ビルトニアの女 外伝2
塔の中 或いは 眠る魚 [05]

 間違いを訂正することになんの意味があるのか?
 ドロテアは街に戻り大股で歩きながら家へと戻る。答えのないことだと解っているせいか、歩く速度は何時もより速い。
 ジェダの顔を見てしまえば、考えることが無意味だと自分に言い聞かせられ、諦められると家路を急いだ。
『下手に考えて気取られるくらいなら、今までと同じままで』
 今のドロテアには “ジェダのことだけ” を上手く切り取って説明できる自信もなければ、語る気にもなれなかった。
『気取られないようにする最善は、変わらない態度で接する事』
 容姿のせいで少しでも優しい態度を取ったり、相手を気遣う態度を取ると勘違いされることを身を持って知っているドロテアは、素気ない態度で接するのは大の得意だった。
 その扉を開き、何事もなかったかのように “ただいま” を告げる。
 ジェダはドロテアを “ちらり” と見ただけで、声をかけてくることも何をしていたのか尋ねることもしなかった。別に一緒に暮らしているわけではないので当然で、ドロテアはそのことに安堵して部屋へ戻り、皇帝の城にあったベッドとは比べものにならない程に小さいそこに身を投げ出して目を閉じた。
 眠りたいわけではなく、目を閉じたかった。
 外から聞こえてくる人々の声に耳を澄ませていると涙が流れている事に気付く。
 世界が拒否されたことを知った、ただ一人。誰に語ることもなく、その事を整理する方法は泣くくらいしか残っていなかった。
 涙は堰を切ったようにあふれ出る訳ではなく、一粒伝ってはその跡が乾いてから再び流れるような、泣きたいのか泣きたくないのか、泣いているドロテア本人にも良くわからなかった。

 世界やジェダのことをドロテアは語ることも、教えることは選ばなかった。
 オーヴァートはドロテアの意志など尋ねずに、知っていることを次々と教える。それをもドロテアは黙って聞いて過ごした。

 そして家に住み着いてしまった、死んだことは一度もない 《死体》 とも共にドロテアは時を過ごす。
「手前も暇だな」
 勝手に居候しているジェダだが、全く悪びれずにドロテアの書架を漁り読書を楽しむ。赤く長い髪を耳にかけて頁をめくるジェダの隣で、ドロテアはトルトリア風のローストチキンとラザニアで夕食をとっていた。
 小麦粉にいい顔をしないジェダだが、ドロテアがそれに関して最大譲歩する性格でないことから、いつの間にかラザニアやパスタは食卓に登るようになった。
「お前からしてみようものなら、飽きる程に生き続けてきた俺は、暇を暇と感じない方法を習得している」
 ジェダが読んでいるのは料理の本。
 本人にとって食糧はなんら必要なく、そして長い年月人と暮らす事もなかった。なによりも食事の記憶も消え去っているので料理に関しては全く興味を持たないで此処まで存在したので、料理関係の本を読むのは初めてだった。
 ドロテアは少し冷えた紅茶を口に運びながら、長く赤い髪を掴む。
「常人には全く必要のない技術だな。俺なんざ、時間が足りないくらいなのにな」
 ジェダはドロテアの笑いを含んだ言葉に、本から目を離さずに斬りつけるかのように言い放つ。
「お前はいい人生を送っているからだろう。人の人生は短いが、人はその人生の中でも退屈する。人が死ぬ時の嘆きは短き人生の中で退屈を感じた己の愚かさへの叫びだ。本当に人の生は短い、退屈など感じる暇などないのに」

 人生に終焉のない男は暇をも支配して、人生が直ぐに終わる人間は暇に支配される。

 《死》 から遠く切り離された男の言葉に紅茶の入ったカップを置き、ドロテアはその血が通っているのではないかと錯覚し、触れると温かさすら感じるのではないだろうかと思わせる色合いの髪を結い始める。
「楽しいか?」
 魔法使い特有のしなやかに動く白い指が、ジェダの量の多い赤い髪の中を泳ぎ、形を作ってゆく。
「割と楽しいぜ。俺も昔は髪が長くてなあ、自分で結ってた。髪を結うのは割と得意だったんだが、指が一本なくなって残り二本も当初は思い通りに動かせなくなったから髪切った。短いのは楽で良いが、今なら伸ばしても結えるな。随分と指も動くようになったもんだ」
 ジェダの髪を三つ編みにしながら苦笑する。
 されている方は全く気にせずに本を読み進めてゆく。
「今日お前が作ったのはこの料理か?」
 ジェダはレシピを指差して尋ねてきた。
「ああそうだ。完璧に再現したわけじゃねえが」
「どうして髪を結う?」
 ドロテアは一通の白地に青で聖印が記されているエド正教の公式書類用封筒の使われた手紙を見せた。
「差出人はヒルデガルド……妹だったな」

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姉さん、お久しぶりです!
今度最終試験でそちらに行くことになりました!
姉さんに直接会うのも久しぶりですね!
何年会ってませんでしたっけ?
まあ、いいや!
つきましては、食事の美味しいお店を教えてください

