ビルトニアの女
皇帝の望み娘の謳う破滅【1】
 ドロテアがエルベーツ海峡に架けた 《大地》 を馬車はひた走る。人によって舗装されたかのような道、だが全く手の加えられていない草原でもある。
 馬車を一度休憩させると、馬は躊躇いもなく草を食む。
 ザイツもその草を摘み口に運ぶ。舌の上で直ぐに海風からもたらされた塩味を感じ、それを確かめると草で噛み笑う。
「馬たち好きだと思う。悪くない、むしろ良い。この大地で馬飼えたらいいな」
 イリーナも食み、そして大地を掌でなぞる。
「人の手が全く入っていないように見えるけれど、移動に適している」
 馬の足に負担がかからないよう、そして馬車が移動しやすいように造られていた。
「これを作った人の頭の中にあった大地なんだろう。俺達なんかがこの力持っても、此処までの道は造れないだろなあ」
 幅や距離、蹄、車輪、草。全てが計算され尽くした大地。
「そうでしょ」
 一瞬にして架けられた道だが、その道は計算し尽くされた道でもある。
「この大地が架けられた時、見ながら思ったのは神様の力を使うってのは、ある程度の知識がないと使えないんだろうって」
「それは俺も思った」
 鉛色の空と海、はっきりとしない水平線に見え始めた、ネーセルト・バンダの島。黒い鳥の声を聞き、
「そろそろ休憩終わりますよ」
「乗ってください」
 再び走りだす。

 大型馬車は二台で、片方は人が片方は荷物が積まれている。
 毛布や鍋など必要雑貨が積み込まれている馬車の荷台に三人が乗り込んでいた。
「貴様らしくもないな、ドロテア」
「何がだよ、セツ」
 何事が無くても喧嘩腰になる二人と、成り行きで同乗させられたエルスト。
 荷物の隙間に体を置きながらも、二人はやたらと尊大で、薄暗い幌の下で睨み合う。
「ヤロスラフが目的地付近にゲートを開くと言ったのに、拒否したな。貴様らしくもない時間の使い方だ」
「俺は人間なんでなあ」
「精霊三神の力を支配している女が言って良い言葉じゃねえな」
「手前の祝福の言葉よりマシじゃねえ。……手前が考えてる通りだ。俺は時間稼ぎしてんだよ」
 ドロテア不必要なまでに見下すような視線をセツに向けた。それに斜めからセツは睨み返す。
 セツは自分を救出しに来たとはとても言えないドロテア達と、何故か一緒にいたヤロスラフを思い出す。

《影しかない》

 その時、聖地神フェイトナはそう言った。

《女、お前の隣には影しか見えない》

 ヤロスラフもドロテアも、そしてエルストも驚きはしなかった。驚いていたのは、言葉を理解したヒルデガルドだけ。
 マリアにはその時の言葉は 《翻訳》 されていなかった為に通じなかった。

 セツはその言葉を理解できた。

**********

 見慣れた壁、見慣れた窓、嗅ぎ慣れた匂い、そして聞き慣れた声。
「ありがとね」
 女将がそう言いながら、目の覚めるような青い酒の入ったグラスをそっと差し出す。
 その日抱いた女は、俺が初めての客だった。
「礼を言われる筋合いのものではない」
 この先の人生を ”高級娼館エルーダ” の中で過ごす最初にして、絶望の儀式。
「そりゃそうだけどさ」
「次来た時は、もう少しマシな態度を取れるようにしておけ」
 二度と抱くことはないだろう娘だ。
 抱かれた後に泣いていたが、俺の知った所ではない。迷走する世界で人は売られ買われる。
 迷走は魔王がもたらした物だけではない。
 人が国を作り生きていく、それ自体が迷走だ。
「言われなくてもするさ。それが私の仕事だからね。それにしてもアンタは昔っから可愛げのない男だったね。初めてだってのに、あんな態度の男は私も初めてだったよ」
 初めて抱いた女に言われるが、
「そんな昔のこと覚えてはいない」
 俺にはもう覚えはない。
 酒を飲み干し、もう一杯寄越せとグラスを差し出す。女将は注ぎながら俺の言葉に女将は目を細め、今までずっと聞きたかったらしい言葉を口にした。


