私の名を呼ぶまで【72】

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[72]威厳

 油を持ち両親の後宮へと向かおうとしたバルトロの元に兵士たちがやってきて、壕に入れていた人食い巨大熊が逃げ出したと知った。
「どうして?」
「蜂に刺されたやつらが、おかしくなって」
 バルトロは彼らに油が入った缶をマティアスの後宮に運ぶことと、
「運んだら全員部屋に戻るように言いなさい。蜂を避けるために室内待機していてください」
 これ以上被害を出さぬためにもと、彼らに室内待機を命じた。
 剣を持ち、慌てふためく兵士や召使いたちに部屋に入っているように叫びながら、人の流れと逆方向にバルトロは進んでゆく。
 彼が辿り着いた時には、すでに人食い熊の姿はなかった。
「兄上!」
「エドゥアルド!」
 人食い熊などの危険な生物に関する出来事となれば、当然エドゥアルドに連絡が届く。
 バルトロは虫師が作った蜂に刺されると異常行動を取ることを伝え、エドゥアルドは、
「兄上は他の動物たちの状態を見てきてくれ。お前たちも兄上と一緒に。蜂には重々注意しろ」
「はい。下賜された側室をお返しするような真似はいたしません」
 子飼いの部下が死に、若い妻が残された場合、その生活を安定させるべく主が側室として召し上げる――こともある。
「そうだ、注意しろ。私は熊を仕留める」

 エドゥアルドは見張りを食い、血を滴らせて歩く熊の足跡を追った。

 バルトロの指示により王宮内は静まりかえっていたが、とある後宮入り口だけは人で溢れかえっていた。
「ヨアキムの側室たち?」
 ざわめく声に含まれる恐怖。彼女たちをはさみ、向かい側から迫ってきている人食い熊。
「間に合うか? クリスチャン!」
『君の足なら間に合うさ、エドゥアルド皇子』
 エドゥアルドはクリスチャンを構えて駆け出す。熊に気付いた側室たちが叫び声を上げて散らばる。
 押されて一人の側室が床に転び、その側室を急いで立ち上がらせようと手を差し伸べているのが、
「エリカ!」
 滅多に後宮から出ることのない、エドゥアルドの側室エリカ。
 熊の巨大な手が振り上げられ、エリカと転んだ側室に振り下ろされ――エドゥアルドは人食い熊の懐にその凶手を切り上げる。腕を切ったと同時に飛び上がり、その首を切り落とした。
 エドゥアルドの二倍以上ありそうな巨大な人食い熊はしばし立ち尽くす。着地したエドゥアルドはエリカと倒れている側室を抱えて離れた。
 そして頭部を失い死んだ人食い熊は倒れ、轟音があがる。
「なにをしているのだ? お前たちは」
 二人を降ろしたエドゥアルドは、ヨアキムの側室たちになぜここにいるのかを尋ねる。

「オルテンシア王女がヨアキム皇子を……」
「お妃さまがヨアキム皇子を……」

 だが側室たちの話は今ひとつはっきりとしない。
 ”なぜか曖昧”な中、侍女カタリナが、
「ヨアキム皇子はオルテンシア王女に後ろから刺されました。そしてアンジェリカが王女を斬ったのですが王女は倒れず。ヨアキム皇子は王女に向かって”あと少しだったが”と言い、私たちに逃げるように命じました……皇子が戻ったのは、お妃さまが行方不明だからです」
 真実に”近いもの”を語った。
「戻ったということは、妃は後宮にいるのか?」
「行方不明なのですが……」
 カタリナはヨアキムに妃の居場所を教えたレイチェルに視線を向ける。
「お妃さまの居場所は言えません」
 エドゥアルドと目があったレイチェルは言うことを拒んだ。妃を閉じ込めた犯人は側室リザ。エドゥアルドは彼女の味方をすると判断されてもおかしくはない。
「それは、どういう意味だ?」
「エドゥアルド皇子」
 その助け船になったのは、意外にもエリカであった。
「なんだ? エリカ」
「側室リザ殿がエドゥアルド皇子の後宮を抜けてヨアキム皇子の後宮へと入りました。ヨアキム皇子の後宮で、なにか良からぬことが起こっているようです」
 エリカは突然剣を携えやってきた側室リザに驚く。側室リザは驚いているエリカには目もくれず「来たことがない、知らないはずの」エドゥアルドの後宮を迷うことなく進み、身軽に生け垣を越えていった。
「エリカ。ヨアキムの側室たちを私の後宮に。いいな、お前たち」
 エリカに後を任せエドゥアルドは側室リザを追った。

