ビルトニアの女
神の国に住まう救世主は沈黙の果てに飛び立つ【1】

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「私は、私の代で皇統を終わらせるつもりなのだ」
 膝に感じる脈拍も、なければ無くても良いものだとは。何のために、この拍動があるのか? 生きる為ではないのだろうか?
「独身のまま死ぬ……って事か」



 外傷で死ぬ。破損が酷すぎれば死ぬが僅かでも肉片が残れば、躯だけは再生されてゆくのだと。最早、其処に“自分”がいなくなっても、躯だけは再生してゆくのだ。拍動のないその躯であっても、再生だけは繰り返される。自分自身の力で、自分自身を消し去る事は出来ない。
「だから、皇帝は次代を造る。自らの身体を破壊させる次代を。継承する者は華やかそうに見えて、実際は遺骸。我等は親を、親族を殺害する為に生産されるだけの物体だ」



 人はそれを悲劇という、悲劇だ。確かに悲劇だが、此処にソレすら叶わない男がいる。死ぬ事すら不自由な男が此処にいる。
「それで良かったのだ。私が相反する感情というモノを、持たなければ。お前が愛しく、お前の子を見てみたいと思わなければ。ただ、それだけの感情に浸れればよかったのだが、私の子である以上間違いなく次代皇帝となる。私は自分の子、いやお前の子に親殺しをさせたくはないのだ。私は、あれが親だと思った事は、この三十五年間なかったが……それでも嫌なのだよ。私はリシアスを殺した時、悲しかったに違いない……知らなければ良かっただろうが、最早知ってしまった事をどうする事もできない」
 オーヴァートの肩に手を置いて、周囲を見回す。彼らは殺されるとき、真摯に祈ったのだろうか? 

