ビルトニアの女
レクトリトアード【4】
 アードとクレストラントから説明を聞き終えたセツは、事実を告げられた時と同じく、一切の動揺を部屋にいる三人には見せず、空に近い部屋がより一層寒々しくなるような声で淡々と理解を表した。
「体の破損は俺だけにしろということか」
「体破損させろとは言ってねぇよ。そう言う趣味があるなら別だが」
 語り終わるまで無言だったドロテアが、嗤いを含んだ声で突き放すように言う。言われた方は気を悪くしてはいないが、似たり寄ったりの嗤いを含んだ顔で座っているドロテアを見下ろしながら尋ねる。
「ない。ところで、このことを唯一知らない勇者であり、当事者である ”エピランダ” に教えるべきか?」
 セツに語られた ”話の流れ” の中には伝えていない事は含まれていなかったが、この場に居ない事から ”知らされていないこと” は簡単に推測できる。
 床に腰を下ろしていたドロテアは立ち上がり、払う必要もない服を手の甲ではらう。人が立ち上がった時に行う行動。
「勝手にしろよ。俺は手前に注意を促すため、確証を得るためにエルーダの女将から情報を引き出しただけだ。後は好きにすりゃあ良い」
 それはドロテアが答えるものではない。
「俺だけ悩むのか。割りが合わんな」
 二十年以上も存在を知らなかった、それも想いを交わしあった相手でもなく、金を払い抱いた女の一人が産んだ息子に対して、セツは何の感情もわき上がっては来なかった。
 白銀の長髪に自分とは色合いの違う白目。
 言われてみればユメロデという抱いた女も同じ目をしていたような気もするが、記憶していたとは言い難い。言われたのでそう思った、そんな気がしただけで、違うと言われれば記憶にある女の容姿を書き換えることに躊躇いはない。
 セツにとって肌を重ねる女は、どれもその程度でしかなかった。
 それに比べれば、レクトリトアードは存在がある。
 短剣を体を挟むよう腰の前と後に、柄は前後ろで左右が逆にして二つぶら下げている、無口で何を考えているのか解りづらい、元マシューナル王国の王太子親衛隊隊長。
 実質支配者であるセツから見て ”他国の厄介な武力” としてだが、存在は確かなものであった。
 それが任を離れて ”同じ勇者” として立った時も些かの違和感があったが、難なく受け入れる事はできたが、息子となると容易には受け入れがたかった。
 さりとて 《絶対にない》 という確証はなく、数え切れない程の女を抱いた事実を認め、同時に否定はできないし、するつもりもない。
 息子という存在はセツに喜びなど持ってこなかった。男にとっての我が子が出来たという ”驚きと喜び” それらが一緒に訪れる、幸せな時間というものはセツには他人ごとにしか感じられない。
 考えるのは対応であり、いかに自分に不利益がないように事態を維持するか。