「アンタ、ユメロデを覚えているかい?」


 《ユメロデ》 その言葉は最近目を通した書物にあった。
「ユメロデは ”神は記憶していた” という意味だろう。娼館の女将が学者でも目指すのか?」
 学者を呼び寄せた際に出し抜かれないように、手に入る書物で知識を得ていた。その中にあった第一言語 《ユメロデ》
「なんだいそりゃ」
「人に聞いておきながら、随分な言い草だな。《ユメロデ》 を覚えているかと言われたから答えたというのに。《ユメロデ》 第一言語で 《神は記憶していた》 という意味を持つ単語だ」
 酒をあおり、再びグラスを差し出す。女将は両手で酒瓶を持ちグラスに注いだ後、口元を手で隠して笑い出した。
 女将は昔から口元を手で隠す仕草の美しい女だった。年を取ってもそれは変わらない。
「違うよ。そしてアンタはやっぱり忘れちまったんだね。ユメロデって言うのはさ……」
 女将は言いながら自分の飲んでいた青い酒に寂しげな視線を向けて、溜息をついた。気丈な女が作った表情から語られる言葉に興味はあったが、聞くことはできなかった。


 エド法国に戻ったら、続きを女将に聞きに行ってみるか


 俺はグラスを捨てて立ち上がる。
「悪いが話は終わりだ。俺は戻る……店を閉めろとは言わないが、外は危険だ。注意しろ」
 俺は女将の返事を聞くこともなく、隣室の法王庁に続くゲートが常設されている部屋へと入り、法王庁へと元へと戻った。
「セツ!」
 異変は当然ながらアレクスも気付いている。感じた事のない力ではない、感じた事のある力だった。
「お前は黙って部屋の隅に隠れてろ。いいな! アレクス!」
 これは間違い無く……
「セツ! あれは……」
「アレクス!」
「なに?」
「外出許可を」
「あ、ああ……」
 アレクスの言葉を聞くこともなく、俺は法王庁の窓から外に飛び、上空に立った。
「隠れていたら破壊してやろうと思っていたぞ」
 上空にいたのは人間の姿をしているが、人間ではない。
 この感触は間違い無く、
「エールフェン」
 そして特徴的な紫の瞳。
 体の線を殊更強調する服は、その紫の瞳を持つフェールセンが女である事をはっきりと解る。
 豊かな胸とくびれた腰と、尊大な口元。
 《尊大さではあの女の足下にも及ばんな。あの女に比べたら、下品なだけか》
 エールフェン選帝侯の血筋に女はいない。ゴールフェン選帝侯一族は知らないが、エールフェン選帝侯に関して俺はかなり詳しい。
 後ろ盾だったバルミア枢機卿が事細かに俺に教えた為に。
 ヤロスラフには腹違いの兄がいた。バルミア枢機卿とはなさぬ仲のオレクシーという名の兄が。
 そう言えば以前……そうだ、十年以上前のハプルー空中遺跡破損事故の際に死んだと伝え聞いた。
 そのオレクシーに娘はいなかった。
 見た所、娘という雰囲気ではないか。
「良く私がエールフェンと解ったな」
「その隠していない紫の瞳を見ればな。狙いは俺だけか?」
「今は。貴様以外にも厄介な勇者が存在しているから」
 目的は聞いても答えはしないだろう。

 ”今は” か。

 夜の帳の下、明かりが方々に灯っている。
 明かりが消えてしまっていたら危険だが、今はまだ起きている人間の数が多い。騒ぎを起こしても、逃げられるだろう。
 建物に被害が及ばないよう、音と光だけを放ちその隙に逃げ、今は人のいないヘイノア平原あたりで体勢を整えてから反撃しようと考えたが、その考えは捨てた。
「後で誰を殺す気だ?」
「貴様の近しい者だ」
「近しい者?」
「人柱も生き延びているとは」
 女は振り返り妹の居る教会を見て嗤う。


『レクトリトアードが勇者な……メルブレルアードが隠者。あの村にいた者は全て第二言語で意味がある名を持っているのか』
 では妹のエセルハーネにも ”意味” があるのか? 何処のページに載っているだろうか。
『セツ、精が出るね』
『別に出してはいない……』
 エセルハーネの項目に書かれていたのは、
『どうしたの?』
 人柱・犠牲・生贄・代用
『何でもない。何か用でもあるのか? アレクス』



