ALMOND GWALIOR −278
 片付けられた部屋の中心に取り残されたように存在する、滑らかなカーブを描く木枠の椅子に勧められるままに腰を下ろした。
 深い赤紫色の革張りの真新しい背もたれに体を預けて、フォウレイト侯爵は溜息をつく。
 皇君は彼女を残し部屋を出ていった。
 何処へ行くのかなど、身分というものを弁えている彼女は声をかけたりはしなかった。室内を見回し、この部屋がどこであるのか? を考え、先程襲われた時に折角片付けた部屋が散らかってしまったことを思い出し……食いちぎられて死んだブラベリシスを思い出し、腹を立てる。
 死者に文句を言っても仕方ないが、死者ゆえに文句を言っても誰も困りはしない。口元に手をあててぶつぶつと言っている彼女の元へ、香辛料を入れてほどよく温めた赤ワインが入ったカップを二つ持ち皇君が帰ってきた。 
「連絡を入れたよ。アイバリンゼンが迎えに来たら帰りたまえ」
「あ……」
 仕事が残っていると言いかけた彼女だが、この宮の主はまだ皇君。
 その皇君が帰宅するように命じたのだから従わなくてはならない。なによりもカップを受け取った時の己の腕や指を見て、こんな状態で皇后の調度品に触れてはならないだろうと指示に黙って従うことにした。
「メーバリベユ侯爵は話が分かる女性だし、デウデシオンは……あれで結構優しいよ」
 皇君は立ったまま、湯気の立つカップに口をつける。
 室内には椅子が一脚しかないので、当然のことなのだが、皇君を立たせたままでは行けないと、フォウレイト侯爵が立ち上がる。
「座っていたまえ」
「ですが」
「怪我人を立たせるほど、我輩は非情ではないよ。まあ先程の行動を見れば、非情と取られてもしかたないがね。とは言っても話し辛いか。どれどれ」
 皇君は隣の部屋からソファーを引きずり持って来て、腰を下ろした。
 彼女は椅子に浅く腰掛けなおし、皇君を見つめながら温められた赤ワインを一口飲む。
「アイバリンゼンが来るまで、我輩のお喋りに付き合ってくれないかな? フォウレイト」
「喜んで」
「喜ばしい話ではないが……君に襲いかかったのはブラベリシスと雑魚なのだが、彼らは元々はラティラン直属の部下だった。功を焦って自分で勝手に動き、ラティランに見捨てられた。どうしたのだね?」
 フォウレイト侯爵の驚きに満ちた眼差しを感じて、皇君は理由を知りたくなり尋ねた。
「ラティランとはラティランクレンラセオ王のことでしょうか?」
 聞けば解るのだが、王の名前を略するのは不敬にあたるので、彼女は驚いた。言った方は何時も通り、変わらぬ態度で自らの髪を指先で玩びながら”悪気などさらさら無いのだよ”とばかりに笑みを浮かべる。
「そうだよ。ゼフォンやアマデウスが”ラティラン”と言っているので、ついつい」
「アマデウス? ゼフォン?」
「アマデウスはイデスア公爵、あるいはデファイノス伯爵ビーレウスト=ビレネストのことだよ。そうそうアマデウスと呼びかけてはいけないよ。彼はこの名で呼ばれると、発狂して襲いかかってくるから。さきほどのブラベリシスたちのような打算的な物ではなく、エヴェドリットの本能を剥き出しにして。だから気をつけなさい……とは言っても、本能が剥き出しになった彼と対面したら簡単に殺されてしまうだろう。我輩も勝てないなあ」
「はい」
「アマデウスは帝君宮に残るから、皇后付きの君と会うことも多いだろう」
「教えて下さり、ありがとうございます」
「なにせ此処は長いし、何よりアマデウスでからかった元凶は我輩だしね。ゼフォンはエーダリロクのことだ。こちらも我輩が好き勝手につけた呼び名で、好まれてはいないが、ゼフォンは暴れたりはしないから、気軽に呼びたまえ。女官長の奥様が笑って許してくださるだろう」
「は……はい」
 王子が好まない呼び名で呼びかけるなど、彼女はするつもりはない。だが教えてくれている皇君も地位のある王子なので、そんな事はしませんとも言えず、温かいワインで唇を湿らせて、返事を曖昧なものにした。
 皇君は「この通り」の性格なので、なにも感じることなく話を元に戻す。
「話が逸れたね、死んだブラベリシスはいいのだが、ラティランの部下にはアレに似たのが多数いる」
「……」
「善王だと思っているだろうが……それも間違いではないのだろう。民衆にとっては善い王だ。だから嘘ではない。善王を演じ続ける力はある。それを演じながら簒奪を目論む才能があるのだ」
 善王だから性質が悪い――
 それがラティランクレンラセオのことを知る者たちの、共通した意見であった。善王は善王ではあるが、善人ではないのだ。
「簒奪、ですか?」
「ああ。当代において簒奪を目論む”王”は唯一人だけ。それがラティランクレンラセオだ」

