私の名を呼ぶまで【67】
[67]私の名を呼ぶまで:第三十九話
貴族たちに妃を紹介し、鮮やかでとてもよく似合っているドレスを着たアイシャをエスコートし、ベニートの母親であるリザと話をし、妃に見られていると気付かずにレイチェルと後宮の庭で話合いをし、側室リザの部屋へと行き、椅子に腰を下ろして一息ついたヨアキムに、
「ヨアキム」
「なんだ? リザ」
エドゥアルドが遅れてやってきたことを伝える。エドゥアルドは皇都から少し離れた場所で起こった事件の調査に出ることになり、妃への紹介が後回しになってしまったのだ。
紹介するための夜会に間に合わないのではと思われていたのだが、エドゥアルドは急ぎ戻って来た。
「どうだった?」
「さすがにおかしなことは言わなかったよ」
妃からすると、とても厳しい口調であったのだが、エドゥアルドとしては普通に喋ったつもりであった。
表情の硬さと軍隊で鍛えた大きな声が、そういった階級に馴染みのない妃に厳しさを感じさせたのだ。
「そうか」
表情の強ばりは近くに側室リザがいたため。
以前は側室リザが近くにいると表情が緩んだものの、妃が後宮にやってきてからは、側室リザを心配し、表情が強ばることが多い。
ヨアキムが側室リザの元に通わなくなったら、他の側室たちが側室リザになにかをするのではないか? ヨアキムが以前側室リザを妃候補にしていたと知ったら、妃がなにかをするのではないかと――まったく持って杞憂なのだが、エドゥアルドはそんなこと知らない。
「それで私のことを説明したら、お妃さま、蔑んだ瞳でこっちを見てた。仕方ないことだけど、こう……快感になるね」
エドゥアルドの心配など側室リザ、あるいはベニートには無用。
「はあ?」
ヨアキムは後日、妃に側室リザのことをカタリナに言ったか? と尋ねたところ”言えるわけない”と言った類の言葉を返された。
「何か危険を感じたら、側室リザのところへ行け」
妃の”側室リザ殿ですか。ベニート殿なのに”という視線を受け止めるのは非常に辛いものがあった。
念の為に側室リザとはなにもないと語ったものの――語れば語るほど怪しくなることに気付き、身の潔白を証明することは諦めた。
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妃にオルテンシアに近付かないほうがいいのか? 聞かれ、近付かないように告げてから、久しぶりにオルテンシアの部屋へとむかった。
室内の空気は暗く沈んでいる。この部屋がかつて自分が通ったヘルミーナが居た部屋だとは思えないほどに。
オルテンシアはただヨアキムを見つめ、ヨアキムは無言で彼女を見下す。
虜囚と勝者の面会に、会話はなにもない。
―― 早く死んでくれれば……
ヨアキムは結局オルテンシアを虫の毒で殺害することにした。
死ぬ間際毒で苦しんだら首を切り落とすくらいのことはしてやるつもりにもなった。どうして苦しみを和らげてやろうと考えるようになったのか? ヨアキム自身も分からない。
それとヨアキムが分からないことがもう一つある。オルテンシアが自分の胎内に蛹が巣くっていることに気付いたこと。
オルテンシアは体調が優れず、日中ベッドに入っていた。眠るほどではなく、ただ横たわり、どうすることもできないだるさを持て余していた時、ヨアキムが微笑んでいる姿が現れた。
オルテンシアはヨアキムが微笑んでいる姿など見たことはない。彼女は目を閉じ、その笑顔を見つめる。
ヨアキムが微笑んでいた相手は黒髪を編み込み上げて、散歩用の鍔の大きな帽子を被り、紫陽花が刺繍されたドレスを着てヨアキムと共に散歩用の小径を歩いている妃。
彼女はどうしてこんな幻を見るのだろうかと起き上がり、外を見た。蜂が外に出ろと誘うような羽音を立てる。
彼女は庭へと出る。ヨアキムと妃が居る場所は知らないはずなのに”こっちにいる”と何故か分かる。それに恐怖を感じることもなく足を進め――そして二人を視界に捉えた。彼女が部屋でみたのと同じ格好をした妃とヨアキム。ただ視点が違った。彼女が目を閉じるとヨアキムは斜め上から見下ろすが、彼女の身長では当然見上げることになる。
ヨアキムを見下ろせるその位置にいるのは蝶。
彼女は父親が健在であった時に聞いた「虫と同化しはじめると、虫の視界で世界を見ることができる」ことを思い出した。
部屋に戻った彼女は窓のカーテンを引き、自分は父や兄弟、そして婚約者であったシリルに暴行された筈だと言い聞かせる。
このときほどオルテンシアは自分が暴行されていて欲しかったことはなかった。
虫と同化し命を失うことが怖ろしいのではなく、虫が孵りヨアキムを襲うことを恐れ、だが、なにもすることができない自分に失望した。
ヨアキムが妃を抱き上げて、散歩を続ける姿をみて、オルテンシアは長い髪を掻きむしる――。
