準備が整い、法王庁は空になり夜の帳が落ちた。法王庁で息を潜めている四人に、法王達がいる筈の広場で明りが一段と大きくなり、怒号が聞こえ出す。遠く離れているのにコレほど聞こえるとは。
「叫んだ程度で吸血鬼が撤退するとは到底思えねえけどな」
あくまでも冷静なドロテアと
「普通はついつい叫んでしまうもんだろ、ドロテア」
一般人の心理を代弁してみるエルスト。
「そうか?」
相変わらずなドロテアであった
「まっ、始ったようだな、こっちも始めるか」
ドロテアが手に明りを作り出し、罪の噴水を覗き込む。そこは既に透明な水ではなく、赤茶けた粘着質の何かが生物のように噴出していた。エルストも手に明りを灯しながら、ドロテアに
「さっきあのランディールが此処に放り込んだ血の塊って、やっぱり……」
先ほど飛び立っていった“ランディール”と名付けた吸血族が、罪の噴水の前で何やら叫び放り込んでいった物。夜目が若干利くエルストが捕らえたのはただの塊だったのだが、嫌な臭いで大体想像が付くいた。あの臭いは血で、あの塊は
「人塊。コネコネだな、だからやめろっていったのになあ」
戻って来なかった勇者達だ。殉職だなあ、とドロテアが大して気にもしないで口にする
「ひいいいい!!」
やっぱりか? とエルストが嫌な顔をした。あそこまで、姿形がなくなるもんなんだろうな、と思いながら脇を見たらヒルダが一応祈りを捧げていた。
本当に一応、おざなりに。
聞かなければいいのに聞いてしまうのは、人間の性なんでしょうね? とマリアが鳥肌を浮かべているエルストを黙って見つめている。一人何時もと変わらないドロテアが
「とにかく、行くぞ。古代の麗しき神よ、敢えてその名を呼ばしめる。我非才にして神の御前に……」
呪文を唱えると、当たりが白く明るくなり、幾何学模様が暗い室内を所狭しと行き来し始め、不可思議な動きをし始める。そして、あの禍々しい罪の噴水が
「え……なんか噴水の水が」
赤茶けたものが、目の前でゆっくりと
「引いていく……」
驚いてヒルダが祈りを中断して水の無くなった場所を覗き込むと、そこは正に底も見えない空洞であった。ドロテアの呪文はなおも続き、室内は召還の魔方陣で埋め尽くされて、魔法の光で照らし出されていた。
「軽やかに踊る、美しくも儚く消え去るその身を我に、シャフィニイよ!」
そう叫ぶと、噴水の上部に何かが突如現れた。蒼いクリスタルの彫刻のような何かが床にフワリと降り立つ。
「うわあああ!! えっ?? えっ?? 神様ですかああ!!」
腰を抜かしたようにヒルダが指差す。シャフィニイの姿は、人が見ると多分“水の精霊”と評するような姿形をしているのだ。これが聖火神だとは、いわれなくては解らないほどに。人間のような表情はないが、穏やかな雰囲気を持っているのは良く解る。そのシャフィニイに
「落ち着け、ヒルダ。よお、シャフィニイ」
相変わらずのドロテアである。ヒルダはマリアに引き起こされながらも、シャフィニイから目が離せないでいた。
「久しぶりだね、ドロテア。この前力を使ってくれて有り難うね」
当然口も動いていない、そもそも口自体が無いのだが声が全員に届く。
「えっと、初めましてマリアといいます。聖火神様」
“人語喋るんだ”とマリアも立っているのが精一杯だったりする。それ以外、考え付かないのだ。が、手と思しき部位を開いて
「シャフィニイでいいんだよ、マリア。そっちはドロテアの妹だね」
「初めまして、ヒルダです。ヒルデガルドです、です……です……です」
「マリアとヒルダだね。覚えておく。そして二人共元気そうで何よりだ」
二人と言うのは当然ドロテアとエルストだ。ドロテアは、ワゴンでエルストに運ばせた食事を取り出して
「まあ、取りあえず食え」
と皿を聖火神の前にグイッ! と出す。
「神様相手にそれですか、姉さん!!」
ヒルダの言葉は最もだが、法王相手だろうが、国王相手だろうが、神相手だろうがドロテアが変わる訳が無い。シャフィニイの方も全く気にしている素振りなどないようで、
「わざわざ有り難うね、こんな魔法陣まで作ってピラフまで作ってくれるだなんて」
嬉しそうに受け取って、普通ではないが食べていた。その姿を見ながら
「ボケ……てる訳じゃないわよね」
