Sub Rosa − 秘密・1
―― 重要な話がある ――

 有無を言わせぬエーダリロクの言葉。
 巴旦杏の塔の閉鎖日時が決まってから、メーバリベユ侯爵は夫であるエーダリロクに直接そのように言われた。
 用事がないかぎり会いに来ることのない愛しい夫のから「休暇を取り、初めて出会った惑星へ行く」告げられたのだが、喜びはなかった。
 その表情はなにがしかの重大な決意を滲ませていたが、彼女には見当もつかなかった。
 日々皇后ロガのために働いていた彼女の休暇申請はすぐに下りる。
「エーダリロクとゆったりと過ごしてくるがよい」
 皇帝シュスタークは快く送り出してくれた。皇后が第二子を妊娠したのにも関わらず。
「ありがとうございます。陛下」
 メーバリベユ侯爵はいつになく重苦しい空気を吸い込みながら、エーダリロクと共に二人が初めて出会った惑星へと向かった。
 エーダリロクの祖父王の愛人の一人が住んでいた惑星。
 二人が出会ったころとほとんど変わらない、喧騒から遠ざかっている静かな場所。
 「話がある」と言い連れ出したのに、一切喋ろうとしないエーダリロクの意図が分からないまま、メーバリベユ侯爵は肩を並べて歩いた。
 道はやはりあの頃のままで舗装されてはいなかった。
 三股に分かれた道に差し掛かる。メーバリベユ侯爵が引き返す時に間違った道 ―― それはエーダリロクに出会うための道でもあった。


 ロヴィニアの王子に会いたくないと逃げだし道に迷い沼に”落とされた”あの日。


 あの時靴を脱いだメーバリベユ侯爵にとって果てないと思えた道であったが、いまの彼女には簡単に踏破することができた。
「懐かしいですわ」
 大貴族と王族が出会う場所とは考えられない濁った泥が渦巻く沼。
「落ちたことがか?」
 ずっと沈黙を貫いていたエーダリロクがメーバリベユ侯爵に答える。彼女の表情を横から窺い見るエーダリロクの表情は老成しているようにも見えた。
 それはエーダリロクの表情からは程遠く不釣り合い。
 メーバリベユ侯爵はしゃがみ地面に手をついて、沼をそっとのぞき込む。
「ええ。殿下は覚えていらっしゃらない……筈はありませんね。私、あの時靴を脱いでいました」
 ピンク色で少しヒールがあり、大人っぽく、まだ子供だった彼女の足には少し合わなかった。
「脱いでたな」
 可愛らしいフリルが付いた短めのソックスをはいていたこと、脱いだピンク色の靴を小さな手に持っていたことを、エーダリロクはしっかりと記憶している。
「あれ、本当の父からの最後のプレゼントだったんです。一生大事にするって、父の枕元で抱きしめながら誓いました。靴ですので一度は履いてやらねばと……殿下とお会いする際に履き、迷子になってしまい……靴が傷つくのが嫌で脱いだんです」
 リオンテに背を押されて、沼に転落するときに手放してしまったことも覚えていた。
「……」
 彼は王子で吝嗇ではあるが物に執着しない。
 多くの貴族もそうであろうと。
「落ちて殿下に助けられた時、自分が靴を持っていないことに気付いて悲しくて泣きそうだったのですが、殿下のお顔を拝見したら忘れてしまいました」
 メーバリベユ侯爵は沼に沈んだ靴を思い出し、今頃は亀や魚たちの巣になっているかもと想像する。それはそれで良かった。
「そうか」
 エーダリロクはメーバリベユ侯爵が座っている場所から離れ、泥の沼に身を沈めた。
「殿下!」
「待ってろ」
 メーバリベユ侯爵が覗いていた場所は、彼女があの日転落した場所から少しずれている。エーダリロクが沼に足を踏み入れた場所こそが、彼女が落ちた場所。
 泥の中に消えたエーダリロクは、すぐに戻って来た。小さなメーバリベユ侯爵の靴を持って。
 十五年以上泥の沼に沈んでいた靴だが、さすが貴族が最期と分かって愛娘のために作らせた品。
 少々の色褪せはあるが、ピンク色をたしかに残し、縁を飾っていた宝石類は一つも剥落していない。泥の沼を泳ぎ、なにごともなかったかのように上がってきたエーダリロクは、彼女にその靴を差し出した。
「大事なんだろ?」
「……はい」
「もっと前に言えよ」
 泥まみれになった王子は、あの日彼女が出会った王子と何ら変わらない。
「いままで忘れておりましたから。本当にありがとうございます」
 両手で靴を受け取ったメーバリベユ侯爵は、服が汚れるのも厭わずに抱きしめる。
 目に涙が浮かぶ彼女の左手首を掴み、エーダリロクは歩き出した。あの時二人が遊んだ森の中を歩き回り、断りも入れずに腰を抱き跳び上がる。
 人を抱いて枝を移動しても、相手を傷つけることなく。
「お上手になられましたね」
「ああ」
 木々の隙間から見える空と陽の輝きを、エーダリロクの銀髪越しに眺めた。
 エーダリロクが自分になにを言おうとしているのか? メーバリベユ侯爵はやはり分からなかった。
 そのまま二人は別れた邸へ。
 邸は人の気配はなく、
「召使いは置いてない。生活に必要な品は運び込んでるから……まず体洗うか」
 二人は別々の浴室で泥を洗い流す。
 ほぼ同時に入浴したものの、女性であるメーバリベユ侯爵のほうがエーダリロクよりも入浴時間がかかり、上がってきた時、エーダリロクが濡れたままの鎖骨まである髪を無造作に高い位置に結い上げ、仄暗い部屋で食事をつくっていた。
「飯できたぜ。っても、具材混ぜるだけのヤツだけどな。座って待っててくれ」
 銀色の縁取りがされたアイボリーのテーブルクロスがかかっているテーブル。その両脇に蝋燭が二本置かれ炎が灯されていた。
 室内の明かりはその二つだけ。
「ありがとうございます」
 勧められるままにテーブルにつき、飾りのない空色の、シンプルな丸皿に盛られた料理を並べてもらい、初めてのエーダリロクの手料理を彼女は口に運んだ。
「とても美味しいですわ」
「そりゃあ、よかった」
 食事が終わり皿をシンクに積み上げて、テーブルクロスを拭く。
 テーブルと料理を揺らめく炎で照らしていた蝋燭を消して、室内照明を最大にし、エーダリロクはテーブルの下に置いていた書類ケースから、ある事件の報告書を取り出してメーバリベユ侯爵の前へと押し出すように置いた。
「その書類を読め」

