ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【26】
 結局書類が纏まらないまま、ドロテアは出立する事にした。ドロテアが提出する分の書類は既にあがっていて、後は助手のような立場の学者達が書類を書き上げるのだが、未だ書きあがらないでいるのだ。痺れを切らしたのと、墓参りという当初の目的を果たしたのと、そろそろバザールも終わり、女性の立ち入る事が出来る場所が極端に少ないギュレネイスでは観る物がなくなって暇になるという事で、立去ることにした。因みに、チトーは余程エルストの『変貌』が怖かったのか、あの日以降表立って近寄ってくる事はなくなった。
「あの野郎は、女よりも男の方が怖いんだろうよ。当然って言ゃあ当然だがな、体力的もの男の方が上だから」
「ははは、本気になった俺よりドロテアの方がずっと怖いのにな」
「どうだか」
 そんな話をしながら、ドロテアは城の入り口を閉め手には自分が提出する分の書類を持っていた。マリアとヒルダはクルーゼと共に食料品の買出しなどに行っている。
「じゃあ、俺はこの書類おいてくるからマリア達と合流したら庁舎に迎えに来い」
「はい。それじゃあまあ、行きがけに人を叩きのめさないでくれよ」
「さあな!」
 もう二度と訪れることはないだろうギュレネイスの街中を歩いて、警備隊がつめている庁舎へとドロテアは辿り付いた。ガツガツと足音高く、女性が立ち入るのを禁じられている場所に入り、受付に
「クラウスを此処に連れてこい!」
 怒鳴りつけた。受付は、弾かれたように立ち上がりそして転がって、今度は飛び上がってクラウス隊長を呼びに駆け出した。勿論、クラウスという名前の警備隊員は多数いるが、ドロテアが“クラウス!”と叫べば、クラウス=ヒューダ以外はいない事くらいは、理解している。
「俺は外の方で待ってるからな」
 そう言ってドロテアは庁舎を後にして、煙草に火をつけて燻らせていると、多数の足音が入り口付近まで鳴り響き、そこで止まって一人が歩み寄ってきた。クラウスである。
「お話でしたら応接室の方で」
 女性禁制の建物の中にご案内してくれると申し出てくるのは、ありがたいよりも面倒だとドロテアは手を振り
「そんな時間を取る気はない。よく聞け、俺が書かなきゃならネエ書類は全て出来上がったのにギュレネイスの学者共が上げる書類が出来あがらねえ、不慣れは理由にならねえのは解かるな!」
 持ってきた書類をクラウスに突きつける
「はい、申し訳ございません」
「俺は出発する。だからオマエが届けろ、クラウス」
「私がですか?」
「オマエが直接オーヴァートと会えるようにしてやる、この書類を提出すりゃあ直ぐに会える。オマエについてチトーが行くもよし、唯あくまでもオマエだけが会話する権利がある」
「なっ……」
「俺を誰だと思ってる、そしてお前は自分を何だと思ってる? お前はエルストの友達なんだろ」
「は……はい!」
 クラウスは突きつけられた書類の束を手にとって、頷いた。
「大体、そうやってオーヴァートに言えば話してくれるぜ。あれでオーヴァートのお気に入りだからな、まあ、気に入られている事は処刑場で知っただろうがよ」
「ええ……」
「それに一言言っておけば、俺はチトー親子は。アーハス殲滅戦以来嫌いでな。頼まれれば頼まれるほど嫌いになるってのが、俺の性格だ」
「……そうですか。ですが嫌われても仕方ないかもしれません」
「好きなやつの部下なんかになるなよ、特にオマエはな」
「はあ? ……?」