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「姉さん!」
 不意に声をかけられてドロテアは驚いた表情をつくる。
「……どうした? ヒルダ」
「到着しましたよ、エド法国に」
「ああ、そうか」
 七年前の出来事を思い出し頭を振った。
 ドロテアはイシリア教国のヘイノアでの虐殺直後にオーヴァートに連れて行かれたことがあった。そして聞かされた事実も。
「姉さん、顔色あんまりよくありませんが……化粧失敗しました?」
「うるせえ! 黙れヒルダ!」
 アレクサンドロス四世。オーヴァートの親戚である彼がセツの行方を突き止められずに怯えた理由。
 それは《死》にあることをドロテアは良く理解していた。
 通常の人の死ではない、フェールセン特有の《死》
 その《死》は決して世界に溶け込まないことをドロテアはオーヴァートから聞かされ、そして《この世界》からも知らされていた。
 フレデリック三世が用意した、乗り心地のよい馬車から飛び降りたドロテアに、まず最初に声をかけてきたのは、バダッシュ。
「よお、ドロテア」
「バダッシュ、どうだった?」
 アードはバダッシュの顔を見て【ロートリアスの当主顔だな】と呟いた。
 もちろん、今アードは姿を消している。聖職者のお膝元で、幽霊がのそのそと歩いていると格好がつかないというか、色々とあるので。
 アードの呟きが耳に届いたドロテアはバダッシュの見慣れた横顔を見ながら、二人で法王庁へと入ってゆく。
 ドロテアが指示したとおり、バダッシュは捜査権限で何処へでも立ち入れるようになっていた。ドロテアは言うまでもない。
 先ずは法王猊下の元にと言いにきた聖職者を “邪魔だ” と殴り倒して、ドロテアは足早に進む。以前訪問したときと同じく、床は磨きこまれ鏡のようにドロテアとバダッシュの姿を映す。
 迷路のような法王庁の廊下を曲がり、そして階段を登り到着したセツの部屋。
 警備を担当していたのはイザボーであった。 “よお” というドロテアの声に小さく頭を下げて、物理錠を開く。
「中々、仕事している姿 “サマ” になってるじゃねえか」
 それだけ言って、ドロテアは室内に踏み込んだ。
 壁の穴以外は、以前ドロテアが通された時となんら変わらない状態。
 元々セツは私室に自分を残すタイプではないようで、その部屋の中から “セツ” を拾うのはとても難しい。そのくらい、セツの私室は淡々としていた。セツという人間は自我があり、主張もあるが私的な部分において自分を残すことを好まない男だった。
 彼にとって枢機卿として生き、法王として死ぬ覚悟が決まった時から自分は消えていったのだろう。
 そんな彼が唯一自分を思い出すのが、窓から望むことのできる妹の居る教会。セツと呼ばれる枢機卿が、この窓から何を思い見ていたのか法王であっても解らない。
 その教会を望める大きな穴の前に立ち、破壊された痕跡を指でなぞる。
「明らかに室内から外に向かって放ったものだ。間違いない」
 破片の飛び散り具合、何よりも砲撃を加えられた部屋の反対側の壁は無傷となれば、此処からセツが壁を破壊したと考えるのが妥当であった。
「そうか」
「だがな、ドロテア」
「何だ? バダッシュ」
「その時、セツ最高枢機卿は室内には居なかった」
 だがセツはドロテアの予想以上のことを仕出かしていた。
「あの破壊力のある力を、あの法王庁の床と壁をすり抜けさせたってのか?」
 法王庁の壁や床などをすり抜けて、狙った箇所のみを破壊するなど普通の人間には出来る行為ではない。
 破壊された壁の大きさと “此処からの飛距離” を頭の中に描いたドロテアは “やれやれ” といったように首を振る。
「力の追跡も終えてる。かなり離れた箇所から力をすり抜けさせて自室を破壊した。理由までは解らなかったが」
「俺は理由の方には見当はついてる。それで、何処から力を通したんだよ」
「娼館街にある最高級娼館にゲートの痕跡らしいものを感知した」
 バダッシュの言葉に、セツとアレクスが外に出る際に使用している娼館を思い出す。
「確かめる為に入ったのか?」
「仕方ないだろ。俺じゃなかったら追い出されてるぜ」
 ヴァルキリアには内緒にしてくれと続けると、ドロテアは “考えておいてやるよ” と片目を閉じて殊更面白そうに笑う。
「エルーダだろ」
 紹介者もなしに一見で立ち入れるのは、大名門の一族であることと、
「そう。“当主様にもお兄様方にもご贔屓にしていただいて” とさ。俺は学者崩れだからエド法国に来ることなかったが、親父や兄貴達は楽しみで行っていることは知っていたけど、まさかこんなところで役に立つとはねえ」
 親と兄が客であることが大きかった。
 今度親父がお袋と喧嘩になったり、兄貴が義理姉に叱られていたら少し取り成してやろうかな……などと呟いているバダッシュの脇で、
「それにしても、ロートリアス家の名前は伊達じゃねえな」
 ドロテアは声を上げて笑った。
 穴の開いた厚い壁から抜けてくる風の音に乗る笑い声にバダッシュも笑い返す。
「女主は口が堅くて困ったが、お前の名前を出したら一言呟いたよ。 “ランドは最高枢機卿行方不明の騒ぎ以降来ていない。最後に来たのは、行方不明騒ぎの日” だってさ」