 かつて簒奪を目論んだ家臣はいた。パスパーダ大公デウデシオン。フォウレイト侯爵の異母弟。

「他のお方は?」
「ヴェッティンスィアーンのランクレイマセルシュは外戚王の地位で満足している。奴隷であった皇后を迎えたことで、四代続けて外戚王に収まれるのだ、彼はそれ以上のことは望まんよ」
―― なにより銀狂陛下が目を光らせていらっしゃるからねえ
 ザロナティオンに皇位を望まぬ代わりに、ロヴィニア製品を帝国統一規格にしてもらった以上、下手動きは控えるしかない。
 ランクレイマセルシュ自身に皇位を狙う気持ちがないのかとと問えば……彼は言葉を並べ立てて誤魔化したりはせず、沈黙を貫くであろう。
「そしてカレンティンシス。あのアルカルターヴァは簒奪をもっとも嫌う男だ。実弟は陛下の我が永遠の友であり……彼は絶対に簒奪を企てない。それでもっとも簒奪を企てそうなリスカートーフォンのザセリアバだが、僭主がまだ残っており、異星人との交戦もあるからそちらのほうが楽しくて簒奪など考えもしないはずだよ。彼らは戦争が好きなだけであって、簒奪は結果にしか過ぎない」
 ウキリベリスタルは【ザロナティオンの独占】を嫌い、暗黒時代でも唯一直系の血を保つことに成功した自らの息子を皇帝に立てようとしたが、カレンティンシスや、父親が皇帝にしようと考えたカルニスタミアにはそのような考えはまったく無い。
 彼らはウキリベリスタル以上に帝国と皇帝に忠誠を誓う、テルロバールノル王族であった。

 エヴェドリット全体の考えはともかく、王であるザセリアバはランクレイマセルシュと手を組み帝国で良い立場にあり、同族の戦争巧者と戦える立場にあるだけで満足しているので ―― 僭主が居なくなるまでは、簒奪に意識は向かないであろうというのが多くの者の共通した意見であった。

「そうですか」
「君が信用するもしないも自由だがね、フォウレイト」
 ラティランクレンラセオは善王だから簒奪しないと考えようが、エヴェドリットは警戒するべきだと思おうが、皇君は止めはしない。
「……」
「アイバリンゼンが来たようだね」
 人気のない宮では近付いてくる足音がはっきりと解る。皇君は立ち上がり、自ら扉を開いて、フォウレイト侯爵を手招きして呼びよせる。
「アイバリンゼン」
「皇君殿下」
「君の娘は無事だよ。これからも似たようなことが起こるであろうから、デウデシオンと協議したまえ」
「ありがとうございました」
 ダグルフェルド子爵が頭を下げ、フォウレイト侯爵も倣い、皇君は黙って扉を閉じて先程まで座っていたソファーの脇を通り抜けて窓から外へと抜けて、
「もう帰ったよ、キャッセル」
 庭で待っていたキャッセルに声をかけた。
 キャッセルの足元には黒い大きめで歪な形の袋が置かれている。
「その死体袋に入っているのは、逃げた奴等かね」
「はい。ブラベリシスが皇君さまに殺されているときに逃げた奴等です。デウデシオン兄のお姉さまに酷いことするからこうなるのです……ですよね」
「そうだね。全くブラベリシスめ、身の程を知れと。助かりたい一心でデウデシオンの異母姉を手に入れようとするとは。キャッセル、何時も通りその死体を片付けたら戻って来なさい」
 キャッセルは死体袋を担いで近くの内海へと近付く。
 波の音を聞きながら、死体袋を担いで歩く、昔と変わらない子供のようなキャッセルを眺めていた。
 片付けを終えたキャッセルが、走るでもなく歩いて戻って来て、そのまま皇君と寝室へとはいる。いつもと変わらず皇君が椅子に座り、キャッセルは足元に置かれているクッションに腰を下ろした。
「……」
「……」
「こういう時は、遊びに行っても良いですか? と聞くものだよ、キャッセル」
 キャッセルは皇君がこの宮を出てゆくことは知っている。ラティランクレンラセオにオリヴィエルを追加投与したのは、実際のところは関係無い。
「遊びに行っても良いですか?」
「来たかったらおいで」
「”来たかったら”行きますね」
「やれやれ。立ちなさいキャッセル。ベッドへ移動するよ」
「はい皇君さま。そうそう、お別れですね」
「そうだね」