全く、嫌いなやつは解かっていても好きな相手はわからないとはな。まあ良いけどさ

「もう用事はねえ、戻れ」
 ドロテアがそういうと、クラウスは中にいた部下を呼びかなり厚い冊子のような紙の束を受け取った。ドロテアから渡された書類を小脇に挟むと
「あっ! あの!」
 まるで思春期の男が異性に始めて贈物をするかのような勢いでクラウスはドロテアに分厚い紙の束を差し出した。差し出されたそれを受け取って一番上を見る
「ゴンドウガウミゾウリムシの生態を纏めました! ランシェ司祭にお渡し下さい」
 クラウス、正式名称が言えるようになったらしい。
「あ? あぁ?」
 渡されたドロテアは人生で八番目くらいに驚いた。無理もないかつて愛人だった相手の言った、意味のない単語を反芻され、聞き返すにも聞き返しようのない書類を手に、迎えに来るだろう馬車を待つドロテア。その間に、その綺麗に綴られ見事な絵まで描かれた書類を捲り『ヒルダのヤツ、何を知りたかったんだろう……わざわざこんなに知りたかったのか? というか、ただどんな生き物か単純に知りたかったんじゃネェのか? ヒルダの事だから。普通、こんなに調べねぇだろ……名前と形くらいを教える為に本持ってきて“これです”とか言うもんじゃないのか? これがこの男の味なのか? エルスト、オマエの幼馴染にしてオマエに片想いしている男は色々な意味でヘンだぞ! 変人に慣れている俺が言うんだから……本当にヘンだ……。こんな男、俺はゴメンだぜ。オマエは本当に大した男だよ、エルスト……こんなのに惚れられるなんて。で、何でギュレネイス国内の分布地図まで? 見たことないぞそんなモン。作ったのか? ………………ハバ沼ってどこだ? マルモニア池? ロッポ山第二支流分岐点……そもそもロッポ山って?』
 世界の地理に強いドロテアが知らないローカル地名を書き綴った報告書。
 完全ヒモの亭主も、過去のせいで尋常じゃないほどの無口な闘技場無敗な男も、奇行と破滅の皇帝も受け入れたドロテアだが、この手の類の男は本心でダメだと、ゴンドウガウミゾウリムシの分布地図(ギュレネイス国内版のみ)を見ながら、笑いを押し殺すわけでもなく、笑っていた。声を出すほどではないので微笑で。
 その笑顔は、ドロテアの表層しか知らない人から見ればとても美しい、何時までも見ていたくなる、いつもその表情でいればいいのに、と思わせる表情。だが、見慣れた人が見れば人を殺すような雰囲気を兼ね備えた笑顔である事を瞬時に悟るだろう。

『パハラナイド食堂の水槽ってコレはギャグなのか? 笑うところなのか? ヒルダを笑わせる為にわざわざ設置したしたものなのか? ヒルダにこの手の笑いは無理だ、それを訂正すべきか? ドロテア=ヴィル=ランシェ! 一介の学生に戻って考えてみろ!』

 頭を抱えたいのを我慢して、ドロテアは読んだ。その理解しがたい報告書を。
「姉さん! 迎えにきましたよ!」
「ドロテア待ったか?」
 文字があれが読んでしまう自分の性質を、ドロテアはこの時ばかり相当恨んだ。自分で自分を恨む分には誰にも迷惑がかからないだろうと。到着した馬車に乗り込みながら、御者台に座っているヒルダに
「待ったってか……ほらよヒルダ! クラウスが手書きの絵までつけてくれたぞ」
 書類を投げつけて、乗りそして座って一言
「……ギュレネイスの高等学院って絵画とか図画とか解剖絵とか授業ないんだな。あったらクラウス主席とれなかっただろ」
 クラウスの手書きの絵。脇にサインが入っていたので間違いなくクラウスが描いたものだと解かるのだが
「確かにその手の授業はなかったな……見ちゃったんだ、クラウスの絵」
 主席というのは、殆どが“優秀”と“飛びぬけて優秀”で構成されていなければならない、学問も実技も……が、彼は間違いなく絵画の授業にあり、評価されたら間違いなく主席にはなれなかった。
「まあな、生態はゴンドウガウミゾウリムシだが、絵はどう贔屓目に見てやってもベホルアマルデシャー……人間一つくらい弱点があった方がいいだろうな」
『ベホルアマルデシャー』ドロテアが呟いた謎の何か。ただ、名称から全く違うものだということだけは推察される。
「クラウスの弱点は一つだけじゃないけどさ……絵、致命的にまずいだろ」
「ああ、本当に。一生絵描くなって言っておくべきだろ、エルスト」
「そんな事言ったら、ムキになって練習しそうだし」
「あれは練習とかいうレベルじゃない」