 セツが ”息子だ” と聞かされて動揺しなかったのは、息子として認めるつもりが一切ない為だ。

 レクトリトアードのことをどうするかと考えていると、立ち上がっていたドロテアが服を脱ぎ始めた。上着を脱ぎ捨て、下着を外し上半身が裸の状態でセツの前に立つ。
 その場にいたアードとクレストラントが驚きの声を上げるが、セツは別の感情を持って ”驚いた”
「良い体だ」
 美しい顔として有名な女の体は、その顔をより美しく魅せる体であった。
 鋭く鍛えられているが、男を誘う柔らかさをも確かに感じさせる。
 顔の雰囲気と同じ、少年と少女の間のような体つきだが、皇帝の寵妃である時期を経た、子供にはない色気がある。それは男好きする体というよりは、男の加虐心を煽る、支配欲と征服欲をかきたてる体。だが体の持ち主は決して支配されない、神であろうが皇帝であろうが。
 細く薄い腰に手をあてながら、ドロテアは自分の下腹部を指さす。
「俺には子供はできない。正確には、出来るが成長しない」
 白く透き通ったような肌をセツが凝視すると、その奥に赤黒い内臓とは別の蠢く紋様が微かに見て取れた。セツ程の力を持ってしても、僅かにしか見る事ができないのだから、ほとんどの者には解るはずもない。
「皇帝の術か。外側からは全く解らない。見事だな」
 極刑に値する術。未来を摘み取る悪の業。
 それを断罪すべき男の前に露わにした女に手を伸ばすが、触れる直前で止めた。
「手前は俺が欲しかったものを、今手に入れた」
「欲しかったのか?」
 それは長年聖職者であったセツという人間にとって、唾棄すべき罪の刻印であり、捕らえて処刑するべき対象者でもある。
「何時だって此処に 《存在》 していながら、赤く流れ落ちてゆく。子宮に絡みつき力として使われ、死して剥落し流れ出す」
 だがセツには捕らえようという気持ちは全く無かった。そんな事は思いもしなかった。
「もうその力は必要ないのではないか? 四精霊神の力を手に入れたお前にはもう必要無い筈だ」
「そうだな。だが俺は生きている限り、殺してゆく」
 本心から解らなかった。
 理解しようとしないのではなく、どうやって理解するべきかが全く解らなかったのだ。
「解らんな。男だから女だからというだけではなく、他人というのはそういう物だろう。このことを論じあう気にはなれん。服を着ろ、確かに目の保養にはなるが……まさに ”死と太陽を見続けることはできない” と同じで、お前を直視し続けることは耐え難く、また手を伸ばせば死に至る」
 ドロテアは自分で服を拾い上げて着直しながら、ドロテアは視線を合わせない。
「手前が真実を告げる気がないなら、直接レイに会った後に ”エルストに会いに行け” と言え。真実を告げたいのなら俺に会いに行くように告げろ。もちろん、手前が告げても良い。そのくらいはしてやろう」
 白いうなじが黒い襟の高い服にゆっくりと隠れてゆく様は扇情的でありながら、拒絶していた。
「解った」
「じゃあな」
 セツの脇と通り抜けて、出て行こうとしたドロテアに、最初から疑問だった事を尋ねる。
「最後に聞くが、カルマンタンの聖典を床に投げつけた理由は?」
 足を止めて投げ捨てた聖典を見下ろすも、答える事はなく、
「さあね」
 答えなど返って来ないことを知って尋ねたセツは、それ以上求めなかった。重要な書物など残っていない部屋からドロテアが去ると、室内は色を完全に失った。
 亜麻色の髪に鳶色の瞳、そして桜貝のような色の唇。
「勇者は作られた。完成させるに協力したのは、俺というわけか」
 作られた勇者が抱いた最高の女の残り香は、書物が失われた書棚に微かに残った。すぐに消えてしまうだろう香りの中で、セツは部屋の天井を見上げた。
【ああ】
 アードは答えたがクレストラントは無言のまま。
「作ったのは……カルマンタンか」
【……】
 勇者と相対する立場に存在し続けた ”作られた魔王”
 作られた存在同士が相対し、無力な人々は観客として生きて行く。
 もしもそうであったとしたら、どれ程幸せだったろうかとクレストラントは思った。村を滅ぼされた事も、魔王となった事も悲劇で苦しい日々ではあったが、信じられないような事実を目の当たりにしなくて済んだはずなのだ。
「聞いたところで無意味だな。お前達も、カルマンタンも死んでいる。責めているのではない、生きていることを実感しているだけだ」
 ”ドロテア” この女が存在し、勇者と関わりを持ち、皇帝を滅ぼそうとした時、彼等は奔流に飲み込まれて、自分達の消失する日を願いながら流される。
 セツはアードとクレストラントに話しかけた後、すぐにレイを連れて来るよう部下のトハに命じた。面会して何を語るのか? それはセツの横顔が肉親のものではなく完全に ”権力者” の物であることから、二人も理解して部屋を去った。

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「だから止めなさいって言ったのに」
 マリアは目の前で、かなりの怪我を負い床に倒れてしまった聖騎士達を見ながら、呆れた声を上げていた。
 彼等を負傷させ、床に這わせたのは ”レイ” こと、レクトリトアード。
 その圧倒的な強さを間近でみたいと聖騎士達に言われ、レクトリトアードは彼等の相手をした。マリアが止めるのも聞かずに、聖騎士達は無謀にもレクトリトアードに挑み、これから治療しに来る癒しの者達に説教される。
「手加減はしたのだがな」
「そりゃそうでしょ。あなたが手加減しなかったら、法王庁ごと吹っ飛んでるわよ」
 エルセン王国のヴォルカンタン城を一撃で破壊した男相手に腕試しなど、する方がおかしいのだ。
 鍛錬所の扉が開き、癒し手が来たのかと視線を向けたマリアは、枢機卿特有の着衣の人物が入ってきて驚きを隠せなかった。
 周囲に倒れ痛みで呻いていた聖騎士達も、同じであった。レクトリトアードはというと何時も通り反応が薄く、驚きの欠片も見せない。
「トハ閣下」
 セツの腹心の一人、トハ枢機卿は他の者達を無視して、まっすぐにレクトリトアードの下へと向かって、
「最高枢機卿閣下がお話があるそうです」
 伝言を告げた。
「何用だ?」
「私には解りません。ですが、この場の状況から推察できる事だと思いますよ」
 言外に ”貴方を聖騎士として迎え入れたいようです。身をもって実力を知った聖騎士達も認めるでしょう。” と言ったのだが、レクトリトアードには届かなかった模様で、自分が全く力を入れないで床に這わせた聖騎士達を見て、
「解った。謝ってこよう」
 叱られるのだろうと勘違いして、呼び出された場所へと向かう。
 マリアはその後ろ姿に向かって勘違いを訂正する言葉をかけることはしなかった。しようが、しまいが然程大した差は無いと考えたからだ。
 マリアはその後、レクトリトアードの強さを間近で見た事があり、全く勝負にならない事を勝負を挑まなかったイザボーと共に癒しの魔法だけではどうにもならない怪我の手当を手伝った。
「だから止めておいた方が良いと言ったのに」
「常人で勝てる相手じゃないんだから」
 闘技場の伝説であり勇者でもある男に挑んだ馬鹿者達に溜息混じり文句を言いながら、包帯を巻き、添え木をして応急処置してやった。