『ヨアキム皇子の後宮に虫がいるよ。融合孵化した虫が。虫女がうろつき回っている』

**********

 オルテンシアは果物ナイフを袖に忍ばせ、片付けた部屋を見回す。片付けたといっても部屋が空になったわけではない。彼女が持ち込んだものなどなに一つない。洋服一枚すら彼女は持たず後宮に入り、不足ない生活を送っていた。
 ヨアキムは彼女に対し優しい態度は見せなかったが、最初の言動以外は冷淡なれど不快ではなかった。冷たい眼差しで見つめられ、罪を感じ、頭を垂れる。
 庭へと出て木陰に隠れてヨアキムとベニートが笑っている姿を見て、笑顔は一生向けられないのだろうなと分かりながら、その表情に昔の憧れが淡く色づく。
 彼女はシリルと愛し合っていたが、ヨアキムのことを知らなかったわけではない。
 白銀のたえなる異称を持つヨアキム。異国の皇子に憧れをいだく頃があっても、誰も責めはしないだろう。
 彼に出会った時、自分の姿に絶望した。容姿は優れていないが、せめて美しく着飾った姿で出会いたかった。

―― この部屋の前の主はヘルミーナ。ホロストープが放った虫が孵り死んだ ――

 侍女をつけられることもなく、後宮から出ることも禁じられ、ヨアキムから疎まれ……だがその冷たい目で無言で見つめられるだけで彼女は良かった。彼女は自らが側室として未来があるとは思っていなかったが、疎まれている間は。
 連れて来られた妃と、以来訪れることがなくなったヨアキム。
 忘れられる恐怖に戦きながら、彼女はヨアキムの姿を見るために部屋から出て、人目に付かぬようにしてヨアキムを見る。
 ヨアキムが妃に注ぐ眼差しは彼女には望めないものであった。自らが戦争を仕掛けた亡国の王女であることをまざまざと見せつけられた。
 だが、レイラとの会話を”見て”彼女は嫉妬した。

―― ヨアキム皇子……妊娠いたしました ――
―― 誰の子だ ――
―― ヨアキム皇子の子です ――
―― 私の子だと? ――
―― お疑いなのですか? ――
―― 疑ってはいない ――
―― ではなぜそのような目で ――
―― 確信しているだけだ。それは私の子ではない ――

 懐妊したと告げたレイラに向けられた凍えるような眼差し。それを後宮で向けられたことがあるのはオルテンシア、彼女だけ。
 唯一自分の物であったその眼差しと、

―― 私は後宮から一歩も……エドゥアルド皇子ともベニート公子とも会話しておりません ――
―― ならば妊娠などしていないのだろう。お前の勘違いだ。私はお前の妄想に付き合うつもりはない。妊娠したなどと言い触らすな ――
―― お待ちください、ヨアキム皇子 ――

 それ以上の蔑み。ヨアキムの負の感情をレイラに奪われ彼女は殺意を覚え、それはもう収まることはなかった。
 彼女は自らの殺意と向かい合い、妃を害することにした。レイラに向けられた負の感情を取り戻すために。

 袖に果物ナイフを忍ばせたオルテンシアは妃を捜し部屋を出る。

 いつも妃がいる場所にはおらず、そのうち「お妃さま、どこにいったんだろう」「見かけた?」「見てない」という声が聞こえてきた。
 表情を強ばらせ剣の柄に手をかけたままのヨアキムが後宮に戻ってきて、その緊張感は一気に高まる。
「カタリナ。先に部屋に戻れ。もしかしたら戻っている可能性もある」

 ヨアキムの元にカタリナがやってきて、妃が行方不明だと伝えることができた頃には、もう日が傾きかけていた。

「畏まりました」
 カタリナに先に戻るよう命じ、ヨアキムはレイラの部屋へと足を向けた。ヨアキムが後ろを付いてゆく彼女に気付く様子はなかった。
「レイラ」
 ドアを乱暴に空け、怒鳴るようにレイラに妃について尋ねるヨアキムと、疑われたことに傷つくレイラ。
 乱暴に家捜しし、
「いないようだな」
 レイラの部屋をあとにする。