クラウス、どれだけ絵が下手なのだろうか? それとも芸術的過ぎて、普通の人には理解できない絵でも描いてしまうのだろうか? そして何故、それほどクラウスの絵が下手なことをエルストが知っているのか? 謎は謎のまま闇に葬るべきだろう。

**********

 バザールも終わり、何時も以上に金を稼いだ舞踏団も
「舞踏団の皆さんも今日出立ですか、私達も今日出立ですよ。気をつけてくださいね、魔物も多いですし」
 出発の準備に取り掛かっていた。通りかかったヒルダとマリアとクルーゼが、荷物を置いて話をしていた。
「おう、お前達も気つけてくれよ」
「大丈夫ですよ、姉さんがいますから」
「そりゃそうだけどな」
「あ! ヒルデガルド!」
「どうしました?」
「これ! えらいこの前までいたエドの枢機卿様に魔法かけてもらった、エルランシェに行くまで枯れないと思う!」
「水の花ですね。貰っていっていいのか?」
「ああ!」
「……大好きだったぜ!」
「……解かりました、ええ届けますよ。お二人からのプレゼントですって」
「また、何処かで会おうな!」
「会いましょ……そうだ! お二人さん! お友達になってください!」
 そう叫んだヒルダに二人は満面の笑みで応えた。故郷がなくなっていなければ、友達同士になっていたに違いない。各国を巡り戻ってきた時に知り合って、また巡りそして旅話をする。そんな出会いがあったはず。
「もちろんさ! ヒルダ!」
 その言葉を御者台の隣で聞いていたエルストが、寂しいが優しい眼差しで見ていた事をヒルダは知らない。

 あまりにも不確かだけれども、その言葉を口にするのは悪くない。

 遠ざかる舞踏団の馬車隊を見送る、最後尾でエルストに手を振るハイネルに軽く手を上げて答えた。

隣に越してきたゴールフェン人の少年と
処刑場の側に住んでいた少年と
妹を殺し、異国の舞踏団に入った男
随分とみな色々な人生を歩んでいるらしい
「俺もまあ、考えた事もないような人生を送ってるけれどな」
感慨深げにつぶやいた言葉に
「姉さんと結婚した事とか」
馬車に向かって歩いているヒルダが合いの手を入れる。ただ、二人が結婚したのはヒルダの勘違い、及び勝手に書類を作成した結果
「ヒルダに言われると……」
エルストがそう言うのも無理はない。馬車に戻り、荷物を積み込み終えて
「さてと、馬車出して庁舎にドロテアを迎えにいって出発しようか」
「待たせると、叱られるわよエルスト」
「叱られるの俺だけだからなあ」
「そうやって強く生きていくんですね!」
 馬車を走らせた。

**********

「辞職したのか」
私は悪法でも従うと、その時言った
「頑張って出世してくれよ、クラウス」
晴れやかな笑顔に、同僚を処断した私はどんな表情を向けたら良かったのか?

ハイネルは妹を殺して事を終えた
恋人がウィレムに使われ、処刑された男がいた
彼も警備隊だった
名前は……もう忘れたが……忘れた事にしている
彼は、ウィレムを殺害した
首の骨を折って
何故彼が、ウィレムの首の骨を折ったのか
それは、ウィレムは処刑されない事に決まったからだった
何人もの人を死地に追いやっておきながら
法の抜け道でウィレムは生き延びる事ができたのだ
兄が警備隊長であるというのも影響した
それを許せなかった男は、ウィレムの警備の夜
殺害した

