ビルトニアの女
伝説の大寵妃再び【10】
 船は港に係留し、酔って足元がおぼつかないエルストを肩に抱えたドロテアは、人気のない方向に向って進んだ。
 別に何かをしようというのではなく、酔いが醒めるまでエスルトを放置しておく為。顔が真っ青なこの状態で人ごみの中を歩かせれば、悲惨な事態が起こる事は想像に難くない。
 人気のない場所にエルストを座らせて、近くの家に水を買いにヒルダを走らせる。
 しばらく木陰で、その水を飲みながら緑の香りと、潮騒を聞き、眠気に襲われかけていると、ハイロニアの王ハミルカルがやってきた。
 ハミルカルに、船を借りた事としばらくはリヴァスも機嫌が良いだろうという事を告げる。ハミルカルからはアムルシアは処刑した事を告げられ、ドロテアはただ頷く。
 その少しだけ重い空気が、一瞬にして消え去った。突如聞こえるその声。
「ドロテーア!」
 レシテイだ。
「勝手に人の名前を別呼びするな、ボケ」
 召喚してもいないのに召喚者のところに来たソイツは、とても嬉しそうにドロテアの名前を適当に叫びながら駆け寄ってきた、海から。どうやら海上を走ってきたようである。おそらく、ハイロニア人も始めて目の当たりにする光景だろう。
 あまり見たくは無い光景ではあろうが。
 勢い良く、陸地にいるドロテアの前に現れたそれに、
「何だ、アレ」
 ハイロニア王は、当然の疑問を口にした。口にしてみたものの、返ってきた答えはヒルダの、
「えっと、神様見習い中の人です」
 滅茶苦茶な説明だけ。人がどこかで見習いをすれば神になれそうな表現。ただ、
「へえ……」
「どうしたんですか、ハミルカルさん」
 ハミルカルは、それに何かを感じ取った。力だけならば、黙って向かい合っているだけで眩暈を覚える程のそれに。
 なまじ魔力のあるハミルカルは、その能力からレシテイを長時間、凝視する事はできなかった。
「いや、何か似ているなと一瞬な……そうだ、ドロテアの夫なんだよな、エルストは」
 おそらく長時間凝視できれば、レシテイが何に似ているかを感じ取る事ができたであろう。正確にはレシテイ『に』似ている誰か。
 視線を逸らし、その恐ろしいまでの力を感じないように壁を作って、桶の水を手で掬い飲んでいるエルストに、頭上から声をかける。
「そうですが」
 威圧的、むしろあからさまに喧嘩を売っているがエルストには堪えない。
「好きな女の男を見るハメになるとは」
 その程度の事で堪えているようでは、ドロテアの夫は務まる訳もない。
「いいじゃないですか、同じ夫として」
「知ってるのか」
 ハイロニア群島王国には“海の女王”という称号がある。
 ハイロニア群島王の妻、世間的には王妃と言われるのは“陸の女”で、王国が設立してから他国の王女を娶る為に、そして自国の王女を他国に嫁がせる為に陸に建てた宮殿に住むだけの存在とされる。
 だが海の女王は違う。
 海の女王は海賊王と並び立つ存在である。それは妻とも言われ、共同統治者とも言われ、盟友とも言われる国王にとってかけがえの無い存在。最近はただ気に入った女を添える事が多くなった地位だが、ハミルカルの海の女王は地上最強と言われる女・ドロテア。
 ドロテアがハミルカルの海の女王となったのは、まだ十七歳の頃で、現在のような最凶の呼び声が高かったわけではない。皇帝の寵妃として有名であった頃ではあったが。
 書類上はドロテアは誰とも結婚していないが、ハミルカルにとっては王妃以上の地位がある妻。ただ、ハミルカルにとってそうであったとしても、ドロテアが結婚しないでいる筋合いは無い。
「それはまあ。隠し事するような女じゃありませんからね」
「それはどうかな? お前は鋭い男だってヤロスラフが言ってた」
「ヤロスラフが嘘言ったんでしょう。最近はすっかりと軽くなりましたからねヤロスラフは。もっとも俺は、軽いヤロスラフしか知りませんけど」