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 法王庁の南三階にある外回廊に呼び出されたヤロスラフは、歩き慣れた廊下を進み目的地へと向かった。
 一切の改築が行われていない街と、その中心である建物。
 曲線が多く使われている柱も、磨き上げられた床、香木が混ぜられ灯されている外灯。ヤロスラフが居た頃と全く変わってはいなかったが、その廊下を歩いても香りを嗅いでも、ヤロスラフは何も思い出すことはなかった。
 嫌な想い出が多いからではなく、良い想い出が一つもない。
 静寂なる世界で神に対して真摯に向き合う場所にいる、導くべき存在は斯くも頼りない存在だった。
 聖職者だったころとは違う、黒と赤と薄い紫色の使われた服。腕の折り返し部分にあるエールフェン選帝侯の家紋。
 継ぐ者のいない、己の代で消え去る家の紋。
 記録として残るだろうが、何時かは消え去って行くのだろうと思いながら足を進め、角を曲がり、手すりに腰を掛けて外側に足を降ろしている自分を呼び出した人物に声をかけた。
「ドロテア、俺に用事とは?」
 景色を眺めていたドロテアは、声を掛けられて振り返った。
 振り返るとは思っていなかったヤロスラフは驚いて足を止める。風が揺れて炎が一斉に揺れ飾られている鉢の萎んでいる花も揺れる。
「俺は少し出かけてくる」
「お前が何処に出かけても、俺は心配しないが? この地上でお前に害をなせるのは、オーヴァートくらいの物だろう。それも今ではかなり危ういが」
 手すりから降りずにやや前屈みになった形のドロテアに、何でそんな事を言うのだと尋ねながら、広がる景色を眺める。
 やはり自分がいたころと全く変わっていない、住居の窓から漏れる明かりと、規則正しく並ぶ外灯。
 手すりに座っているドロテアよりも、立っているヤロスラフのほうが当然顔の位置は高く、表情は簡単に伺えない。
「この世界ではない所に行ってくる。お前やオーヴァートでも辿り着けない場所だ」
「……」
 意外というよりは、何を言われたのか理解できなかったヤロスラフは、顔を降ろさないままで無言でいた。それしか、方法が思い浮かばなかった。
 どこかの家で明かりが消えた。
「気配が完全に消えても心配するなってことだ」
 ドロテアは宙に立ち、ヤロスラフより高い位置で振り返る。
「皆目見当が付かないが、解ったと言っておこう。それにしても……強くなったな」
「まあな。強くなったってことは、終わりに近付いたってことだ」
「そういう物か」
「そうだと思ってる。俺は近い将来 ”しばらく” この地上から居なくなる」
「全く解らない。初めて見た時から不敵な娘だったが……」

―― 不敵な娘だったが、こうなるとは思わなかった ――

 正直な気持ちであったが、正直に語らなかった。ヤロスラフの中にドロテアの未来図があった訳ではない。
 初めて出会った時十六歳だったドロテアの未来。全くの他人であるヤロスラフが描くものではないが、どこかに幸せを望む気持ちはあった。
 だが幸せは漠然とし過ぎ、そして自らの手の内になかった為に曖昧で、何一つ手を貸すことも出来ないまま 《主》 の傍を離れてゆく。
 気付いたら市井の男と幸せに暮らすという道を選び、多少の障害など物ともせずに進んでいた。その後ろ姿は嫌いではなかった。
「分からない事だらけで可哀相だから、一つ真実を教えてやるよ。お前さ、実は俺の事好きだったんだよ。かなり深く愛してたんだよ。記憶あるか?」

