が一番だったな。ハーシル」
遺灰を探りながら、煙草を咥え酒を口に運び一人呟く。これで面倒な事が一つ、やっと片付いた、と。
「だが、次から次へと厄介事が……片付く訳もないか」
今度はイシリア教国で苦役につかされているエド正教徒を連れて帰ってこなくてはならない。ホレイル王国に責務の七割を負わせるか
「腕の見せ所とでも思っておこう、か。……アレクス、どうした?」
俺の私室にアレクスが来る事は殆どない
「いつも嫌な思いをさせて済まない」
「そうでも無い」
「ありがとう」
俺は法王には向いてはいないな、本当に
『セツが人を雇うのは止められないけれど、セツ自身が殺すのは嫌だ』
強く言うことの少ない法王が、やはり強くは言わなかった
泣きそうな笑い顔で言っただけだった
俺とよく似ている女だ
それとも俺が似ているのか
あの、ドロテアに