悪いのはウィレムだ、だが

ウィレムを殺した彼は、犯罪者として処刑された
判断を下したのはクラウス
『悪法であっても、法は法だ』

終わることのない、愚かな連鎖よ

**********

 ドロテア達よりも先にギュレネイスを出国したクナは、無事に帰国を果たした。帰還報告をするために、まずは法王の側近にして自派の最高位にいるセツの元を訪れる。
「クナ、ただ今戻りました」
「無事で何よりだ、報告は後日でもよい。猊下が後で話しがあるそうだ」
「はい。最高枢機卿、少々お時間をいただきたいのですが」
 “とっとと、下がれ”と言われているのを知りながら、クナは食い下がった。クナがセツに対して自分から意思をぶつけたのは恐らくこの時が初めてだろう。
「何だ?」
 直に下がると思っていたクナの意外な言葉に、素気なく、本人は意識していないだろうが冷たく高圧的な声でセツは返した。その声だけでクナは怯みかけたが、それでも言いたい事を口にした。
「ホレイル王国に今回の残務処理を行わせた際の、取引条件は何で御座いましたか?」
「取引条件? そんなものは無い」
 莫迦にしたような口調でセツは言い返したが、次に発したクナの言葉を聴いてみた事のない態度をとった。
「必ずあるとドロテア卿が申しておりまして、必ず理由を聞くように言われて戻って参りました」
“ほお? あのセツが少し動いたのぉ。驚きじゃ、ドロテアの名がこれほど効くとは。この怖いもなど何一つ無さそうな男でも一目置くとは、さすがじゃのう”
 セツの頭の中で、ドロテアの思惑とその影響力(エド法国側にも当然、オーヴァート殴打事件は伝わっている)を加味して、口を開く事にした。それはセツにとって秘密なのではなく、クナに対して秘密にして欲しいという相手側の願いだった。
「……そうか。ホレイル側からの自発的な申し出だった。元々七割程度は負わせるつもりであったが、全負担すると向こう側からな」
 もちろん、願いだろうがセツは確りと確約したわけではない。そもそもセツは確約などする事はまずない、政治的な配慮から。
「はぁ? 我が国……いえ、ホレイル王国にそれ程の力があるはずが」
「そうだ。本来ならばもっと国力のある国の力を削がせる為に使うつもりだったが、ホレイル王国のベアトリス女王がどうしてもと言い出したのでな」
「卿の言った通り……」
「やはりあの女もそう言ったか。そしてその通りだ」
「理由を申しましたでしょうか?」
「考えてみろ。簡単にわかることだ」
「あっ! あの!」
 再びクナが発した言葉は、セツに届くことなく、壮麗で空虚な空間に一人取り残された。しばし呆然した後、法王に会うべくクナは正法衣に代え、急ぎ法王の待つ部屋へと向かう。その途中でも、胸の中に何かが残っていた。
 法王はクナを優しく出迎えると
「無事で何よりでした、クナ」
 ねぎらいの言葉をかける。クナはその言葉に、心の底から頭を下げつつ法王に対して報告を行った。忙しい法王に直接報告するとは思ってはいなかったクナだが、話をしている途中から、自分がギュレネイスで舞踏団などを呼んで息抜きをして楽しんだ記憶が蘇る。法王も広いとはいえ、限られた空間の中で退屈しているのだろうと、報告を手早く済ませ、法王にとって大恩のあるドロテア達の事を語った。
 予想通り、法王はクナの言葉にとても喜んでくれた。語っている最中は、クナはここに来る前の事を忘れていたが、語り終え一瞬の空白が現れた瞬間に、再びそのことを思い出し、意を決し法王にそのことを尋ねた。
 クナが法王に私用の話をするのもこの時が始めてであった。十年近く法王の傍にいながら、全く会話のない枢機卿と法王。
 クナの要点も何もない疑問だらけの話を、法王は黙って聞き続け、語り終えた後ゆっくりと口を開いた。
「女王は貴女の身の上を心配しているのではないか?」
「え……?」
 それはクナにとって、想像もしていなかった言葉であった。
「私はもう怒ってなどはいないのだが。ハーシルのせいで貴女が肩身の狭い思いをしているのではないか? 立場が悪くなってしまっているのではないか? 等と心配しているのではないのだろうか。良ければ今から連絡を入れて、私はもう赦していると伝えて、理解させて欲しい」
「は、はいっ!」
 そう言って、法王は通信を立ち上げて話をするように命じた。クナが立ち去った後、室内に入ってきたのは
「甘い国王だ」
 セツ。甘い国王というのは、クナの母親を指すのは明だか。
「そうだね……でも良いじゃないか」
「そうか? それで国が破綻したらお終いだ。あの女くらいの性質がなければ務まらんだろう」
「セツ、隣国の女王がドロテアさんでもいいの?」
「……言葉のあやだ、聞き流せ。隣国の女王があの女だったらと考えるとゾッとする」

