ビルトニアの女
終わりから始まりに向かう世界へ【10】
 大破して海に不時着し、その後海中へと沈んだハプルー空中遺跡。大勢の人々を道連れに沈んだその古代遺跡の自然修復が完了したことが確認できたので、それを宇宙空間へと戻す為にミゼーヌは学者たちを率いてやってきた。
 オーヴァートは既に総学長を勇退し、ミゼーヌがその任に就いている。
 古代遺跡の管理に関してミゼーヌに任を譲って以来、オーヴァートは何一つ世界に携わることをしなくなり、人間に対して全くの不干渉にしてほぼ没交渉状態となる。それは《皇帝》本来の姿とも言えた。
 ただ完全に《皇帝》本来の姿に戻ったわけではなく、帝城から夜ごと銀に輝くバスラバロド大砂漠を眺め、ミゼーヌやヒルデリックをからかいながら、グレイとともに絵画や彫刻を行う。ごく限られた者たちとは途切れることなく関係を持ち続けた。
 オーヴァートは過去の人間関係はかろうじて興味はあるが、古代遺跡に対しての興味は失われてしまった……そうミゼーヌはそう考えていたのだが、『海中にあるハプルー空中遺跡』を元の位置に戻すことを告げると、オーヴァートは弾かれたようにミゼーヌのほうを観て“行く”と言いだした。
 興味は無くなったのだろうと考えていたミゼーヌだが、ハプルーだけは特別であることも知っているので、追求もなにもせずオーヴァートと共にハプルー空中遺跡を定位置に戻す作業へと向かった。
 海中から海面に引き上げ、そこから宇宙空間に飛ばし、内部調査を終えて初期化する。フェールセン城がなくなったため、このハプルー空中遺跡が世界最大の遺跡となっていた。
 ミゼーヌが初めて訪れた五十年前のような惨事が起きることもなく、予定通りに全ての作業を終えてから、自由時間をもうけた。 
「確認は無事終了したようだね。さて、折角だから少し景色を楽しもうか」
 初めてこの空中遺跡を訪れた時に、自身がドロテアに案内してもらった景色を皆にゆっくりと見てほしかった。誰よりも、もう一度観たかったのがミゼーヌであるのは言うまでもない。
 一人きりで、あの日ドロテアと共に見た窓の側へと近寄る。
 ミゼーヌの眼下に広がる惑星は、彼が五十年前に見たときとは大きく違う箇所がある。「フェールセン城」大陸は世界最大の城を失っている。
 それは彼にとって全く別の物に見えた。

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ハプルー空中要塞遺跡が『空中』に戻るまで五十年の歳月を要した

「ようやく帰れるよ、ハプルー。連れて行ってくれ、私をそして……あの人を」

その遺跡は自己修復が終わるまで、海底に眠り続けていた。私“達”の想い出と共に
想い出と共に宇宙に戻り、そして還って行く


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 ミゼーヌは新調された服の端を掴みながら、向かい側で目を閉じて寝息を立てているドロテアの顔を見ていた。
 ただ眠っているだけの表情なのだが、ミゼーヌには人間の顔には見えなかった。腕を組みもたれかかって眠っている真白な顔。長めの前髪が馬車の振動で行き来するが、それが邪魔だとは思わなかった。
 揺れて顔を隠す髪がなければ怖ろしく、だが目を離すことが出来ない。それは八歳の子供にも解る“稀有”な存在。
 一人でドロテアを見つめていたミゼーヌだったが、休憩時間にオーヴァートが馬車に乗り込んできた。
「こ、こんにちは」
「静かに。挨拶はドロテアが起きている時に」
 相変わらず眠ったままのドロテアを前に、二人は無言のままであった。
 ミゼーヌはただ見つめているので精一杯だったが、オーヴァートは身を乗り出し長い手を伸ばして、向かい側で眠り続けているドロテアの頬や額を触れるギリギリのところで撫でるような素振りを繰り返す。
 疲れ切っていたドロテアは、目を覚ますことなく眠り続けていた。
 夜になり街道での野営の際、眠い目を擦りながら硬直した体を引きずってドロテアはテントの中に倒れ込んだ。ミゼーヌは後を追ってそのテントに入ろうとしたのだが、襟首を掴まれ止められる。
「お前は俺と一緒。皇帝と寵妃の寝室に入っちゃダメだよ……っても子供にはまだ解らないか」
「あ……はい。あの……」
「俺か? 俺の名前はバダッシュ。よろしく、未来の総学長様」
 ミゼーヌはバダッシュに連れられて別のテントへでぐっすりと眠った。
 ドロテアが復調し、馬車に同乗しているミゼーヌに話しかけてきたのは目的地に到着する頃。到達するまで一切オーヴァートの相手をすることも命じられず、体を休めていたドロテアは、この空中遺跡で《不死によって死をもたらされる》ことになる。

