女神の記述
 あの話をしたのは何処でしたか? ……そう! 思い出しました、セツ最高枢機卿を、そう法王レクトリトアード猊下を助けに向かった時ですね。
 二人きりで話しをしたのですよ。
「姉さん」
「何だ? ヒルダ」
 思い返すと私と姉さんは姉妹ですが、一緒に育った時間はとても短かった。生き別れたわけでもないのに、とても短かった。
 世間一般で言う優しい姉でもありませんでしたよ。
 私に勉強の基礎を教えてくれたり、戦い方を教えてくれたりはしましたが、世間一般の優しい姉とはお菓子を作ってくれたり、縫い物をしている穏やかな横顔とかそういう人のことを指すと思うので、本当にかけ離れていました。
 美貌も常人とはかけ離れていましたけれどもね。
 その時私はまだエド正教の司祭でした。
「聖典の教えに背くのですが、私も運命の女神に属してるんですよね?」
 姉さんが自らを運命の女神と言い、運命の女神について詳しく聞くと、実体を持った三人の女だと言いました。
 その三人の女の中には当然私も含まれています。あの頃ちょうどレクトリトアード猊下と、アレクサンドロス=エドが生きていることを知り、私の人生の多くを費やし、学んだ基礎がぐらついていた頃でもありました。
「別に無理に属さなくても良いけどよ」
 私が話しかけると、姉さんは笑いました。
 怒っていることが有名ですが、笑うことも多かった……多かったなあ。
 姉さんは良く笑う人でしたが、笑いかける相手が特定の僅かな相手しかいなかったので、怒っている顔の方が有名になりましたね。そうそう、姉さんに『何故王妃になりたくなかったのか?』と尋ねたら『王妃ってのは何時でもバカみてえに、笑顔で手振ってなきゃらならねえ生き物だろ。俺は笑いたくもねえのに笑うような仕事には就きたくはねえ。娼婦の頃だって気が向かなきゃ笑わなかったぜ』そんな答えが返ってきましたね。
 王妃になればさぞや人々を魅了した笑顔を作ることができたでしょうが、性格から考えると向きじゃなあないですねえ。
 何が向きじゃないかというと王妃如きの笑顔ではないということです、姉さんの笑顔は王妃程度に納まるものではないと、ヴァルツァーも認めていましたね。
 そして皇帝も言いました、皇后の地位でも足りないほどの笑顔だと。
 世界は姉さんの笑顔を拝するには足りないと、二人で言ってました。あの二人の姉さん大好きぶりはマリアさんに匹敵しますね。
「そういう意味ではなく、詳しく知りたんですが」
「何を知りたいんだよ?」
「運命の女神は三人で、過去と現在と未来なんですよね?」
「そうだ」
「私と姉さんとマリアさんの三人が女神として、誰がどの時間になるんですか?」
 私は興味を持っていました。
 幼い頃から神学校で、聖職者になるべく学んだ私は、精霊神や古代物語の神々に関してはあまり詳しくはありませんから、姉さんに直接聞いたのです。
 聞かれた姉さんはいつも通り、顎の下に左手の人差し指をあてて少しだけ考えたように視線を動かして、
「月並みな言い方だが、現在ってのが最も美しい。だからマリアが現在だ。それを除外したとしても、過去と未来は触れられないという類似点があるから、似ているっていう点から見て俺とお前が過去と未来になだろう、そうすると必然的にマリアが現在だ」
 そう答えてくれました。
「マリアさんが現在ですか。言われてみると“ぴったり”ですね」
 姉さんは綺麗でしたが、顔でいったらマリアさんには絶対に敵いませんでした。
 この地上にあれほどまでに美しい人がいるなど、奇跡だと今でも思いますよ。
「それで俺とお前だが、当然俺が未来だろうな」
「何で! 姉さんの方が年上だから過去なんじゃないんですか!」
「あん? 俺はな……ほれ」
「これはエルストさんが結婚指輪の代わりに贈った懐中時計ですよね」
 時計屋の息子のエルストさんが、一から全て自分の手で作り上げた唯一の時計。
 今思うとエルストさんの当時の所持金から考えても可笑しい素材が含まれていたような……あれは盗んだ品なのでしょうかね。
 盗んだとしても、姉さんは気にもしないでしょう。
 その作り主とは全く違う、勤勉なまでに時を刻み続ける時計の秒針を眺めていると、姉さんは左指の付け根の部分をつまんで、グルグルと回すような素振りを見せました。
 時計と同じく今考えてみると、姉さんの左手薬指は付け根の部分は残っているので、シンプルな指輪くらいなら付けられたはず。


