ビルトニアの女
神の国に住まう救世主は沈黙の果てに飛び立つ【22】
 期日を指定されはしなかったが、イリーナとザイツは翌朝には出発出来るようにと用意を開始する。
 『海に橋が架かった』と聞いたネーセルト・バンダ王国に向かうつもりの面々の殆どは用意の手伝いをしていたが、
「クナ」
「何じゃ、セツ」
 一人だけ手伝いに参加していない者がいた。
 正確表現するならばオーヴァートとヤロスラフも手伝いに参加していないのだが、参加されるとどれ程言葉を飾ろうが ”迷惑” なので誰もがいない事に安堵し、いない間に片付けてしまおうと必死だった。
 セツは手伝うのが嫌だったのではなくドロテア達とは違い ”勇者” 以外にも一国の統治者としての仕事がある。それらに関係する事を、出発前にある程度こなしておかなければならなかった。
「敵の目的は判明しなかった、此処にいる大陸でも選りすぐりの学者達が解らなかったのだ、他の学者を呼んでもわかりはしないだろうから、もう暫くホレイルに滞在しろ。詳細はホレイル女王ベアトリスに伝えている」
 ドロテアは 《ホレイルの何が狙われているのかは解らなかったが、俺はエルシナを取り出しに向かう》 セツに告げた。
 ドロテアの判断に対して、セツは特に異論はない。
 ホレイル王国が滅ぼうがどうしようが、セツ自身には関係ない。ただ ”最高枢機卿” として援助はする。
 その援助が足りずに滅ぼうが滅ぶまいがセツの、そしてエド法国の実質的な支配者の知ったところではない。
「畏まりました」
 クナの答えを聞いてから、セツは手を叩き女王と女婿とマルゴーとその夫ブランドを呼んだ。
 クナと同席するマルゴーは憎々しげに視線を逸らしたままだったが、母親である女王に注意されて顔を赤くして頭を下げる。
 セツは ”部下であるクナに対する非礼” をマルゴーに対し厳重に注意した後、話を始めた。
「我々が此処を離れると治安は悪化する。それに際して王家の者達の避難場所を用意はしておいた。避難するも自由、避難しないのも自由」
「避難場所とは?」
「クレハモノン領。マシューナルの王国一帯からホレイル、旧トルトリアにも領地を持つ大豪族ロートリアス家の一人サイボルドが女婿として入り当主となったエルセン王国に領地を持つ家だ。ドロテアに同行しているサイボルドの弟・バダッシュが紹介状を用意した」
 木で作られた質素なテーブルに紹介状を置く。
 王女は挨拶をした後にそれを手に取り目を通して、
「クナ枢機卿閣下は?」
「ここに残る。エド正教の聖騎士を率いてきたのはクナだ」
 女王は頷き、
「私は女王である以上、どれほど治安が悪化しても残ります。後継者であるマルゴーとその夫のブランド、そして孫達はありがたく避難させていただきます」
 マルゴーが何かを言おうとしたが、夫に袖を引かれて浮かしかけていた腰を戻し、沈黙を保つ。
「良かろう」
 女王は王婿と共に国に残る決断を下した。
「折角なのじゃ、クレハモノンで休養して来れば良かろうに。ホレイルには、ホレイル王族の妾が残れば、何とかなるじゃろうて」
 クナは全員の避難を希望したが、セツがそれを制する。
「女王の決断は覆らないだろう。お前達は準備に戻れ」
 女王は ”それでは” とセツに礼を述べて挨拶を済ませたクナ以外の王族は部屋から去っていった。
「他のことは問題ないな」
 ”あの馬鹿が次の女王なら、御しやすい” かつて法王が 《隣の女王がドロテアさんだったどうするの?》 と言った事を思い出し、それと重ねてマルゴーの判断を下した。
「後は妾で……一言良いかえ? セツ」
「何だ? クナ。礼なんかは要らんぞ」
「誰がお主なんぞに礼をするものか。今の避難も、ホレイルに恩を売る事が目的であろうて。クレハモノン、いいやロートリアス家にはそれ相応の事をしてやらねばならぬが、相応の事をしてやる ”表だった” 理由を作っただけじゃろ」