「どうして信じてくださらないの」

 呟きを聞いた彼女は果物ナイフをレイラに突き立てたくなったものの、部屋にいたシャルロッタが扉を閉めてしまったので、その機会を失った。

**********

 ヨアキムはカタリナと共に後宮へと向かい、出入り口で妃を見ていないかどうかを再確認する。
「居ないか」
 室内をくまなく調べたものの、妃の姿は見当たらなかった。
 捜索隊を編成しなくては――早急に手を打たねばと部屋から出たヨアキムの前に立っていたのはアンジェリカ。
「ヨアキム皇子」
「忙しい。後にしろ」
 側室リザから妃を監禁したと知らされたアンジェリカは、ずっとはぐらかされていたことを遂に聞けると悲壮な覚悟を決めて”監禁したと”言った。
「なんだと? アンジェリカ。なんのつもりだ?」
 協力者に側室リザを選んだのは、彼女と顔見知りであったこともあるが、迷惑をかけてもエドゥアルド皇子が尽力し、大事にはならないだろうとの目論見から。
 彼女自身は真実を聞けたら死んでも構わなかった。
「答えてください。なぜカレヴァさまが裏切ったのか! 本当のことを教えてください」
「……」
 命を賭けても知りたいという気持ち ―― だがヨアキムがその決意に絆されるようなことはない。
「妃はどこだ」
「教えていただけたなら」
「殺したのか?」
「いいえ」
「信じるとおもうか? 本当に無事なのか! アンジェリカ! 早く言わねば妃が無事であっても唯では済まんぞ!」

**********

 遅れてヨアキムの部屋へとむかうと、入り口でプラチナブロンドが美しい女騎士アンジェリカと、ヨアキムの言い争いが聞こえてきた。
 妃の身を案じるヨアキムの声を聞いているうちに、彼女は妃にも嫉妬し、ヨアキムの腰にナイフを突き立てた。
「オルテンシア……」
 振り返ったヨアキムが血濡れた彼女の手を掴む。初めて握られた腕に胸は高鳴り、
「ヨアキム皇子……私は」
 本当は妃に嫉妬していたことに気付いてしまった。その恐怖からヨアキムの手を振り払い、逃げようとした。
 ヨアキムと口論していたアンジェリカが剣を抜き、彼女に斬りかかる。
 刃が自分に振り下ろされる。それはゆっくりであったが体は動かなかった。

「止めろ! アンジェリカ」

 ヨアキムの叫びの意味を彼女が理解するのは、自らの体が切り裂かれてから。
「なぜ傷が消える」
 斬られた体は痛みを彼女に伝えることはなく、体内の至るところが蠢きだす。
「なに……アンジェリカ! カタリナも! 後宮の者たち全員を避難させろ! 早く!」
「確かに斬ったはずなのに」

 アンジェリカが構える細身の剣の刃に映った自分の姿 ――

 ヨアキムは自分が虫に寄生されていることを知っていたこと、そしてこの醜い姿をヨアキムに晒してしまったことに耐えられず、彼女は急いで立ち去った。
 廊下に飾られている鏡に映し出される自分の姿。あまりにおぞましく、この姿をどうしていいのか? 彼女には分からなかった。
 そして彼女はレイラの部屋へと急ぐ。今ならばレイラを殺すことができることに気付いたのだ。

 不思議なことに彼女を見ても、どの側室も恐怖の叫び声を上げることはなかったが、彼女はそのことに気付かなかった。

 レイラの部屋のドアを開けと、室内にシャルロッタの姿はなく泣いているレイラだけがいた。
「誰……お妃さま?」
 ベッドに俯せとなり泣いていたレイラが顔を上げて彼女を見た……筈だったのだが、なぜかレイラは彼女のことを妃と間違えた。
 彼女はレイラを蹴り、転がった腹を踏みつける。
「止めて!」
 腹部を必死に庇うレイラと、踏みつける彼女の元に、
「なにご……オルテンシア王女?」
 シャルロッタと女医がやってきた。
 妃が自分とヨアキムの子を殺害しようとしていると叫ぶレイラに、
「お妃さまではありません!」
 女医が必死に真実を伝えるものの、レイラは妃に腹を踏まれて、子が死んでしまうと叫ぶ。
「オルテンシア殿。一緒に来て下さい」
 シャルロッタが捕らえようと手を伸ばしたが、彼女はそれをすり抜け走り出した。
 室内に残されたシャルロッタは、あり得ない速さに驚き息を飲む。
「レイラさまを運び出しましょう」
 女医が足をシャルロッタは頭を持ち、レイラを部屋から医務室へと運び込む。その途中、ヨアキムより避難命令が出ていることを聞かされた。
 後宮から出た側室たちであったが、王宮に通じる扉は閉ざされ叫んでも叩いても反応がない。

 なにが起こったのかまったく分からず途方に暮れている彼女たちが残され ―― 巨大熊に襲われかけることになる。


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