**********

 正法衣から国王に会う際の法衣に着替えてホレイル王国からの連絡を待った。直に会えるとは思わなんだが……映像の向こう側に現れた女王は、私が記憶しているよりずっと
「女王」
 年を取って、優しそうであり、自分は良く似ていた。
「大変ではありませんでしたか?」
「何が?」
「イシリアの方まで出向かれたとの事で」
「はい。思いのほか楽しく過ごして参りました。今までで一番楽しかったかもしれませぬ」
「そうですか。ですが、何も枢機卿が行く程の事では」
「自分から希望しての事ですので」
「枢機卿であり王女でもある貴方がそのような事を」
「そうではなく、自分で考えた事です。ザンジバル派においての発言力を高める為にも必要であり、ホレイル王国にとっても必要なことですから」
「王国の事は考えずとも良い」
「?」
「枢機卿に懺悔しても宜しいでしょうか」
「はい」
「私は昔、娘を一人手放してしまいました」
「……」
「二人いたうちの一人を」
 それが妾である事は解る
「言い訳になるかもしれませんが、その理由は娘の痣にありました。私も良人も顔に痣のある娘もそうでない娘も同じように可愛かったのです。痣のない方が長女ゆえ、彼女は跡取りと決め幼いうちに婚約者をも決めました。それは我が家には良くある事です。跡取りである長女の婚約者になれなかった者が今度、痣のある娘を狙っていると知ったのです。それも痣のある娘に“お前が本当は長女で跡取りだったはずなのだが、痣があるために次女にされた”などと幼い娘に吹き込むように小間使いを買収したそうです。娘は何度かその言葉を聞かされたようでした、幼いから覚えてはいないでしょうがどこか記憶の底で覚えているかもしれません」

 妾はそんなことは覚えてはいないが……なかったとも言い切れない。何故ならば、大伯父が同じ事を妾に向かって言ったことがあるからだ。妾は嫌いながらも大伯父の言葉を心の内側で信用していた。それは……寂しかったからだが

「痣と次女である事、この二つが娘に良いようにならないと知った私は、娘を修道院に預けることにしました。勿論成長し、痣に対する誹謗中傷に耐えられる年齢になったなら、そのときは戻ってきてもらい良い男性と結婚させようと、修道院が良いのならば寂しいが娘の道。残念だがあきらめて聖職者としての道を歩んで心の平和を得てもらおうとも」

 妾が思い描いている親とは、女王とはあまりにも違う言葉。だが嘘を言っているようには見えぬ……母親から寂しいなどという言葉が出て驚いた

「私には聖職者の伯父がいました、私は伯父があまり好きではなく、法王になる為の手伝いなどする気もありませんでした。それで疎遠になっていたのですが、私の娘が修道院に預けられた事を聞き、娘を人質にして国に法王になる為の協力をしろと。私は良かれと思ってしたことが、結果的には娘を苦しめる事になってしまったのです。その後娘は、人並み以上の法力を持っており階級を上げ、いつの間にか枢機卿に」

 私は普通の人よりも法力はあるがそれほど優れてはいない……大伯父が位をあげた……だがそれは母親の威光と国の金か?

「そして伯父が猊下に暗殺未遂を働き、私の娘は孤立無援の状態に。私は連れ戻したかったのですが、悲しいことにそれも叶いませんでした。ですから、今度は国をあげて娘の身の安全と発言力を強めようと伯父の悪事の後始末をしたいと申し出ました。最高枢機卿は非常に渋りました、裏切り者を出した国にやらせたくはないと。でもどうしてもと」

妾はセツのことを嫌いではない。全く……同じ派なのだから……言ってくれれば良かろうて
あの男は誰にも本心を語らないのじゃろうなあ
そして誰も本心を見抜けぬのじゃろうな
猊下とドロテア卿以外……エルストはどうじゃろうな?