 ロートリアス家、それは歴史ある闇。

 《勇者誕生以前》 から存在する大豪族。彼等が大豪族であり続ける理由。そして王とならなかった理由。
「ふん。法国の資金洗浄を一手に引き受けているから、ロートリアス家に何かをしてやるとは言えんからな」
 エド法国の ”明かすことの出来ない資金源から振り込まれた金” を投資などして、別の資産に変えてエド法国へと寄付する一家だった。
「妾が言いたかった事は、資金洗浄について。資金洗浄はいつ頃から行われ、何の目的で行われておるのじゃ」
 資金洗浄という ”任務” に対し、相当額の取り分をエド法国では容認していた。それは ”沸いて出てくる” 潤沢な資産となる。
「知らんな」
 だがその資金洗浄の目的はセツも知らない。
 ”エド法国の資金洗浄を担当している” そうロートリアス家側が、新たな法王謁見しに来た際に裏帳簿を提出した事で初めて解ったのだ。
 法王の印が押され、歴代法王のサインもされている帳簿。
 サインは残っている書類から、本物であることが判明している。古から続く家柄と宗教国家の資金洗浄。
 ”委細はエド法国側にあると聞いていますが。もしかしたら失われたかもしれない。失われているとなると、我が家では”
 バダッシュやサイボルドの父親でロートリアス家の現当主は、法王にそう告げた。
 セツは詳細を調べる為にも、資金洗浄はそのまま行わせている。
「法国にあった詳細は焚書で失われたからな」
「焚書なあ……セツや」
 クナは今まで疑問に思っていた事を口にした。クナがこのことを口にしなかったのは、下手に触れて ”法王願望がある” と思われてはならないと、我慢していた為。
「何だクナ?」
 エド法国内では語る事は出来ないが、ホレイル王国で 《勇者》 と対面しながらであれば、言っても良いのではないかとクナは意を決して口を開く。
「何で失われたんじゃ」

 それは純粋な疑問であり、全ての謎にかかる問い。

「……」
「シュキロスの行った焚書は、法王の間にあった吸血大公が復活阻止に携わる文章を破棄させる為の物であろう? 吸血大公の復活阻止の封印を施したのは勇者じゃ。そのほかにも破棄されていた重要文章が存在した事を、妾とお主はつい最近知った。妾が引き取った下男ヘイドのもたらした 《エルセン文書の暗号文の解読手引き書》 と 《エルセン文書の暗号文》 それを知って以来、妾はずっと不思議だったのじゃ。法王の間に資金洗浄に関する文書が存在し、破棄された。それが意味するものは? 自らに問うた時に返ってく答えは 《勇者のため》 それだけじゃ。それに関してお主はなんと考える?」
 法王の間について、事細かに尋ねることはクナの立場からして出来なかった。
「クナ」
 捕らえられていたセツが、エルセン文書に関して知ったのは、ホレイル襲撃が解決してからのことなので ”出遅れ” はあるが、
「何じゃ、セツ。怒り出しそうな顔をして」
「気付いたのなら早く言え!」
 それだけ言うと、セツは部屋から飛び出していった。

「お主こそ、何に気付いたかを妾に言ってから飛び出せや」

 やれやれと言いながら、セツの後を追うクナの後ろ姿は、少しだけ楽しそうだった。前を走っているセツの後ろ姿も同じく楽しそうであった。
「おい! 女」
「野郎! なんだ!」
 馬車を前に積み荷の最終確認をしていたドロテアの所に、血相を変えたセツが飛び込んできた。
「何でセツ最高枢機卿と姉さんは、ああも喧嘩腰なんでしょうね。肉親と聖職者として間に挟まれる私の精神がすり減り……」
 喧嘩腰の上に口がひたすら悪い人同士にしか見えない。その二人の間に勝手に挟まれてみたヒルダだが、
「ヒルダ、保存食用の乾パン、多く作りすぎたから持って行けない分、食べる?」
 マリアがバスケットに入れて持って来た保存食用の固い乾パンを前に、すぐに挟まれる事を止めた。
「あ、食べます。食べます。わぁーい、ありがとうございます、マリアさん」
「固いでしょう。はい、ミルクと砂糖たっぷりのコーヒー」
 バスケットに乾パンと仲良く並んではいっていたカフェボールにマリアが乾パンを浸す。
 旅行用保存食の乾パンは、日持ちを重視するので固すぎるので、そのまま食べることは滅多にない。
 スープやマリアが持って来た甘い飲み物などに浸して食べるか、水でふやかして、フライパンに油を敷き、同じく保存食用の塩のきいた魚と炒めるなど調理が必要だ。
 手間暇をかければ、それなりの味にはなるが、旅の保存食なので、手間暇をかけられることはほとんどない。
「ぶぉりぶぉり。ふぇいきでふよ、ホレイルの乾パンは海風にあたっているので、ちょっと湿気があるので、ボリバリボリボギ。チョルチョリア流は、ようはなくガダイのでぇ……」
「あ、ヒルダ。食べながら説明しなくていいわよ。後で教えてくれたら。食べながら喋るのは行儀が悪いわ」
 尋常じゃない音を立てながら食べるヒルダを前に、
「飲み物持って来た方が良いかしら」
「大丈夫じゃないかな。だってヒルダだから」
 エルストもマリアも慣れたものだった。

”え、神経すり減り? すり減ってるの?”