マリアは隣に立っているエルストに、少しだけ引き攣った笑いで尋ねる。
「こんな感じの神様」
二度目ともなれば慣れたものらしく、エルストは平気らしい。いや、エルストだ、ドロテアの夫だ、神様の一体や二体で驚くような精神力では生きていけないのかもしれない。笑顔のままワゴンから他のマリアが作った料理を取り出しシャフィニイに差し出している姿と、それを嬉しそう(表情は無いが嬉しそう)に受け取っているシャフィニイを見ながら
「ふ〜ん……」
これは道端に落ちている事もあるかも知れない、とマリアは思った。
「で、頼み事と聞きたい事がある」
「何だい、ドロテア」
−神をも凌いだフェールセン
−実際には何が神を凌いだんだよ
−それはね……召喚できるかドロテア
吸血大公の姿はドロテアが予想した通り、ランディールの姿をもっと凶悪にしたような姿で。
正視に堪えない生物である。姿だけで人に恐怖をあたえる為に作られたその生物。何をモチーフにして作られたのか、ガーナベルトを前にした人間達には思いもよらない。その原型を考えている余裕も当然ありはしないない。爬虫類の鱗で覆われたような緑色の肌、不規則に動く長い髪と思しきモノ。赤い目に大きく開いた、猫のような口。
この世において人間と共に生活している生き物の形は、何処にも見当たらない。
その吸血鬼を前に、今ばかりは”輿”から降り立った3人の枢機卿と、法王。セツ枢機卿の後ろにアレクサンドロス法王、セツ枢機卿の斜め前にクナ枢機卿、そしてクナ枢機卿の斜め後ろにハーシル枢機卿。
その周りを他の者達が緩やかに取り囲んでいた。吸血大公を前に息を呑む法王と対照的に冷静なままのセツ枢機卿。
一歩前に踏み出し
「今日で最後だ吸血大公ガーナベルト」
魔力を通した声でガーナベルトに声をかけた。それを合図に他の者達も動く。ドロテアの指示通り、囮と思わせて攻撃するセツ枢機卿が空中に浮く吸血大公を見据え、最高の魔法を唱え始めた。
「祈りを我に……我が至高の神に捧ぐ……」
凡そドロテアや、普通の魔法使いでは唱えられないような、強大な法力を用いた『最高魔法』が辺りを明るく照らし出し、吸血鬼の意識がセツ枢機卿の方に向く。
魔力によって実際より篭ったような声ではあるが、力強い声が当たりに響き、呪文の詠唱が続くと辺りが徐々に静寂になってゆく。この世でこんな魔法を唱えられるのは、セツ枢機卿か法王くらいのものだ。
そのセツ枢機卿の姿と、手に篭った力をみて
「ソレをまともに喰らっては、此方もひとたまりも無いな」
そう地を這うような声で言い、吸血大公も魔法を唱え始める。
「夜の歌を歌いし……」
吸血大公はテメエに対抗する際に、必ず古代魔法を用いる
『どの程度の古代魔法か全く見当もつかんな』
魔法を唱えながら、対峙する吸血鬼が唱え始めた古代魔法の呪文を聞き、セツ枢機卿は“念の為”にもう一つ魔法を隠して唱え始める。
最初に唱えた魔法が効かなかった場合、攻撃を防ぐ魔法を。
熟練になれば魔法は一度に複数唱える事が出来る、ドロテアなどはこの類で小さい魔法ならば一気に七つは唱えられる。
そしてそれに生まれ持った法力が加われば尚の事。だた多数唱えれば唱える程、余程の人間でもない限り、辺りに注意が回らなくなってしまうのが欠点でもある。
さすがのセツ枢機卿も対吸血大公用の魔法と、それが防がれた時の為の魔法と、それが跳ね返ってしまった時に辺りに被害が及ばないようにする為の魔法を唱えていては、さすがに無防備にならざるを得ない。
そして、本当に今セツ枢機卿は無防備であった、何時もならば隣に控えて警戒の魔法を唱えているエギ大僧正がいない為に。
セツ枢機卿が最も信頼を置くエギ大僧正は、暗い法王庁を僅かな明りで辺りを警戒しながら二人を連れ、ハーシル枢機卿の私室へ向かっていた。暗い室内を、証拠集めにハーシル枢機卿の私室に踏み込んだエギ大僧正達。エギ大僧正は、額の汗を拭いながら歩いていた。
それはハーシル枢機卿の部屋へ踏み込む緊張だけではなく、恐ろしい力を感じているからだ、吸血大公もあるがそれ以上に法王庁の中に存在している力。他の者達も感じていたが、何か途轍もない“者”が法王庁に呼び出されているのには気付いた。