 口の硬い女主の前に金を積み上げて頭を下げる。
 最初は全く相手にしなかったが、ロートリアス家の五男と聞き “ランド” から外の話を聞くことも多かった敏い女主は一つのことに思い当たった。
― そんなに必死になる理由を教えてくれませんかね。名家の御曹司が娼婦に頭を下げてまで此処を調べる理由 ―
 国王の家柄よりも古くからある家の自慢の息子が娼婦に頭を下げる。高級娼館がその筋に影響力を持っていても、此処まで必死に頭を下げる人は見たことが無かった。
 卑屈さや心の奥底で女主を馬鹿にするような態度でもなく、彼の持つ全ての誠実さの全てをかけた姿の美しさに、女主は年甲斐もなく心が揺らいだ。
― ドロテア=ヴィル=ランシェに調査を命じられた。言われたことだけで終わったら、俺に次はない。それ以上のものを見つけて会わなければ、俺に次はない ―
 自分が “ランド” に震えが来るほどに、顔も上げられないほどに美しいとこぼした相手。法王になったあの子も魅せられた、世界を押しつぶすような美しい女に魅せられた男はこんなにも美しいのかと。
女主はバダッシュの質問に答え、金は全て返した。
― このエルーダの女主、金で人様の情報は売らない ―
 その言葉にバダッシュは再び深く頭を下げる。
 顔の見えなくなったバダッシュに、女主はゆっくりと声をかけた。
― そこまで好きな相手が居るとは羨ましいね ―
 バダッシュは顔を上げずに、
― そうでもない。苦しいだけだ ―
 答えた。
 女主が良く聞く諦めを含んだ声。普通の生活に対する希望を完全に失った娼婦の声に良く似ていた。
― でも忘れられないんだねえ。私はそんな相手はいなかったから解らないけれど、でも私には貴方が幸せに見えるねえ。例え苦しくとも、心の底から愛した相手が存在することに ―
 女主は自分の半生を思い出し、気負い無くそう口にした。
 無言のままのバダッシュに、女主は声をかける。
― 仕事抜きで遊んでいかないか? 良い子もたくさん居るよ ―
 バダッシュは女主に礼を言いながら断った。
― 俺だけの娼婦を怒らせるわけにはいかないから ―
 かつてバダッシュの親がドロテアのことを諦めさせようと、没落貴族の娘を娼婦に仕立て上げてバダッシュの元に送り込んだ。
 紆余曲折を経て彼女は、皇帝とバダッシュとレクトリトアードの娼婦となった。
― 高級娼婦ってやつかい ―
― 親や兄がドロテアを諦めさせるために選んだ相手で、とにかくドロテアに似たようなのを探したから、気の強い女でな、仕事中に娼婦遊びしたなんて知られたら、こっちが捨てられる ―

 “また、おいでよ” 女主のその言葉にバダッシュは笑顔で頷いて、その場を後にした。

 ドロテアは唐突にバダッシュに真実を語る。
「ランドはセツの偽名だ」
「俺にばらして良いのかよ?」
「気にするな。どうせランドの正体は今日此処で明かされるんだ」
「ランドの正体?」
 バダッシュはドロテアの瞳の中に今までに無いものを見つけた。
 それは優しさなどではなく、今まで以上の誰にも近付くことを許さないような “強さ” 
 何かを見つけて進むことを決めたドロテアの強い意志がそこにあった。
 バダッシュはこの “強さ” を含んだ眼差しに似たようなものを見たことが過去にあった。王学府の卒業式の時の《決断》を秘めた眼差しに良く似ていた。あの時の瞳は、皇帝の妃になる決断だとバダッシュは思っていたがそれは勘違いであったことを知る。
 あの時の眼差しは《皇帝との決別》それに良く似たこの雰囲気に《皇帝》を感じることは出来たが、それ以上のことをうかがい知ることはできなかった。
「そう、ランドの正体」
「何だよ、それ」
「お前もよく知っている名前だ……はんっ!」
「どうした、ドロテア?」
「ん? 同じことをなぞりながらも進む先は違うんだなって思ってな」
 ドロテアはパーパピルスで「ヴァルツァー家の主筋の一族に会ったことがある」とレクトリトアードに語ったことを思い出した。
 そして今、ヴァルツァー家の主筋の一族に「レクトリトアードの一族に会ったことがある」と語っている自分を、客観的に見る。同じことを繰り返していながら、同じことは繰り返していない。
「どういう意味だ?」
「解らなくていい。解ったら、この輪から抜けられなくなっちまう。ちょっと法王に会ってくる、待ってろ」
 ドロテアはバダッシュをその場に残し、アレクスに会いに向かった。
 一人セツの部屋に残ったバダッシュは、風にはためく布の音を聞きながら何を考えることもなくドロテアが戻ってくるのを待った。


「お前、どこかに “行ってしまう” んだろうなあ。付いていけないのが残念だけど、連れて行ってくれないもんなあ……」
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