 『エルストさんから結婚指輪』ではなく『ビルトニアから時計』を渡されたあの時、姉さんは既に女神となっていたのでしょう


「そうだな。ビルトニアってのはフェールセンじゃあ時計をさす言葉だが《滅亡》をも意味する」
「滅亡?」
「神すらもいずれは死ぬ。その”いずれ”は《時間》がもたらす。神は万能だから何時滅亡するのかも解る。その滅亡する時を計ることができるのは《時計》だけ。だから《ビルトニア》って単語は、その意味をも含むようになった」
 ああ、思い出した、思い出しました……そんな事を呟きながら姉さんは答えてくれました。
「万能なのに滅亡するんですか? 万能だったら滅亡を回避できるんじゃないんですか?」
「滅亡を知ることは出来ても、回避することは出来ない。だから時間は滅亡だ……皇帝の一族が万能であっても、死ぬのと同じだよ。死と万能ってのは別次元の問題だ」
「そうなんですか」
「ああ、能力と死それは違う。能力と死を混同したら、お前が信じているアレクサンドロス=エドだって万能じゃないだろう。いま仮死状態だってことを知ったけどよ、元は“もうこの世界にはいない”ことを前提に全てを教えられたはずだ。お前はそれを知って尚、アレクサンドロス=エドを信じた。お前にとってこの世界に居ないことは、お前の全てを預ける信仰に何か影響するのか?」
「……しませんね」
 その時の私には良く解りませんでした。
 答えを口にすることは出来なかったのですが、漠然としながら理解しようとしていました。
 姉さんは少しだけ微笑んで、
「それで、ヒルダお前の質問だった過去と未来だけどよ、俺はエルストを持っている。だから俺は死に向かって進む」
 そう言いました。
 あの時私は、自らの信仰よりも先に理解できました。姉さんはもうこの世界から居なくなることを決めたのだと、はっきりと解ったのです。
 未来というのは信じられない力を持っているとヴァルツァーが言いました。
 姉さんは間違いなく、世界を超える力を手にしました。それを手にしてこの世界に居ることは、支配することに繋がり、なによりも人々が自らの力で何事もを解決しない思考を持ってしまうと。
 姉さんが四つの精霊神と、破滅に突き進む変わった神を支配下に置き、それを人々に見せたのは、自分自身を世界から切り離す為だったんでしょう。
 黙っている私に姉さんは話しかけてきます。
「神への信仰とは、過去からもたらされるものだろう? お前は神を信じているなら過去にならなけりゃならない」
 神は未来には居ません。
 過去に存在したからこそ、私達の信仰の対象となるのです。
 未来に復活するという希望的観測も、過去からもたらされた物。
「そうですね」
 私は自分が《過去》で良いと思いました。
「さてと、行くか」
 それはとりもなおさず、自分が信仰を捨てることはないと知ることが出来たからです。
 私は過去を作ることにしました、未来に続く信仰のために。
 異端なる考えでしょう、聖典に無い古代の神話の女神となることで、全ての信仰を守ろうなどという考えは。でも私にはそれがとても良い考えに思えて、実行に移しました。
 私が聖職者を辞め、尚信仰の為に国を作りました。エド正教もイシリア聖教もギュレネイス神聖教も、私が生まれる前にはなくなっていたブレンネル正統聖教も、それら全てを生かすために。私自らが古代の神話の女神となっても、エド正教ロクタル派を辞めるつもりはありませんでした。
 存在しない神話の女神となっても、捨てられないものであることを知っている私だからこそ、戦いに敗れ土地を失い流離うことになったイシリア教徒にも、姉さんの怒りに触れてフェールセン城ごと吹き飛ばされ、僅かな民となってしまったギュレネイス教徒にも、信仰を捨てての定住を勧めることはしませんでした。
 私は死ぬまでエド正教徒です、だからこそ他の人々に改宗を勧めることはありません。
 それをしなくて良い国を作ろうと私は考えて、実行したのですから。
 私が国を作った理由はあくまでも宗教です。だから私は女帝と呼ばれるようになっても、心の中ではエド司祭のままでした。
 『驕ることのない女帝』と人々は言いましたが、違います。
 私は『女帝と呼ばれた聖職者』でしかないのです。あの法王レクトリトアード猊下も言っていました「勇者と呼ばれた聖職者」なのだと。
 十七世法王猊下と私とでは随分と違いますし、私は十七世法王猊下相容れないことを理解して野に下ったのですが、気持ち的には同じだったのかもしれません。
 そして今、この夕日に染まる砂漠の国を見ながら思うのです。
 過去でよかったと。
 目の前に広がる無数の建物や人々、その人々の声や生活の音が何よりも心を穏やかにしてくれます。私の目の前に広がる国も、何かあって簡単に滅びるでしょうけれども、滅びることを恐れるつもりはありません。
 この私の眼前に広がる国が滅んだとしても、人々はまた過去の思いを馳せて国を作っていくはずです。
 私は過去を作ることに成功したとは言い切りませんが、ある程度の成果は得られたと思っています。この世界がこのビルトニアと呼ばれる大陸の上で、ドロテア暦と呼ばれる歴史を刻む為にも私は過去を作りました。
 私は人々に死を振り下ろす勇気はありません。
 それが絶対の運命であり、世界には死は必要なことだと理解していますが、私は生きて欲しいと最後まで手を尽くします。
 《未来》には敵わないこと、それが残酷であることも私は知っています。
 私は美しい《現在》にも、冷徹なる判断を下せる《未来》にもなることはありませんでした。
 私は《過去》であることを選び《過去》である為に生きました。

 《未来》も《現在》も子孫なくこの世界から去って行きました。《過去》である私だけが子孫を残しました。《過去》と《未来》に繋がる私と姉さんの子孫。
 そして子孫は美しい《現在》を見つけてくるに違いありません。

 永遠に続くことは無いと知りながらも、まるで永遠に続くのではないかと思える程の幸せの中で私は聖典を閉じました。


 残酷な姉さんは微笑みながら私に死を振り下ろします
 神となったドロテア=ヴィル=ランシェは、
この帝国ランシェの初代女帝ヒルデガルドに死を振り下ろすでしょう
 何を恐れましょうか、私も微笑んで受け入れます
 なぜなら私はその瞬間
 この世界の過去と未来とを繋ぐもっとも美しい現在となることが出来るのですから


ビルトニアの女【完】



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