ヒルデガルドより

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「国外研修で此処に来るそうだ。遊ぶついでくらいの気持ちらしい。それにしても妹の名前まで知っているとは驚きだ」
 結っていた髪に指を絡め解きながらドロテアが言うと、
「お前を殺すつもりだったから、背後関係も調べた。トルトリアの美人で手繰ると直ぐに見つかったが」
 ジェダは本を閉じてテーブルに置く。
「特にお前の血族に信仰心がある者がいるとは驚いたものだ」
 そう言って笑うジェダに、ドロテアも笑い返す。
「信仰があるかどうかは知らねえよ。神学校は宗教に染めるのが目的で七歳から入学できる仕組みだ。その歳で確固たる信仰心があったら、神学校なんざ入学しなくてもいいだろう。妹は俺よりもちょっと頭が悪かったが、普通よりはデキが良かったから勧めたんだよ。高位の聖職者になるには金がかかるが、なったら金儲けは楽に出来るし学者よりも金になるしよ」
「強欲金貸し一族らしい言い分だ」
「当然」
 そう言ってソファーから立ち上がり、食器を重ねて台所へと運び水を張ったボウルに割れない程度の加減を計って雑に放り込む。その皿が水に沈んでゆくのを見ながらふと思い出しジェダに声をかける。
「なあ、ジェダ。ヤロスラフの兄のオレクシーってどんな男だったんだ」
「お前を初めて殺した相手か」
 ジェダはつまらなさそうに答える。
「見てたのか」
「当然だろう」
「見てたなら助けろよ。悪趣味な男だぜ」
 ドロテアも見ていた事は知っているし、助けもしないことも理解しているが、笑いながらそう言うしかない。
「何故あの時逃げなかった」
 そして何故自分は “自分を殺した男と一緒に住んでいるのだろう” と思うと同時に “何故この男は黙って此処にいるのだろう” とも思い、理由を考える。
「さあなあ。もう忘れたような、何も考えてなかったような気もするな」
 理性的を気取っても、感情で動く人間なのだとドロテアは自分自身を冷めた目で見ることがある。その決定打であった、それだけのこと。
「お前の妹の髪は長いな」
 突然の言葉にドロテアはジェダを見つめながら “そりゃそうだろう” と無表情で答え、自分の左手に視線を落とす。
「怖くて一度も妹の髪に手を伸ばしたことはない。結えないという呪縛が、あの亜麻色の髪に、俺と同じ色の亜麻色の髪にあった」
 親に言えば結ってもらえただろうが、それはもう妹の番だった。年の離れた姉はそれに並ぶには、大人に近付きすぎていた。
 恥ずかしさや、独り立ちしたい気持ちが入り交じり、親に頼むことはなかった。同時に自分で試す気にはなれなかった、自分の髪を見るたびに指が痛み、それから逃れるために髪を切り、何時しか髪は短くなっていた。
 ドロテアは正面にきたジェダに手を伸ばし、髪を指で梳く。
「お前の髪が長かろうが短かろうが、どうでも良いことだが。悪くはないな、お前ほど短い髪の似合う女は見たことはないが」
「……手前の妃も髪が短いのが似合っていたか?」
 ドロテアは尋ねた。
 答えは “お前ほど美しく似合ってはいなかったが” と答える。目の前の男の中にどれ程の女性が埋もれずに、重なって存在しているのだろうか。
「で、もう一回聞くけどよ。オレクシーってどんな男だったんだよ」
「オレクシーか……下らなくつまらない男だった」
 ジェダの冷たい声は何の感情も篭もっておらず、あの日見たヤロスラフとの言い争いと重なり、なんと成しに理解が出来た。
「そんな一目で解るようなことを聞いたんじゃねえんだが……ま、詳しく知りたいわけでもねえから、第一印象は正しかったってことが解っただけで良いか」
「人間の本質を見極める目はあるのに、その見る目が嘆くほどに男の趣味が悪いな」
 家に “仕事” を言いつかって来る男が現れた。
 一度きりではなく、何度も訪れる同じ男。ジェダは直接見る事はしない。自分はこの家には居ない存在であり、ドロテアが外と接する生活範囲には目を閉じて、存在を見ない。
「ほっとけよ、自覚はあるんだから」
 その存在を “見ない” 表面上の理由。だが深部に至る理由は見当がつかなかった。
 自分が仕事をしに訪れる男に対し、気分を害していることだけは解っているが、その真の理由は解っていない。男の名はエルスト=ビルトニア。
「お前はそのくらいが丁度良いのかも知れないが。……あの時お前は “畜生” と言っていたが、あれは誰に向けての言葉だったんだ?」
「俺自身だ」
 ドロテアは梳いていた髪を乱暴に掴み、そして手を離して背を向けて部屋へと戻った。

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 世界が変わるなんて思ったことはない
 まして自分が世界を変えられるなんて思ったこともない
 だが世界が随分と不安定なことは知っている
 僅かな出来事で世界が一瞬にして変わる
 歪むや裏返るではなく、変わる

 一生世界を変えようとは思わなかった。ただあの男を殺したかっただけ
 あの男を殺したら世界が変わっただけのこと

 些細のことだろ? 世界を捨てた一族最後の男を殺しただけなんだからさ

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