 俺はこの場から女を遠ざける必要があると判断を下した。
「それにしても、此処は捜し辛い」
 女は、後でしったがエセルウィサという女はエセルハーネがこの街に居る事は解っているのだが、はっきりと場所は解らないようだ。
「どういう意味だ」
 わざと尋ねる。決して答えたりはしない。解っていて俺は話しかけた。エセルウィサは攻撃に出るだろう 《それ》 が機会だ。
「さあな。あの辺り一帯に居る」
 俺は逃げる為に気付かれないように力を少しずつ娼館のゲート前に少しずつ集めていた、それを移動させる。
「お前それでも」
「ん?」
 部屋を通り抜けた時、それを変質させ壁を破壊し妹の居る教会の上部をも破壊した。逃げ切るのも容易かったが、ここは捕まった方が良いだろう。
 俺は女に、黄金、薄いもので金箔のような物で捕縛され、そのまま地の果てへと連れて行かれた。

「手間をかけさせるな」

 連れて行かれる途中で服が徐々に溶けてゆく事に気付いて、かつてヤロスラフに捕まえられた時の事を思い出した。
 あの後、随分と痛い思いをした記憶がある。となると、この後もかなり痛むだろうなと、俺は意識を閉じた。
 エセルウィサは俺の体を封じる事が目的で、俺自身には興味はないようだった。閉じた意識を強引に覚醒させられたのは、水槽の中に入れられてからだった。
 《水槽》 なのかどうか、入れられて居た時は解らなかった。
 硝子のような透明で向こう側が見える閉ざされた空間。
”壊れるといい。そしてあのクレストラントのように……”
 拳を叩きつけた硝子のような物は、硝子ではなかった。”クレストラントのように……” 以降は聞こえなかったが、俺が割れない硝子を殴った時、エセルウィサは愚か者を見下すような視線で笑っていたのだけは理解できた。
 エセルウィサは消え、俺の足下には水のような液体で濡れる。液体が送られてくる方向へと進み、入り口に手を触れると 《声》 が届いた。
 人間の声ではない、声。
《捕まったのか》
 声の主は聖地神フェイトナ。
「ここがお前が捕らえられている場所か、フェイトナ」
 フェイトナの声は驚きを隠さなかった。
《お前は私が捕らわれている事を知っているのか?》
 神が捕らわれている事を知っている。確かにそれは神を越える何かに手がかかっているのだろう。いや、あの女は既にその域は越えているのかも知れない。
 僅かな敗北を感じながら、あの女から聞かされた事実を教えてやると、フェイトナは感動していた。
《そんな人間がいるのか》
 水槽の半分以上は抽出したフェイトナの力を持った液体で満たされる。
「いる。あの女は此処にも来るだろう。お前を解放したがっている」
《力を追い求める人間か?》
 違うだろうと俺は思う。
 あの女は力から遠ざかる為に、力を手に入れなくてはならなかっただけだ。俺がエド法国で自由になるために、エド法国の中で力を手に入れなければならなかったのと同じように。
「さあな。それは本人に聞け」
 違うのは俺が手に入れた自由になる為の力は、神の国にある権力で、あの女が自由になるために手に入れるのは、何処にも属さない神の力。

 あの女と俺は、性格は似ているが遠い。

 俺は逃げられない水槽の中で、フェイトナと会話を続けた。向こうから流れてくる力を介して、会話をすることが可能だった。
 聖地神フェイトナは聖風神エルシナの兄弟。それは知っていたが、
《そうだ、半身を分け合った》
 この神は遠く離れた場所に捕らわれているが、互いに情報を僅かながら交換できていた。
 体本体を分けて交換しているので出来る芸当らしい。
《捕らえられている、いや捕らえられていたと言うべきか。聖水神ドルタは誰とも交信してはいない》
 フェイトナは俺を此処から逃がしてやる事は出来ないと言ってきた。
「期待など最初からしていない。俺はお前が捕らわれている事を知っている。強制的に捕らわれている事も」
 随分と余裕だなと言われたが、別に余裕などはなかった。
「お前に話た女が、この場所にお前を手に入れに来る事を待っている」
 あるのは、このフェイトナに近づける女がいることを知っている事実。
《長くかかるかも知れんぞ。人の寿命は直ぐ尽きる》
「あの女をお前の常識で図るな。あの女は来る」
 フェイトナの声がどのような声かと聞かれると、答えられないが……最も近い声だった。近いが表す物が何であるのかは解らないが。
 フェイトナは僅かにもたらされたエルシナからの情報を俺に教えた。以前、俺のように捕まりエルシナの捕らわれている場所に閉じ込められた、俺に似た一族。
《最終的には壊れ、そして連れて行かれた》
「壊れたとは何を意味する? 姿形か? それとも精神か?」
《両方だ》
 この水槽に一杯になるほど、体が巨大化するそうだ。それが俺達が神の力を蓄えられる限界なのだそうだ。
 過去にそうして壊れた者がいるのだから、それが真実だろう。
 どのような姿になって、どのような精神状態になったのか。
 連れて行かれた俺とよく似た一族の男がどうなったのか? それが俺の末路であるとしても恐れる気は無い。
 息苦しいフェイトナの力の中で俺は目を閉じる。
 音もない空気もない、体の重みすらない。
《恐ろしくないのか? エルシナの所にいた者は、会話が途切れる事を酷く恐れた》
「恐ろしくはない。俺は何時死んでもおかしくはない人生を歩んできた。それだけの事だ」