**********


 ダグルフェルド子爵は人目に付かない通路を使い、デウデシオンの宮へと急いだ。
 父親と並び歩き、安心したフォウレイト侯爵は、自分が皇君のマントを羽織ったままであったことに気付いた。
 深緑色で肌触りがよい素材が用いられている、肩幅のあるフォウレイト侯爵は少々窮屈に感じる幅。

―― 皇君殿下にマントをお返しするの……いいえ、こんなに汚してしまっては。新しいものを用意しなくては
 
 お礼を含めてどうするべきかを考えていたため、足元が疎かになり躓き転びかけた。普段ならばなんということもない体勢の崩れだが、今日は体のあちらこちらに負傷があり、想う様に体が動かない ―― ダグルフェルド子爵の腕が伸び、転ぶことは避けられた。
「ありがとうございます。お父さま」
 礼を言い体を起こそうとしたのだが、そのまま息が苦しくなるほどダグルフェルド子爵に抱き締められる。
「無事でよかった」
「お父さま?」
 胸元に顔を押しつける形になっているので、フォウレイト侯爵は父親の表情を見ることはできないのだが、彼女を抱き締める腕や触れている体が震えていた。
「私はお前のことを、側にいられないから守ることができない……自分にそう言い聞かせて生きていたのだが、側にいても守ることができない。まったく無能だな」
 ”心配だがどうすることもできない”ダグルフェルド子爵は妻と娘の身を案じながら、何もすることができなかった。
 もう存在しない自分のことなど”あて”にしていない筈だと自らに言い聞かせたこともある。デウデシオンが権力を握ってからは……やはり娘を助けてくれとは言えなかった。デウデシオンにそんな余裕などないことは、彼がもっとも良く知っている。
 余裕がないデウデシオンだが、父親のことを調べ、姉がいることを知り、僅かながら便宜を払ってくれたとき、本来であれば自分がすべきことなのにと無力感に嘖まれ ――
 再会してからは長い空白を埋めるように笑い合うも、偶にどこかぎこちなく、ふとした時によそよそしく。それはダグルフェルド子爵の後悔と後ろめたさからくるものであった
 苦労し人生経験を積んだ、四十過ぎたフォウレイト侯爵は、それらに関しては言われなくても理解していた。
 どんな言葉をかけても、父親を納得させられないことも。
「そんなことはありません……ご安心ください。私はこれからジュシス公爵から戦い方を習い、お父さまのためにも、自分を守ります」
 今までの悔いや諸々の感情が消えることはないかもしれないが、少なくとも今はそうではない。
 ダグルフェルド子爵はフォウレイト侯爵を抱き上げて、歩き出す。
「最初からこうすれば良かったんだな」
「お父さま! ……」
 フォウレイト侯爵は恥ずかしさを感じたが、それ以上に嬉しくて”降ろしてください”とは言えなかった。


 大宮殿に残ることとなった皇君に【父】と共に選んだ新しいマントと、【娘】と共に選んだ絵画を持って二人はお礼の挨拶に向かった。


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