私の名を呼ぶまで【61】
[61]鋼の弾丸:エンブリオンの骸
見たこともない世界――
地面がなく周囲は山のように高い建物ばかり。
「誰か」
叫んだ声が周囲に響く。風が吹いて、紙が飛び交う。
奇妙な声が聞こえてきた。
動物の声じゃないけれども、人間の声でも……ないような。でもここがどこか分からないから、もしかしたらと思いながら、私は恐る恐るその声らしきものが聞こえてくるほうへと近付いた。
大きな建物の間の細い道に、呻き声を上げていた物は、
「……きゃあああ!」
人間のようでありながら違った。死体が歩いているかのような。その悍ましい生き物から逃れようとしたのだけれども、私は足を取られて転び、ふくらはぎに激痛が。
なにが起こったのか、分からなかった。
私は歩き回っている。
ここは私がいた世界じゃない。私が元居た世界は…………どうしていいのか分からず、私は歩き回る。
人の声がするほうへ、するほうへ。
「地獄とは少々違うのですが、あなたの宗教観からすると、そうでしょうね。狙撃手さん」
話し声の主は……ああ! やっと召喚した聖女を元の世界に戻した……テオドラと名乗った女だ!
**********
「聖女が……」
聖女が消えた。
この世界を救うために召喚した聖女を。
「貴様、なんてことをしてくれたのだ!」
世界が滅んでしまう! なんということをしてくれたの――
「聖女がいなければこの世界は……」
「聖女を元の世界に戻したことを怒っているのですか?」
「当たり前じゃない! 世界を救うために喚び寄せた救世主を、勝手に元の世界に戻すなんて!」
「勝手に喚び寄せるのはいいのですか?」
テオドラと名乗った女は、私たちに向かって笑いかける。悪意や害意はなく、でも親愛もない。ただの笑顔。
「世界を救うためには仕方ないことなのよ!」
怒っていない、軽蔑してもいない。
感情はあるけれども、私には感じ取れない。
「そうなんですか」
「喚び戻しなさいよ! 戻せるんだから、簡単に呼べるでしょう!」
テオドラと名乗った女は、
「皆さんの言い分はわかりました。では皆さんも救世主になってみたらいかがですか?」
”そう”告げた。
「どういう意味よ」
「異世界に一人で放り出されてみてください」
「なっ!」
「世界はどこでも救世主を求めているものです」
「私にはなんの力もないわ」
この台詞あの聖女が言っていた。
「ロビンさんには聖女と呼ばれる存在を、異世界から無理矢理連れて来るほどの力があるじゃないですか。それ程の人が力がないと言うのもおかしいですよ」
「この女を排除……」
叫んだけれども、誰もいなかった。何時の間に?
「皆さんはもう異世界へ。救世主になれるといいですね」
「あなた……一体」
「統計と言いますか、経験から言いますと……」
「嫌よ! 私は救世主になんてなりたくないわ! 返してよ! みんなを元の世界に!」
私は聖女と同じ言葉を叫んでる。
「頑張って下さい」
テオドラと名乗った女はまるで聞いていない。
「この世界に迫っている危機は!」
「危機の元凶も異世界に救世主として飛ばしました。この世界の全ての人間を異世界へ。頑張って世界を救って帰ってきてください」
「い、いや……」
そして私は異世界に飛ばされた。
仰ぎ見るような高い建物。生き物の気配はなく、あちらこちらで火花が散っている。見たことのない食べ物。四角い板に人が映った。声をかけても返事はなくて。
回りには誰もいなくて、叫んでも誰も答えてくれない。私を知っている人は誰もいない。
土ではない固い地面に足が痛む。
呻くような声。その声の主は、汚れた沼の水のような肌色をし、口の辺りの肉が削げ落ちた……
**********
テオドラが指さした先に、ゾンビが一匹。
銃を構えて頭を吹き飛ばす。元は人間、吹き飛んだ頭の中身は色は悪いが脳みそだ。最初は気味悪かったが、慣れてしまえば……”どうってことない”と言うのには少し抵抗がある。
「Who killed Cock Robin? I, said the Sparrow, with my bow and arrow, I killed Cock Robin.」
**********
私、死ぬの。死ぬの……
いや死にたくない。誰も私のことを知らない世界で一人きりで――帰りたい、帰らせ……
「どうした? テオドラ」
話終えた二人が近付いて来た。
「このゾンビ、見覚えがありまして」
私よ! ロビンよ! 帰して! 私を帰して。
「知り合いか?」
呻き声すら上げることができない。
「この世界のこの時代の知り合いは、先程会った皆さんだけです」
「あんたの言うことは、本当によく解らない……ちょっと待っててくれ、食い物を取ってくる」
「はい。気をつけてくださいね」
一人が私から離れてゆく。
「異世界で一人きりってどうですか?」
仕方ないじゃない、聖女を召喚しなければ私たちの世界は滅んで……
「あなたの頭、吹き飛んでます」
いや……いや……
「普通は頭が吹き飛ぶと死ぬのですが、あなたは異世界の人ですので、頭が吹っ飛んでもすぐには死なないようです。もうじき死にますが」
私はなにも間違ったことをしていない。
私が死んだら父が許さな……
「救世主が頑張らなかったから、あなたが属したゾンビ側は負けですね」
ゾンビ? なに、それ。
「あなたに言いそびれましたが、私の経験から言いますと救世主召喚をした側は、ほとんど敗北します」
…………
「あなたの頭を吹き飛ばした人は、この世界の人です。あの人はこの世界を救うでしょう。世界を救うのはいつでも世界が生存を認めた人であって、世界は人により勝手に呼ばれた人を好みません」
…………
「最後に教えておきます。あなたがいた世界はすべてが静止した状態、エンブリオンの骸として維持されています。それで、あなたがあの世界の最後の一人です。あなたがいまここで死んだらあの世界は私の父が箱庭として遊びに使います。あなたの世界を欲しかったわけではありません。ただ運が悪かっただけです。私にとって必要な聖女を召喚したことがね」
…………
「ここにいる私は、あなたをこの世界に送った私ではありません。もう暫くしてから私はあなたを異世界に送った私になります。この私はあなたを知らないはずですが、私はあなたを知っています……関係ありませんか。それではさようなら、ロビンさん。私たちはロビンさんを殺しにいきます」
**********
テオドラの足元には頭が吹き飛んだゾンビが一つ。仮装している最中にゾンビになったらしい。昔の貴族の女みたいなみたいな格好している。
「ほら」
「これはなんですか?」
「栄養補助食品」
パッケージの開き方が分からないらしい。仕方ないと開いて渡してやる。
「ありがとうございます…………いただいておきながら、なんですが、口の中の水分が、容赦なく奪われていく気がします」
長方形でぼろぼろと崩れるやつ。材料は小麦と砂糖や甘味料と、あとなにか。
「それは同意する」
食い終わった袋を丸めて捨てて、俺たちはあの人がいる場所へと向かった。
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世界の全ての人間を救世主として別世界へと送る。そして世界の時間を止める。建物は朽ちることなく、温かいスープは湯気をくゆらせたまま、柔らかいパンもそのまま。動物たちは消える。虫も消える。魚も消える。
海は凪ぎ、風はなく、太陽すら釘付けにされたまま空に。だが葉は枯れることなく、大地も瑞々しいまま。星々も瞬きを止め、宇宙は膨張をやめ、縮小することもなく。それはエンブリオンの骸と呼ばれる。
その全てが止まった世界に”ぽとり”と一つ。
「蛆ですか。もらって行きますよ」
蛆を拾い上げ、テオドラは無数にあるエンブリオンの骸の一つから去った。
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