 それはメーバリベユ侯爵が初めて巻き込まれた僭主との争いの顛末 ――

 読めと言われたからには、何かがあるのであろうと彼女は必死に読む。
「これが特性だ」
 エーダリロクは彼女にもう一枚の書類を差し出した。

**********

 エーダリロクが《彼》と心の中で話しをしていると、目の前のコンクリートにヒビが入り、内側から割ってビーレウストがあらわれた。
「おはよー」
 コンクリートを投入したエーダリロクは全く悪びれずにビーレウストに声をかける。
「面白いコンクリートだな」
 声をかけられたほうも、全く気にせずに体についたコンクリートの破片を手で払いのける。顔も汚れているビーレウストに、濡れタオルを投げつけて説明を始める。
「おう開発中のやつ。これさ “俺達” の分解率が、あの溶解液並にあるんだよ」
「へえ……って俺、分解されるところだったのか?」
「死ななきゃ分解されねえよ。生きてるうちは分解されないところが、溶解液とは違うところ。それで、どうだった?」
「普通のコンクリートよりも不味い、ありえねえくらいに不味い。あまりの不味さに目覚ましたくらいだぜ」
 顔を拭いた後の唇を舌で味わうように舐めた後、本当に不味そうな表情を浮かべる。
「分解に味は必要ねえし」
「だけどよ、本当に不味いぜ。エーダリロク、お前も食ってみろよ!」
「不味いの知ってるって! うわっ! 口に突っ込むなよ!」
 ゲテモノ食いのリスカートーフォンをも怯ませた特製のコンクリート片を噛みながら、二人は何事もなかったかのように笑う。