 セツとドロテアの睨み合いは気になるが、乾パンを食べ続けるヒルダも気になる他の者達は、何処を観たらいいのだろうかと視線を忙しなく動かす。
「ロートリアス!」
「何でしょう閣下」
 ”ああ、そう言えばこの口と目つきが滅法悪い御方は、枢機卿閣下でいらっしゃいましたなあ。それも首座に最も近い” 殆どの人が忘れてかけているが、緑の強い眼球を持った鋭さしか感じられない顔つきの男は、博愛を人々に説き、婚姻の祝福を与える仕事をしている。
 誰もが ”エド法国の高位聖職者の表情が見えない時代で良かったなあ” と思う程に人相が厳しい。悪いのではなく、厳しい。
「資金洗浄についてだが、貴様どこまで知っている」
 この言葉、クナが到着した瞬間だったのだが、クナは ”前置きも無しにこんな事を尋ねているとは思わなかった” 後にそのように法王に語った。
 自分が到着する前に、なにがしかの説明をしているだろうと考えていたのだが、凍り付いた空気と周囲の驚きに、
『猊下の言わる通り、ドロテア卿に似ておるのぉ』
 その似た雰囲気を確かに感じ取った。
「……あの……」
 言い辛そうに言葉を濁し、視線を外したバダッシュを無視しして、
「セツ! ロートリアスが資金を回してるのか! その金、今はどうしてやがる!」
 ドロテアが割って入る。
「行き先が解らないので、エド法国で管理している」
「言い換えりゃあ」
 ドロテアの詰問する声が上がった直後、

「ぼーりぼりぼりぼり」

 何となく空気が緩んだ。その ”ゆるみ” にドロテアも少々気勢が削がれてしまい、
「……言い換えりゃあ! 貴様の支配下にあるってことだろ」
「まあな。金も支配下に……」

「ぼりぼりばりぼりぼりぼりばりーもごもごもご」

 追い打ちをかけられて、セツの気勢も削がれた。
「ま、まあな。金も支配下にあると言っていいだろう。あれは手足になって働きもすれば、裏切りもする ”者” だ」
 緊迫感の上に居たたまれ無さをかぶせた空間で、それでも話は続けられていた。
「レイ!」
 ドロテアが借用書を見せろと指示を出し、レイは持っていたそれをセツの前に差し出す。恐ろしいまでに汚い何かを見て、
「これはカジノにあったカルマンタンの字と同じ物だな」
 セツは頷いた。
 ちなみに 《同じ物》 とは言ったが、理解は出来ていない。同じ人間が書いた文字らしい事だけを判別できただけで、中身はセツにも不明だった。
 レイもこれは解らないだろうと、説明しようとした時、
「ああ、それは。勇者の……」

「ばりごりばきぼきごりごりばきごりごり」

 室内に間違った緊張が走る。走らせている本人は、噛むのに必死で知った事ではない状態だ。
「そ、それは、勇者の……えっと勇者の……」
「勇者の何だ?」
 喋ることが苦手なレイは、もう一度考えを纏めて声を出したのだが、
「それは勇者の、資金の……」
「ごりごりばきりばきりごりごりぼりぼりごきばき」
 再び阻まれた。
 最も美しい僧侶が乾パン口に入れて、轟音を立ててかみ砕き続ける。それを一度でも視界に入れて、その音を一度でも聞いてしまうと、全てが無に還ってゆく。
「……」
「落ち着け、勇者レクトリトアード」
 セツらしからぬ優しさで、声を掛け、
【落ち着くんだ、レイ】
【そうだ、エピランダ!】
 霊体の同族も必死で声を掛けたが、
「ぎゅごりゅばりぼりぎょるごりゅもぎゅ」
 しっかりと閉じている口の奥から響くあり得ない音に、レイはそれ以上何も言う事ができなかった。
「……」
 ドロテアが近寄り、頭を殴ったが最早時は遅し。
「涙目になるな、勇者……まあ、少し落ち着いてから話を聞くとするか。今は話す時期ではないようだ」
 何れ枢機卿にしようと考えている、美僧の顎の強さにセツは思いを馳せた。

 ”俺たちの神経がすり減るよ、ヒルダ……”

 無事ではないが話は終わった時、殆どの人は視線が虚ろだった。馬達の眼差しも虚ろだったろう。
 精々虚ろでなかったのは、
「大した司祭じゃ」
 手を叩いて喜んでいるクナくらい。
「何でも褒めりゃあ良いってもんじゃねぇだろクナ」
 拳を落とした姉は、指を鳴らしながら ”おいおい” といった表情を隠さない。殴られた頭を撫でながら痛いなあ……と呟いているヒルダと ”コブは出来ていない?” と撫でるマリア。
「いや、あの乾パン固いぞよ。トルトリアの乾パンはもっと固いのかえ? 妾はホレイルの乾パンに歯が立たなかった」
 ”そちらですか……” と楽しげに語るクナを見つめる面々の中で、一人クナに請われて乾パンを差し出してしまったイリーナが馬車の影に隠れる。
「なんで手前が乾パンそのまま食ってんだよ。枢機卿が乾パン食うようになったら、国自体が終わりじゃねえか」
「ちょっと食べてみたかったのじゃ」
 深い意味はなかったのだと説明するクナの脇で、
「レイさん、どうしたんでしょう?」
「……さあ」
 やっとレイの異変に気付いたヒルダの言葉は、無意味だった。

 エド法国建国以来続くロートリアス家の資金洗浄と、ホレイルの乾パンの勝負は後者に軍配が上る。


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