 真っ青な顔ながらハミルカルを見上げるエルストの表情は、何時と全く変わる事はなかった。

 そんな二人の遣り取りの傍で、嬉しさで言葉に詰まっていたレシテイが、やっと話始める。
「嬉しいぞ、ドロテア! 聞いてくれドローテア!」
 海上を走ってきたソイツは、嬉しそうな声を上げ語る。
「何がだ?」
 あの斑模様の見た目に、少しも怯む事なくドロテアは聞き返した。
 聞かれるのを待っていたらしく、声がかぶさるかのようにレシテイは勢い良く語りだした。
「シャフィニイが今度一緒に遊びに行こうといってくれた! 言った通りだよドロテア! 凄いぞドロテア!」
 何処に遊びに行くのか? など聞いても仕方ない事をドロテアは聞かない。図らずも進展してしまったレシテイの恋物語に、厳しく五寸釘を叩きつける。勿論叩きつける “モノ” は己の拳だ。
「俺の名前、連呼しなくていいからよ。まあ、急いては事を仕損じるだ。少し誘われたくらいでいい気になると負けだ、相手から誘いが来るまで、グッと我慢だわかるな」
 自分よりも大柄な神の襟首を掴んで、顔を近づけ威嚇する。その言葉は、
「おお! 聞いてなかったらやっちゃう所だったよ。それであんまりにも嬉しいから教えて帰ろうと思って」
 どうやら無駄ではなかったようだ。
「教えるって何だ?」
 ナニをやっちゃう所だったのか聞くのもバカらしいので流していた、そして教えていこうとした事も大した事はないだろうと……思ったのだが、
「あのな、ドルタを捕まえたヤツ、知ってる」
 その発言はあまりにも大きい。
「お前、知ってるのか!」
 最高の精霊神自身すら知らない相手を知っている……神には見えなかったはずの相手が “コイツには見えた” そのドロテアの驚きなど全く意に介さずに、レシテイは喋り続ける
「イングヴァールって言ってな、五百年近く前にこの世界の暗黒時代を引き起こしたのもソ・イ・ツ。今また世界を支配しようとしているのも同一人物。魔帝って名乗ってるんだが、ソイツが一万二千年くらい前にドルタとエルシナとフェイトナを、あのシャレンダーに閉じ込めて、魔物を量産しているんだ。それでな、魔帝イングヴァールはシュスラ=トルトリアが建てた国の辺りに自分で創った空間を落す気らしいぞぉ!」
「なんだって?」
 ベラベラと流れるように語るのだが、その内容は誰も知らない事ばかり。語っている相手は、深刻さの欠片もなく喋り続ける。
「あそこから追い返したんだよ、あの三人は。あそこにあった棺にはそういう機能が備わってるのさ、死の三角形サ! ま、そういうわけで、また何かあったら俺とシャフィニイ、ロインとかハルタスとかも一緒に呼び出してね! いいトコ見せるから! それじゃあ――!」
 それだけ言うと、レシテイは再び海に向って走っていった。海上を走るそれが見えなくなるまで、見送りたくなくとも五人は見送る。
 “嗚呼、ハイロニアに怪談話が増えるな……” そんなやるせない気持ちで。怪談の元がアレでは怪談すら浮かばれないだろう。
 その後に訪れた静寂と、波音、そして
「言うだけ言って立去っていったな……」
 激しい虚脱感。
 僅かながら南国の波音を聞いた後、ドロテアは空を掴んだ状態となっていた手を握り締め、
「普通はもっと最後までこういうセリフは引き伸ばすもんだろ。もったいぶって “自分達の力で探せ、ヒントだけは与えよう” みてえな下らねぇし、詰まらねえムダ極まりない引き伸ばしするモンだろ、神ってのは! 神ってヤツは時は金なりって言葉は知らないから、平気でそういう事しやがるのが神であって! アイツみたいに、ベラベラ最後まで喋るのは神じゃねえだろが!」
 世間一般の神とは似ても似つかない神に、怒りを露わにした。だが、鬱陶しいまでに核心部分を喋らない神が相手だとしたら、
「引き伸ばしたら怒るだろ、ドロテア? むしろ無視するだろうが」
 白い砂を蹴り上げるドロテアに、エルストが声をかける。そんな事をされたら、ドロテアが完全に無視してしまうのは、想像に固くない。
「まあな。だが、アイツ神になるなら苛立つ駆け引きとか、下らない引き伸ばしの謎かけの方法とか “数々の試練を自らの力で乗り越えていけ!” とか、“未来はお前達の手に” なんて偉そうに上の目線から言って、十回に一回くらい気に入った奴だけが制覇できる試練を設置するとか、色々な自作自演方法でも教えてやらなきゃならねえな」
 神の試練もドロテアにかかれば「自作自演」でしかない。
「いや、止めておいた方がいいと思うぞ」
 ドロテアがそんな事を教えレシテイが実践したなら、誰一人どころか、多分どんな神でも突破できない試練になってしまうに違いない。
 一頻り神の自作自演行為に文句をつけた後、マリアとヒルダに荷物を纏めて港まで運ばせてくれと頼んで、ドロテアは海に向き直った。煙草の端を噛んで、火をつけないで水平線を眺める。
「それにしてもイングヴァールだって……厄介な」
「誰なのか知ってるの? ドロテア」
「確証はないが、昔聞いた名だ。それで間違いねぇ筈だ」