「セツ最高枢機卿は本当は国力の強い国にやらせたかったそうですよ。そして……ありがとう、もう忘れられているかと思っていましたよ妾のことなど。気にしなくてもいいですよ、この痣ももはや気にはなりませぬぞよ。妾の顔など痣があろうがなかろうが大した差はありませぬ。絶世の美女と圧巻の大寵妃とそれに似た美僧の前では、この顔でこの痣を厭うていた自分がばかばかしい」
 妾には猊下程の信頼もエルストほどの鋭さも、ドロテア卿のような考えも持っていない。妾がもう少しだけ鋭く、賢くそして信頼を得ていたならば……あの男も、最高枢機卿も楽なのかもしれんな……無理じゃがな。
「そんなことはありませぬよ。貴方は私にとっては最もかわいらしい娘ですから」

何故こんなにも泣きたくなるのだろう? 思慕か? それとも今まで親を曲解していた己の愚かさか?

 もっと前に会話すれば良かった。
 ああ、イシリアからホレイルに教徒を連れてゆく際、妾もついて行けば良かったなあ。
 話をするのが怖かった、ゆえに妾は「死せる子供たち」と同じように親元には一切顔を見せなんだ。よくよく考えずとも妾と彼らは違う。
「死せる子供たち」は親に売られた子もいたゆえにセツがあのように命じたのに……
 妾が幼い頃からもう少し強ければ、だが無意味な事じゃな。

必ず会いに行こう

 妾はセツに会いに法王の間へと向かった。セツはこの時間は必ず猊下の元を訪れておる、そこに妾も混ぜてもらう事にした、いつものようにトハとエギが室外に立っておる。お主らも枢機卿になったのに、と思いながら猊下に入室の許可をいただき足を踏み入れる。
 猊下とセツに休みを貰い、一度ホレイルに戻ることを願い出ると猊下は優しく、そしてゆっくりと休んでくるように穏やかに声をかけてくれた。次にセツじゃが、一言
「結婚したくなったら即座に言え。王族なんぞ婚姻の道具以外何物でもないからな」
 全く、敏い男じゃ。妾が親と何を話したかなど筒抜けなのかそれともお見通しなのか、どちらであっても構いはせぬが。残念ながら妾の王女としての身分に釣り合う男はそうはおらんのじゃ。昔、枢機卿の性別が判明しているときは王女も王子もよく枢機卿に嫁いだが、そう思えば性別が不詳なのは良いことやもしれぬ。王族や国がこの国に干渉してこない為に、最も妾が思いつくことなぞ、猊下もセツもとうに解っている事じゃろうが。
「今の所好きな男もおりませんよ。エルストのような男がいればのお」
「エルストか……」
「いい方ですものね」
「そう思われますか、猊下」
「ええ、私の憧れですから」