“口先だけでは決して無い女だ”そう思いながら、エギ大僧正は何とかこの機にハーシルの尻尾を掴もうと必死に室内を物色していた。
「エギ大僧正! これを」
一人がある物を見つけた。
「これは……」
小さな瓶に僅かに残った白い粉。
「間違い無く『慈悲の白い粉』です」
薬品に通じている部下が瓶を振り、サラサラとした結晶を見つめて頷く。
「コレしか残っていないの……持ち出された? ハーシルは何を持ち出した?」
「聖典と家宝の短剣ですが」
「鞘が無い短剣が転がっているな」
室内にあるのは、水と抜き身の短剣。
「水に毒を溶かして剣にしたか?!」
エギ大僧正の声が法王庁に木霊した。
水に毒を溶かし込んで、それを氷剣にする程度ならハーシルでも出来る
「! 急げ!!」
まさか法国の一大事に、そんな事をするとは思いもよらなかっただろう。
そして……
セツ枢機卿が祈りを捧げている時、最大に力が溜まる時をハーシル枢機卿は狙っていた。セツ枢機卿を暗殺しようとし、失敗し続けた。強さも法力も桁違いなセツ枢機卿。
”隙”を見つけ出すのを雇った暗殺者が”諦めた”程注意深く、そして返り討ちにする枢機卿。だが、今は”隙”が素人であるハーシル枢機卿にも見て取れる。吸血大公だけを見据え、法力を集中させているセツ枢機卿。その絶大な力は確かに”素晴らしい”とハーシル枢機卿も認めるが、それとこれは訳が違う。
そして今こそ千載一遇のチャンスでもあった。
“今だ、今しかチャンスがない”
ハーシル枢機卿が老体に鞭を打って走り出した。わざわざ軽い格好をしてこの機会を狙って、クナ枢機卿の影からセツ枢機卿に向かって走り出す。その手にはエギ大僧正が予想したとおり、毒を水に溶かし凍らせた剣を握り締めて。それに気付いたのは、セツ枢機卿に警戒を払っていたアレクサンドロス法王。
ハーシル枢機卿が走り出した瞬間、嫌なものが駆け抜ける感触が法王を襲った。手に握っているのは『氷剣』
魔法を唱えてそれを水に返す事も出来るが、ギリギリ間に合うかどうか? 法王には”間に合わせる自信”が無かった。そして唱えるよりも駆け出していた
「危ない!! セツ!!」
ハーシル枢機卿より重い服装で、法王はその身をセツ枢機卿の前に躍らせる。
そして、もしもセツ枢機卿がハーシル枢機卿に害されるなら、傷つけられるなら法王は間違いなく予知夢で知る事ができた
“だが、予知夢は自らの危険は教えてはくれない”
決まり事となっているような事象。
−……だから気をつけるんだな
−解った、一応……でも矢張り私を狙っているの?
−さあ?だがあの毒の量だ。俺も一緒に殺害する気だろう
−セツも気をつけて
−アレクスの予知夢があるからな
身体に冷たく食い込んできた、氷の刃を脇腹に感じながら毒が広がる感触までも感じつつ法王は、最後の力でセツ枢機卿に言われていた通り準備していた魔法磁場を身体に広げた。
走り出したハーシル枢機卿には全く気付かなかったセツ枢機卿だが、目の前で起こった事を瞬時に理解し折角の“祈り”を放棄して法王を抱き止めた。
予知夢は自らの危険は教えてはくれない
「アレクス!」
全ての魔法がセツ枢機卿の手からはじけとんだ。気を抜いて唱えられるようなものではない。全ての力が辺りに霧散してゆく。
「猊下!」
クナ枢機卿も驚きの声を上げ、法王を刺し返り血を浴び呆然としているハーシル枢機卿を前に吸血大公は笑い叫んだ
我は滅びぬ
我を滅ぼす事はできぬ
人の叡智を持ってしたところで
我を封じ込める事はできず
白い石畳が法王の血で染まる時
「我が居城よ甦れ!」
突如地面が揺れる、立っているのも困難な程でセツ枢機卿の手から法王が転がり落ちる。振動が強く、誰の声も聞こえない状態になった時
「な……何だ!!」
吸血大公の声が首都に響き、白い首都に青白い閃光が横に走る。ほんの一瞬輝いた閃光。
呼び覚まされようとしていた吸血城の鼓動が、一瞬にして潰えた。
その光はすぐさま消え去り、吸血大公までもが何が起こったか解らないような素振りと共に、静寂があたりを包み込んでいると4つの黒い影が広場に辿り着いた。
その時法王庁では
「気をつけるんだよ、ドロテア。エルストもマリアもヒルダもね」
聖火神が四人に優しい声をかけてくれていた。