 その後ろ姿、嫌いではない

「……無いとしておこう」
 ヤロスラフはドロテアの言葉に ”自分の” 消え去った感情が甦るなどという事は無かったが、他人が好きだったことを覚えているような記憶が、眼前に広がったような気がした。
「俺の事を好きになった事に腹を立てたオーヴァートが、お前の記憶を弄った。結果マリアの事を好きになった。正確にはマリアを好きにさせるつもりはなかったけど、お前の記憶が消え去らなくてさ、オーヴァートはいらだってなあ。結局記憶を挿げ替えた」
 ドロテアが言った事を否定するつもりはなかった。
 オーヴァートにそれだけの力があることも、そういう男であることも、ヤロスラフが最も良く知っている。
 風が少々強く吹き付けて、花環が次々と揺れて、ぶつかり音を立てる。
 一斉ではなく、規則正しく遅れて立つ音が、譜面をみて叩かれる打楽器の演奏のようだった。
 明日には新しい物と取り替えられる花環が奏でる音を聞きながら、両者とも微笑む。
「そうか……ドロテア、お前は本当にオーヴァートを 《皇帝》 では無くしてゆくのだな。誰にもなし得なかったことを、苦労しつつも」
 ドロテアの話を聞く度に、ヤロスラフは生まれたばかりのような錯覚に陥る。その錯覚は ”驚き” がもたらす。話すたびに驚きが存在し、その驚きは喜びとなり、またそれを感じたいが為に話したくなる。
「《皇帝》 ではなくしてゆく事に、俺自身迷いはある。あの男の全てを否定するわけだからよ」
「そうだな。オーヴァートが 《皇帝》 ではなくなったら、ただの変な言動をする中年男性か。益々始末に終えないな」
 オーヴァートが変化した先にあるものが、皇統フェールセンの滅亡であることは解っているが、心地よかった。
「お前家臣だろ、ヤロスラフ。それで良いのかよ、選帝侯が」
「構いはしない。本人だってそう思っているはずだ。だが 《皇帝》 ではないオーヴァートなど、顔が良くて頭が良くて大金持ちの変人なだけで、取り柄など何も無いに等しいな」
 顔と頭が良くて大金持ちなら、それで充分のようだが、大陸で最も性格の破綻した男の前には無きに等しく 《皇帝》 の称号は価値のあるものに感じられるが 《皇帝》 であっても、破綻し過ぎて誰も長い間傍にいられなかったという事実もある。
 要するに、どうにもならないと二人で散々言っただけのこと。
「普通は前の三つで最後の一つを打ち消せるが、あいつはその三つも霞むどころか、無いに等しい性格だからなあ……話が長くなったな。行ってくるか」
「ドロテア」
「なんだ?」
「俺はマリアの事が好きな気持ちはこの先も変わることはなく、もうお前のことを愛することはないだろうが……ありがとう」
「どういたしまして! さて、花街にエルスト拾いに行くか」

 手すりから飛び降り、飛行してはならない街中を飛び花街の方へと消えていったドロテアを見送った後、辺りを見回すと街の明かりは随分と消えていた。

「ドロテアはもう行ったぞ、オーヴァート」
 明かりの消えた家々を眺めながら、背後に潜んでいた気配に声をかけるとほぼ同時に、壁をオーヴァートがすり抜けてきた。
「気付かれていたかなぁ」
「さあ。皇帝でも判断できないことを、選帝侯が判断できる訳がない」
「もう皇帝じゃないって言ってただろうが」
「残念ながら、まだ皇帝だ。少なくとも俺が死ぬまでは 《皇帝》 でいてもらわなくては困る」
「ヤロスラフを困らせる為に、皇帝辞めちゃおうかなあ!」
「皇帝であっても充分苦労させてくれている。辞めようが辞めまいが、苦労は変わらない」
 困るに事欠かないヤロスラフと、困らせるに事欠かないオーヴァートは、これが本当に皇帝と選帝侯の会話だろうかと余人が耳を疑いたくなるような話を続けていた。
 誰も聞いていないのが幸いなのか、誰も聞かなかったことが幸いなのか? 判断を下せるものはそれ程存在しない。
「迷惑を掛けない為には、死ねっていうことだね」
「それが最も困ること、お前は知っているだろうが、オーヴァート」
「終わりか? 終わりが来るのか」
「それは違うだろう、オーヴァート。終わらないし、終わるとしても来るのではない ”向かう” のだ。あのドロテアが黙って終わりを待つ訳がない。終焉を迎えまいと必死に終焉が逃げ、ドロテアはそれを追い捕まえるだろう。……追われる ”終わり” も苦労するな」
「ドロテアは終わりを追う必要は無い。古代、滅亡を意味する 《ビルトニア》 が、何時も隣にいるのだから」

 ドロテアとエルストの気配が近付き、そして完全に消えたことを感じ二人は黙って外回廊から景色を見つめ続けていた。住宅地の全ての明かりが消え、吹き付ける風が強くなり、夜の空気が深く、空の闇が濃くなっても無言で見つめ続けていた。
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