間違いなく、あのイングヴァールだ
そうでなければドルタもエルシナもフェイトナも捕らえられるはずがない
そしてシャフィニイが捕まらなかった理由も朧げながら解かる

 桶を返却し港へと向う途中、ドロテアはふと横に立っている「エルスト」を見上げ、得心がいった。

『レシテイ? レシテイ……レシテイって……そうか、ああ、そういう事かよ。確率で行けばありえる』
レシテイだ、レシテイがシャフィニイの側にいるからイングヴァールは警戒した

**********

 フェールセン人ってのは『生きた人名事典』だった訳か、それも滅亡するための

 船上で、定例となった船酔いに苛まれているエルストに、声をかける。
「エルスト。レシテイはどうやら元は人間……でもないが、俺達と同じ世界で刻を刻んで生きてきたヤツだ」
「どうして?」
「レシテイのヤツ“一万二千年前くらい” “五百年近く前”ってはっきりと“年代”を口にしやがった。神なら俺達と同じ歳月の換算はしない、神の世界が俺達の暦である必要はなく、それを計る必要もない。だが、レシテイは知ってやがった。あいつ発言は “この世界の時間換算をその身で経験している” そうである以上、純粋な神なはずがない」
 神には「時間」なる概念はあっても我々が生活する「時間」「年数」などの概念はない。時の流れが全く違うのだから当然だ。それなのに、レシテイははっきりとドロテアが知っている歴史と同じ年数を口にした。
「元は人間……一万二千年以上前の人って……普通はそれほど長生きしないから、やっぱりアレ? 道理で簡単に家に入ってきた訳だ」
 神ですら侵入できないその家に、彼は簡単に入ってきた。
「そうなる。一万二千年以上前に此処に居た、神をも凌いだフェールセン。そして濁音のない四文字名、それを踏襲し続けた無抵抗でありながら皇帝の居城側を離れないフェールセン人。歴史上何度か滅びる可能性はあった……恐らくは、不明とされている1103年前の皇代の終焉理由はこれだろう」

三人の “人間” が「その名」を皇帝に告げた時

 告げ方の指定もなにもない。
 ただ、皇帝の耳に三人の人間が「その名を告げた」時点で終わりだと。
「1103年前にルーラッハは “それ” を三人から聞かされて解体したと考えるのが妥当だ」
 頑ななまでに濁音のない四文字名に拘った「皇帝の召使」達。
「三人の召使がフェールセン人で “同名” であればそれは起こり得る、確率的に考えても。ただ、残された力を前に解体しきる力がなかった為に」
 それは『初代と“知って”明確な意志のもとで告げられた』のではなく、『ただ、確率的な結果によって告げられてしまった』ただけで解体してしまった為に、1103年も続いてしまったのではないだろうか?
「三人だったよな? 俺とドロテアとあと一人か」
 三人の人間がそれを皇帝に告げれば、皇統は滅びる。『それ』をドロテアも探っていた、そしてあまりにもあっさりと辿り着いた。
「そう、三人。言うタイミングはお前に任せる、エルスト」
 濁音のない四文字名。
 1103年前は『偶然』だったに違いない。だが今度は違う。
「後一人、誰に教えるかはお任せする」
 今度皇帝に『告げる』三人は、はっきりとその意味をわかって告げる。
「ああ。ルーラッハと言えば愚か者を意味すると言われていたが、その通りってのが。1103年早かったらしいぞ、愚か者め……それとも一度解体して千年以上かけて止めを刺すってのがシナリオだったのか? 四文字名の皇帝さんよ……お前がそんなシナリオを作ったようには到底思えないが、真実は解からないが予言通りに幕を下ろしてやる」
 その名を告げれば滅びると知りながら、三人は告げる。
「何にせよ、もう少し待たせても良いのかもしれないな」