「ジェダ……」

 ミゼーヌは五十年前のことを思い出し、眼下に広がる景色に向かって一人の男の名を呟く。それは何度もドロテアを殺した男。
 オーヴァートの躯の下に隠れ何度も《その死》を見た。あの時のオーヴァートはドロテアを生き返らせるしか力が残っておらず、ミゼーヌの記憶はそのままだった。ドロテアだけが時間を戻り生き返って、周囲は時を刻み続けた。
 オーヴァートの体の下で、泣きながら見ていたミゼーヌの記憶には、血に染まるドロテアが幾つもある。
 パプルー空中遺跡が海中に沈み、ドロテアがオーヴァートの元へ向かったあと、ミゼーヌはヤロスラフと過ごしていた。ヤロスラフは外界の処理にも当たらなくてはならなかった為、ずっと一緒ではなかったものの、空中遺跡に滞在している間はずっとミゼーヌの側にいてくれた。
 そのヤロスラフはミゼーヌに『記憶を消そう』持ちかける。
 八歳当時のミゼーヌには記憶を消すということが全く理解できず、話が通じていないことに気付いたヤロスラフは『説明は苦手だ』と言いながら ―― 怖いことを思い出さなくて良いようにすることだ ―― と、言葉を砕き伝えた。ヤロスラフの苦心のお陰で方法は解らないが、理解できたミゼーヌであったが、記憶は消さないで欲しいと控え目に告げた。

 何故人が死ぬ記憶を残しておきたかったのか?

 その理由は成長して理解できたが、誰にも言わずに思い出に《鍵》をかけて封じ込めている。
 ドロテアがオーヴァートの元を去った後、何かとミゼーヌを気にかけてくれていたヤロスラフであったが、その彼も既にいない。
 いまから十五年程前の秋、オーヴァートとヤロスラフが「紅葉を見に行ってくる」と二人で出かけて行き、それ以来ヤロスラフは帰ってこなかった。
―― いつか私はここに帰ってこなくなるだろう。それからは……オーヴァートのことを頼む。昔はドロテアに頼んだが……あの女はなあ ――
 何故帰ってこないのですか? どうして帰ってこないのですか? 一体どこに……オーヴァートに尋ねたいことは多数あったが、無言のまま彼の死を胸に刻み、触れることなく生き続ける道を選んだ。

―― 感謝しろ。この私が殺してやるのだ。この私が ――
「お礼をしたかったのですが」
―― ああ、感謝している。さらばだ……オーヴァート ――

 向かう時には死ぬことを解っていただろうに、どうして教えてくれなかったのか? 
 言わなかった気持ち、解らないでもないのだが、少しばかり不服であった。
 そんな感謝しきれないほど世話になったヤロスラフとの思い出での始まりでもあるハプルー空中遺跡。ミゼーヌのすべてはマシューナルでオーヴァートに拾われた所から始まったのではなく、この遺跡の墜落から始まった。
「ミゼーヌ様!」
 大急ぎで駆けてきた学者たちの慌てた声に振り返る。
「どうした?」
「オーヴァート様が! オーヴァート様が!」

 宇宙へと五十年ぶりに戻ったハプルー空中遺跡で世界は終わりを迎えた。

 己の寿命に気付いていただろうオーヴァートだが、ミゼーヌには何も告げず、看取られることもせずにこの世界を去っていった。眼下に広がるフェールセン城に消えた世界を幸せそうに眺めながら。