**********
「ヨアキム。お妃さまを抱き上げて散歩したんだって」
「ああ。道に水たまりがあったからな」
二人で散歩していたところ、昨晩降った雨のせいで小径に水たまりができていた。
ヨアキムは跨げる大きさだったが妃には無理。
ブレンダが作ったドレスを汚したら……と考え、ヨアキムは妃を抱き上げて水たまりを跨いだ。
抱き上げられた妃は、事情を聞き”無理して道を歩かないでも。道の脇を通れば……”皇族のヨアキムには考えつかなかったことを教えてくれた。
「お妃さまらしいね」
「そうだな」
ヨアキムは終わりが近付いているオルテンシアの部屋にも通うようになった。
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ヨアキムはキリエにロブドダン王国について調べるよう命じた。
彼女の部屋へと渡り、栞が挟まれた頁を開き目を通す。だが死霊については、国外で手に入る書物にはヨアキムが知っていること以上のことは記載されていなかった。
分厚い本の裏表紙に、ロブドダン王国の地図は貼られていた。
「妃の故郷はここか」
ヨアキムは独り呟きながら、その地図を指でなぞる。ほんの小さな点で、村の名も小さく印字されているだけ。
「お妃さまの故郷のこと、調べましょうか?」
「要らん。この本は持って行く」
地図を見せたら妃はどのように反応するだろうかと、ヨアキムは本を持ち部屋へと帰った。
その後もキリエにロブドダン王国のことを調査させる。
妃と会話を弾ませるために調べている――キリエはそう考えた。
歴史に文化、好まれる音楽に郷土料理。
キリエの考えは間違っており、ヨアキムはロブドダン王国を併合する思惑があり、彼女に調べさせていたのだ。
王族のほとんどが統治に必要な「死霊」を失ったロブドダン王国。
クローディアを帰国させはしたが、彼女とその親戚メアリーにかけられた迷惑は、表だって何もできないが、内心は腹立たしいもの。
呪いをかけることができる体質と、いままで呪った国が辿った歴史を考えれば、併合は避けられないだろうと判断してのこと。
「お妃さまと離婚すると、ロブドダンの王弟が再婚相手にって希望するかもね」
立て続けに二度ラージュ皇国の不興を買ったロブドダン王国。自国の貴族を娶るよりも、ラージュ皇帝の元妃を貰い受けたほうが役立つと考える可能性もある。
ベニートにそのことを指摘されたヨアキム。
「ロブドダンとの再婚は許可しない」
「許可しないって言っても、お妃さまが望んだらどうするの? 離婚の際の条件にするの?」
「……妃は元々、結婚するつもりがなかった女だから……独身を貫いてもらうつもりだが……」
ヨアキムの言葉の切れは悪い。
「強制するの?」
「……」
離婚しても妃の周囲に注意を払わなくてはならない。
―― 結婚していたほうが楽だな
**********
「どうだ?」
「少々違います」
ヨアキムはレイラの部屋で下流語の練習をしていた。
妃に下流語で話しかけても、あまり反応してもらえないので言葉がうまく通じていないのだろうと解釈し ―― 本当の理由は違うのだが ―― 下流語が使える側室の元へと通い、発音の練習をしていた。
レイラを選んだのは、彼女の故郷がもっともロブドダン王国に近かったので、生まれ育った地域が近ければ、発音も似るだろうと考えてのことである。神の道に進むものは、三階級の言語を操れなくてはならない。
「そうか……」
ヨアキムの判断そのものは間違っていなかったのだが、レイラはヨアキムが通ってくるうちに、好意以上のものをいだいた。
レイラはエスメラルダと同じく触れられることのない側室であるが、彼女は声を聞いているだけで肌が熱を持ちヨアキムを求めだした。
それは疑似の会話がもたらした幻影。
妃はヨアキムが一目ぼれして連れてきた――と思われているので、会話を習う際、実際は使用しないのだが”愛している”や”私のそばにいろ”などの言葉も声に出して練習した。
レイラを見て虚ろなる愛を語るヨアキムだったのだが、彼女は徐々に自分に向けられているものだと錯覚したのだ。
ヨアキムは愛を語る言葉を真剣に覚えようとはしていなかったので、レイラの反応そのものに気付かなかった。そしてヨアキムはある程度練習したところで、レイラの元に足を運ぶのを止めた。オルテンシアの様子を見る必要もあったので、妃のために時間を割いていられなかったのだ。
ヨアキムが通わなくなった部屋で、一人レイラは待った。そして彼女は身籠もった――抱かれたこともなく、口づけすらかわしたことはないのだが、彼女は自分はヨアキムの子を身籠もったと。
「早くヨアキム皇子に伝えなければ」
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