もう少し生きてもらうぞ、オーヴァート。お前が死ぬまで生かしておくのに変更だ

**********

 帰りも送ると言われたのだが、ドロテアは拒否し、定期船で大陸に戻る事にした。
 来る時は、仕方なく『昔の男』の船を利用しただけであって、出来る事なら必要以上ハミルカルと接するつもりはドロテアにはなかった。
 ハミルカルの方には有るようだが、それを汲んでやる必要など何処にもない。
「エルセンの首都行きなら直に出るぞ」
 一番直ぐ出港するのが、エルセン王国の首都行き。“首都行きでなきゃいいのによ” と、表情に出しはしたがその船に乗る事を決めた。
「……仕方ねえな、それに乗っていくか」
 エルセンの首都に間違いなくいる人物と確執があるドロテアとしては避けたかったが、此処で長い事ハミルカルやファルケスと会話をするつもりもない。
 どちらを選ぶか? を考えれば、確執のある相手と会わないで即座に帰路に着いたほうがマシだと判断を下し、ハミルカルに背を向けて手を振る。
「またな、ドロテア」
 振られた手に向かい、別れの言葉を告げた男。
 その未練を断ち切るように、
「会いたかねえよ、ハミルカル」
 それだけ言うとドロテアは、鳴く砂の上を歩き港へと向かった。
 一度たりとも振り返らず、逃げるような速度でもなければ、名残惜しさを残す足音でもない。何時もと変わらないその足取りで、振り返るなどという事を知らないように去ってゆく女を、王は見送った。
「お前が見送りにいってこい、ファルケス。……説得はしなくていい」
「いいのですか?」
「昔見送った時の背中には、まだ余地があった。だが、もうそれもない。皇帝の寵妃だった頃の方が落しやすかったってのも、あいつらしい」
 誰よりもドロテアを感じ取れる王は、最早無理である事を理解した。
 三人が荷物を運び終え、搭乗口で手を振ってドロテアを呼ぶ。
「じゃあ、行くか。あばよ、ファルケス」
 後を付いてきたファルケスにも、一度たりとも振り返らないドロテアに、
「強情だな」
 苦笑いをしながら彼は返す。
 特に面白くもなさそうに、
「当然だろう、世界で最も楽で豪奢な生活を捨てた女だぜ、俺は。ま、セツによろしくな。何かあったら前回の倍額で気が向いたら助けてやるって、伝えておけ。それと、せめてお前くらいは女房と仲良くな。ハミルカルの野郎は無理だろうからよ」
「そこまで解ってるなら、残れよ」
「嫌だね」
「強情な女だ」
「お前に言われる筋合いかよ、大僧正様」
 ドロテア達が乗った船が、出港すると同時に海が光の反射とは違う輝きを放ち始めた。
 よほど珍しいのか、船員達も海を覗き込み指をさして大声で叫ぶ。そこには、海を埋め尽くすかのような、
「ベホルアマルデシャーか」
 海蛇の大群。
「うわぁ! 凄い圧巻ですね、こんなに蛇がいると。ポムロム君何処でしょうね」
 ヒルダが落ちかねない程に身を乗り出し水面を見つめ、
「解るか……そんなもん」
 ドロテアはヤレヤレと言った風に、答えてヒルダの僧衣を掴む。
 音も立てずに船の後を泳ぎ続ける海蛇達。
「速いのね、この海蛇泳ぐの」
「俺も、こんな大群を見るのは始めてだ。ベホルアマルデシャーは海の女王の涙から生まれるっていう伝説があんだけどよ。どれだけ泣いた事やら。それとも泣かされたのやら、どっちにしても大量だな」
 バカにしたように笑いながら、空いている手で煙草を寄越すようにエルストに指示をだす。
「本当に女の涙は良く色々な物に変化するわね。処女の涙は蒼い雪で、海の女王の涙は海蛇って」
 煙草の端を噛みながら、落下しかねないほど海を覗いているヒルダを引く。
「エルストに必要なのは、幸せな夢かもしれねえが……やれやれ、もう酔ったのかよ!」
 甲板から海を見ていたエルストは、早々に脱落。
 最早名人芸の域に到達している、船酔いだ。
「本当に慣れませんねえ、エルストさんも」
 船室に戻っていったエルストと、ドロテアを見送るように来た蛇たち。エルストに届ける水を食堂に貰いに行ったヒルダとマリアに手をふり、まだついてきているその蛇達をドロテアは見下ろす。懐から出した煙草ケースを開き、
「ったく……二度と会う事はないと思ってたんだが。ま、さすがにもう会う事はねえだろうよ……海の女王の涙たち」
 火をつけない煙草を一本、海に投げた。

ドロテアはハイロニア王の元に帰れと、海の女王は言葉にしないで告げた。

もうあの男に、二度と会うことはない。帰れ

 海路は荒れる事もなく、エルストは何時もの船酔いのまま、エルセン王国に到着。特に用事もないので荷物を持って、さっさとエルセン王国から出る予定だったドロテアだが、

「ボクと勝負だ! そしてボクの勇者証を返せ!」
「あぁ?」

 エド法国法王の予知夢が外れる事はなさそうだ。

第十一章 【伝説の大寵妃再び】完

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