**********

 メーバリベユ侯爵はエーダリロクが作ったコンクリートの特性を読み、報告書の最後のほうを読み直した。
「気づいた?」
 あの時ビーレウストはエーダリロクの頬を爪で抉り、コンクリート漬けになった。人間もそうだが、人造人間は人間以上に肉体の破片がすぐに死亡するようなことはない。超回復力を持たないとしても。
 抉られた頬から滴る血と傷口を、ハンカチを差し出しながらメーバリベユ侯爵はしっかりと見ている。
 だがビーレウストの爪の間には、コンクリートしか挟まっていなかった。まだ生きているはずのエーダリロクの肉片は何処へ消えたのか?
「分解されたのですね」
「そうだ」
 分解されたのだ。いいや、正確に言うならば分解させたのだ。帝王ザロナティオンに支配される体。それはビーレウストからの攻撃をかわすことはできる。なにより帝王は本来の体の持ち主ではないので、体を傷つけないよう注意を払う。
 エーダリロクは試したかったのだ。
「殿下……」
「俺は今は生きているけれど、当時は死んでいた」

 自分の肉体が生きているのか? 死んでいるのか?

 エーダリロクはシュスタークと同じだが、寿命は違い随分と長命であると ―― 予測されていた。
 人を疑うことを身上とするロヴィニアの王子である彼は、他者が測定した寿命を信用せず、自分自身で測定用の機械を作り自らを測定した。
 その時の数値を見て、彼は自分が予想通りの寿命を全うできないことに気付く。
 それは彼にしか分からない僅かな数値の誤差であった。そして自らの過去を遡り、自分と同じシュスタークが五十歳代で死ぬことを知り、自分が突然変異で死ぬことを確信するに至った。―― 彼エーダリロクが六歳の時である。
「殿下は天才だと思っておりましたが。本当に天才でいらっしゃいます」
「ああ。それで突然変異がいつ頃来るか? 予想した」
「それはもう、突然変異とは言わないのでは?」
「……言われてみりゃそうだな。それで俺が予想は二十歳。あんたに会う一年前だ」
 エーダリロクの自慢気な表情に、メーバリベユ侯爵は笑う。
「予想は当たったのですね」
「そうだ。その頃には試薬も作っていた。突然変異致死を抑える薬をな」
 自らの死に至る突然変異を的中させ、限られた時間でいままで誰も作ることができなかった薬すら作りあげ、
「効いたのですか。さすが殿下ですわ」
 自ら被検体となり、誰もなし得なかった成功を収めたのだ。
「効いた。だがな、完全には戻らなかった。俺の体は半分死んでいる状態になった。代謝が遅いとかじゃなくて、俺から離れると即座に死んでしまう。肉も血も骨も、そして精子も」
「……」
「手をこまねいていたわけじゃねえ。三年くらいかけて元に戻る薬を開発して投与した。二十六くらいの時には、子供が作れるくらいまで精子も回復しが、同時にまた突然変異致死の兆候が確認された。残念ながら薬は一度きりしか効かない。二度目は避けられない。それが分かっただけでも、儲けものだけどな」
「殿下でも二度効く薬を作ることができないということは、この帝国の誰も作ることができないということですわね」
「そうなるな」
 シンクに積み上げた皿から、同じく積み上げたフォークやナイフが落下して、やや大きめな音を上げた。
「次の突然変異致死はいつですか?」
 メーバリベユ侯爵は視線を落とすおとなく、声を震わせることもない。目に涙が浮かぶこともなく。
「十年後、三十九歳」
 自分が三十六歳で夫に先立たれることも受け入れた。
「なぜ今になって私に語られたのですか?」
「容態が安定したからだ。いまの俺は完全に生き返っている……だから、愛していると伝えたくて……」
「愛していると言っていただけたのは嬉しいのですが、殿下にしては語尾の切れが悪いですわ。続けて仰って下さい」
 エーダリロクが自分に言おうとしていることを理解しているが、彼女ははっきりと言ってくれと促す。その上で、否定するのだ。
「離婚するなら、全財産を慰謝料で渡す」
 激しい戦闘が続く帝国の軍人の妻になったのだ。夫に先立たれることくらい彼女にとっては覚悟の上。
「離婚はお断りします。ロヴィニア王家の全財産を渡すと言われてもお断りしますわ。ですからもう一度、言ってください。わたしのことを愛していると――」
 メーバリベユ侯爵の手を握ったエーダリロクは、
「愛している。言葉だけではなく、行動でも示させてくれ」
 やや力を込めて手を握り絞めて彼女の唇に触れた。
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