猊下が表情が全く見えないヴェールの下で微笑んだのが妾にも解かった。

 アレクスにとってエルストが『憧れ』という意味と、クナが考える『アレクスの憧れ』は全く違う。なにせ出発点になるべき性別自体が間違っているのだから。アレクスはドロテアと一緒に旅をしているエルストに憧れているのであって、エルストに憧れているわけではない。当然それをセツは知っているが、クナは知らない。何時も優しい法王の声がより一層優しく、そして切なくなったのをクナは聞き逃さなかった。
 切なくなったのは当然ながら『ドロテアに恋をしている』からであって、『エルストが好き』なわけではない。
 退出した二人の枢機卿が部屋に向かう途中にかわされた会話は、クナも知らないうちに『イヤガラセ』になっていた。仕掛けたのはドロテアだが。
 自分の体格の三倍以上もあるセツにクナが声を掛けた。
「うかうかしておると法王猊下を取られるぞよ、最高枢機卿」
「何の事だ」
 振り返りもしなければ、歩みも止めずクナとの距離がひらきつつあるセツにクナは楽しそうな声で続ける。
「綺麗な方なのじゃそうだな。エルストは美人受けするそうじゃから、気をつけ。それに妾は同じザンジバル派として最高枢機卿を応援するぞよ」
「何の応援……だ?」
 さすがに足を止めて、振り返る。ミルトやらヴェールやらで顔が隠れていたのが幸いしただろう、セツにとって。どうとっても情けない表情にはならない、険の厳しい顔立ちをしているセツの最大限にマヌケな表情。それは怒っているというか困っていると言うか、どうしようもない表情を浮かべながらクナの爆弾発言を
「初の法王と最高枢機卿という夫婦もよかろう。どちらに似ても法力は稀代のものになるだろうて。その際は是非とも妾に式を挙げさせてくれ。法王猊下似の姫がお生まれになったら大変じゃのお、可愛らしくて最高枢機卿も骨抜きになるじゃろうて。ドロテア卿も言っておったぞよ、最高枢機卿は猊下に対しては押しが甘いから発展しないのだと。お主ほどの男じゃ、頑張られよ」
 “ドロテア卿も言っていた”その言葉にセツは何かを飲み込んだ。飲み込む際に足を止めたのは、喉から出そうだった何かを飲み込むのに全神経を使った為に他ならない。
「……」
 足が止まったセツの隣をすり抜けて“楽しみじゃ、楽しみじゃ”と言いながら、とっとと部屋へと戻っていた。クナの足音が遠くなったあたりで、セツは気を取り直し、退出したばかりのアレクスのいる部屋へと戻る。勿論、法王庁の廊下を走ってはいけない。最も普通の人間は、衣装が重すぎて走ることなど出来ないのだが、セツは走ろうと思えば簡単に走れるが、我慢した。我慢して我慢して
「アレクス!」
 突如乱入してきた。大陸を探しても唯一人だろう、ドロテアに勝るとも劣らない怒気を含んだ声を上げることのできる男は建物を破壊せんばかりに叫ぶ。
「な、なに?」
 普通の人間ならば、怖ろしくて声も上げられないような怒気にアレクスは見事に反応を返した。さすが法王なのかそれとも恐怖感が摩滅しているのか、それとも皇帝の親戚だからなのか? どれであっても今、この状況下ではどうでも良い事に違いない。怒りまくったセツが
「追って空鏡を出せるか!」
 アレクスの両肩を握り締め、振りながら叫ぶ
「え、えっと……どうしたの? 誰を追うの? 落ち着いてよ! セツ!」
 普通の人間ならば肩も壊れんばかりの握力だが、体の造りも皇統で見た目よりちょっとは頑丈、骨折してもした傍から治せる力を持つアレクスは振り回されながらセツを必死に宥めようとして
「あの女ぁぁぁ! ただでは済ませんぞっ!」

法王庁をセツの地響きにも似た、否、地響き以上の地を這う怒号が支配した。

 怒号を聞いて宥めるのを止めた。セツが「あの女」というのはただ一人、ドロテアである。
 ドロテアが関係しているのだから、それ程深刻な問題でもなく(セツ自身としてはそうとう深刻な問題なのだが)一通り怒ればセツの気分も晴れるだろうと。因みにその怒る様をみて法王が『ドロテアさんと似てるんだよね、セツって』と思いはしたが口にはしなかった。それはとても良く似ていたからだ、アレクスはオーヴァート=フェールセンに向かって叫んでいるドロテアの姿とセツを重ね、優しい眼差しで見守り続けていた。

偉大なる法王・アレクサンドロスの名は伊達じゃない

『意外と大事なモンには手を出せない性質らしいぜ』−特にマリアとか
『あいつ美人好きだから』−特にマリアを気にいった辺り
『あれで女に意外と気使うんだぜ』−生き別れの妹とか
『意外と近親者好きな雰囲気があるな』−生き別れの妹とか
『法王は髪長いぜ』−男だけどな
『男なんかに仕えるような男じゃねえもんな』−でもアレクス男だけどな
『法王はエルスト気に入ってるぜ』−本人の本当の名だからな

確かに、間違った事は言っていないが故意に間違うように言葉を切って並べたのだった。
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