 もう鈍色の瞳が死に焦がれながら世界を見ることはない――

 ハプルー空中遺跡を海面に着陸させて全員が大地降りる。
 オーヴァートの遺体は白い布で覆われ、板に乗せて降ろされた。全員が無事に地上に戻り、ハプルー空中遺跡は設定通り宇宙へと戻ってゆく。ミゼーヌが生きている間はもう足を運ぶことも、地上に降ろすこともないハプルー空中遺跡。それを彼は仰ぎ見る。
 ゆっくりと上昇してゆく空中遺跡を、肉眼で見えなくなるまで追い、そして視線を降ろす。
 先ほどまで上空で眺めていた青い海と水平線が、潮風と共に目に飛び込んでくる。
「ミゼーヌ」
「ヒルデリック帝」
 オーヴァート急死の知らせに驚いて、国から急ぎ着陸地点に着た新帝国の主、これからどうするかを話そうとした時のこと、青い宝石のように美しいバルガルツ太洋が黒く染まる。徐々にではなく、一度に色を変えた海。そして桟橋のように海へとのびる大地。
「これは……」
 ホレイル王国から征服されて消え去ったネーセルト・バンダ王国までの、荒れて船の出せないエルベーツ海峡に掛かった大地。それは神の力を持った女が繋いだ大地。
「オーヴァート様を抱えてついてきてくれるかな? ヒルデリック帝」
「わかった」
 そう言ってミゼーヌはその大地を歩き出す。青年帝王は布に包まれたオーヴァートの遺体を抱きかかえ、その後をついてゆく。大地の先端まで来たところで、ミゼーヌはオーヴァートの足を持ち、ヒルデリックと共にその遺体を原始の海へと浮かべた。
 真白な布と黒い原始の海。その遺体は沈むこともなく暫く流れていったところで、海がうねりを上げそれを持ち上げた。オーヴァートの遺体を誰もが一瞬見失った時、彼等は黒い海の壁に囲まれた。
 そして上空から白い布が投げられる。その布を投げ捨てた左手は、普通の人よりも指の間から日が差し込む量が多い。
 風をはらんだような亜麻色の髪、白皙の肌に鳶色の瞳、薄い桜色の唇に細く嫋やかにも見える首。細すぎず、だが華奢に思わせる体と、それら全てを幻かと思わせるほどの迫力を持った、四本指の左手。
「ドロテア様」
 オーヴァートの遺体を包んでいた布を被りながら、ミゼーヌは泣いてその人の名を叫ぶ。
「あれが伯母上……母とは全く似ていないな」
 ヒルデリックは亡き母と似ていながら面影のないドロテアを見つめる。
 ドロテアはオーヴァートの体を、あの時のフェールセン城のように小さくし、掌に収めてミゼーヌに背を向けた。

―― ミゼーヌか、俺はドロテアだ。明日迎に来るから、待ってろ ――

 これが最後の機会だと、ミゼーヌは声を大にして叫ぶ。
「最後に……大好きでした。あなたの事が誰よりも! 誰よりも! さようなら! ドロテア様」
 背を向けたドロテアがどのような表情を浮かべたのかはミゼーヌには知る余地もないが、彼は満足であった。海が元の色に戻り、ミゼーヌとヒルデリックは陸へと戻る。大地から二人の足が離れた瞬間、その大地も消え去った。
 ヒルデリックは振り返り、元の世界に戻った景色を眺めながら言う。
「エルストも見てみたかったなあ」
 海とドロテアに気圧されて、それ以外は見えなかった彼だが、
「エルストさんはドロテア様の後ろに居たよ」
 ミゼーヌの言葉に足を止める。
「えっ? 全く気付かなかった」
「まあ、あの方はねえ」
 ミゼーヌは空を仰ぐ。エルストの瞳の色に良く似た青空がそこには広がっていた。

**********


ハプルー空中要塞遺跡が『空中』に戻るまで五十年の歳月を要した

「ようやく帰れるよ、ハプルー。連れて行ってくれ、私をそして……あの人を」

その遺跡は自己修復が終わるまで、海底に眠り続けていた。私“達”の想い出と共に
想い出と共に宇宙に戻り、そうして還っていった


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 ミゼーヌ=フェールセンは世界の全てを人間に譲渡する。オーヴァート=フェールセンの死を持って世界は完全に人間の手に委ねられることとなった。
 それは世界の終わりであり、始まりでもある ――


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