 壊れた男の名はクレストラントと言い、魔王として君臨し、あの女に殺されたと聞かされたのも馬車の中だった。

**********

 乗り心地の良い馬車に、人が神の力を使い架けられた大地の橋。セツはドロテアに捕らえられていた自分を解放しにきた時、聖地神フェイトナが言った言葉の真意を問う。
「聖地神がヤロスラフを影だけと言ったのは何故だ?」

《影しかない》

 謎の言葉を聞かれたドロテアは、
「マリアに全裸観られて嫌われたってのに余裕だな」
 口元を歪めて笑う。
「誤魔化すな」
「何で知りてぇんだよ」
「俺が知りたいと理由を言って確実に教えてくれるのなら言おう。だが貴様は理由を語っても教えようと思わなければ教えない。俺に教える気があるのか無いのか? それをまずは言え」
「人に聞く態度じゃねえぜ」
「お前に言われたくはない」
 二人の会話を聞いているエルストが、笑いを堪えられずに思わず吹き出す。
「知ったところで手前の利益になるわけでもねえのによ」
「利益になるかどうかは俺が決めることだ」
 ドロテアは紅をさしている自分の唇を軽く噛んだ後、
「やり辛ぇ男だ」
 組んでいた足を伸ばして、笑い続けているエルストの背中を蹴る。
「お前に褒められるとは光栄だな」
 軽く蹴られ ”御免、御免” といった動きをとりながらもまだ笑っているエルストと、視線をドロテアから一切逸らさないセツ。
 高い波がドロテアの作った大地にぶつかり大きな音と共に、飛沫が降り注ぎ幌から、雨が降ったかのようなまばらな音が聞こえてくる。
「聖地神フェイトナは手前に ”自分を捕らえている物が理解出来ないから逃れられない” って言ったようだが、それが答えだ。だが手前はそれが理解できねえから俺に聞いてるってことで良いのか?」
 フェイトナは答えを言っているが、それが答えであってもセツには理解が出来ない。
「その通り」
 自分の目の前に確かに存在するヤロスラフが見えない。それも自分達よりも多くの能力を兼ね備えた神の言葉。
「偉そうな……手前は偉いんだったな。神が捕らえられていた場所を作ったヤツに関係している。俺はそれ以上言う気はない。寝る」
 セツは神を全能とは思わないが、自分よりも劣っているとは考えはいない。
 神がヤロスラフを見る事が出来ない、それは自分よりも優れている為に見る事ができないのだと解釈し、今のドロテアの言葉を聞いて確信した。
「寝たと言い張るなら起きているお前に聞こうか、エルスト」
「はあ、俺は正直に言うとドロテアほど理解はしていないんで。知っている事を全て答えてもセツ枢機卿の……」
「枢機卿は付けなくて良い。此処にいるのは勇者だ」
「解りました。皇統フェールセン、要するにオーヴァートの一族は神を捨てた一族なのだそうです。その神を捨てた一族の初代皇帝は、先ほどセツと一緒に捕らえられていた精霊神を凌ぐ力を持っているそうです。何がどう精霊神を凌いでいるのかは俺には全く解りませんが。セツが捕らえられていた施設を作ったのは、初代皇帝です。でも精霊神を捕らえたのは初代皇帝ではありません。捕らえもしないのに施設を作ってこの世界から消えた初代皇帝。その真意はオーヴァートに ”は” 解らないようです」
「ドロテア=ヴィル=ランシェには解るということか?」
 名指しされるが、ドロテアは全く動かず、沈黙を保ったまま。
「さあ? でも知らないとも勝手に言えませんので。さて俺も寝ていいでしょうか? 本日の不寝番なので」
「解った」


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