我が名は皇帝の勝利


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 誰もが私は陛下に対して『ラディスラーオ』という人物に対して『怒り』や『憎悪』という感情を抱いていると思っているようです。
 私にとってラディスラーオは顔も存在もない人でした、十五歳になるまでは。私は十五歳になるまでは、十歳の頃と同じような生活を送っていました。それ以上でもそれ以下でもない、代わり映えのしない生活です。そしてそれ以上もそれ以下も望まれていなかったのでしょう。
 十五歳になった時、私の中でラディスラーオは形となりました。月並みな言い表し方ではありますが、男性という形で。
 それまで私の中にあった漠然としたラディスラーオは、その時確かに人という姿となりました。その時初めて『暴力』や『横暴』という物の存在を知ったような気がします。その事がラニエに対する感情の根源となったとも思います。
 思えば私がラニエに対して抱いた怒りは、ラディスラーオに対して形とならない怒りだったのかもしれません。
 そうです夫が浮気した時、相手の女性に対しての怒りの方が大きいという、誰もが持つ女性特有の感情。私の目の前で起きなければ、私の側で起きなければ永遠に湧き上がることがなかった感情。
 それを醜いと片付けるのは簡単ですが、空虚に近い私にとってはそれも大事な感情の一つ。
 ラディスラーオの浮気相手が男性だったらどうしましょう……ふふ、そんな事を考えるのも此処から出て歩いた結果でしょうね。
 一族を殺害された悲しみなど何処にもなく、浮気したそれに憤る……私は嫌いではないのでしょう、ラディスラーオの事が。
それでも私の中にある“彼”は朧です、ですから“彼”の中にある私もまた朧なのでしょう。メセアは私の中で初対面からはっきりとしていたから……私は陛下と初対面の時……思い出すことができません。何の変哲もない、劇的でもない普通の出会いだったのでしょう。
 はっきりと物の解からなかった頃に出会ったラディスラーオに対して感情を抱けなかった、ですがメセアに初めて会った時には私は人に対して感情を抱く事を知っていた。思い出したのかも知れませんし、本当に知らなかったのかもしれません。
 けれども私は人に対して好意を抱けるようにはなった。
 あとはそれをラディスラーオに対して向ければ良いだけです。
「グラショウで御座います」
 言いつけ通りに来たグラショウを出迎えます。グラショウはダンドローバー公の言葉通り、一人でやってきました。顔を合わせないで済んだ……と言うべきでしょうね。
「待っていましたよ、グラショウ」
 もう、市民大学に通う事はないでしょう。
 エウにも良くしてもらいましたし、サリマとも仲良くなりました。サリマはそろそろ卒業して、就職活動をするのだそうです。幸せになってくれれば良い、自分の望む人生を送ってくれれば良いな、心からそう思います。
「皇后陛下。私の意見をお聞き願えますでしょうか?」
 グラショウは平伏してそう言いました。
「構いませんよ、言いなさい。何でも忌憚なく、私は貴方の意見を尊重しましょう」
「勿体無いお言葉」
 私は結局、何もしないでこの地位を手に入れた訳です。確かに望んだわけではありませんけれども、押し付けられた地位と言って逃げる事も出来ます、実際そういう気持ちでいたのでしょう。一度たりともこの地位の事を確りと考えた事はありません。
 今眼前で頭を下げている参事官のように、自力で何かをしたわけではないのです。
 私は座り、頭を下げたままの方が語りやすいというグラショウに、好きなよう語らせました。やはり彼は私が、ラニエの事をクラニスークの事を怒っていると。多分「怒っている」のが普通の感情であり、それに怒りを抱けない私は何処か足りないのでしょう。
 グラショウの前で私は重ねて自分に言い聞かせます。私は、一度たりともこの地位について考えた事はありません。
 それで良かったのか? 答えは“否”。私はもっと前にこの地位について考えるべきであったのです。
 私は皇后としてそれ相応の敬意と(払っているつもりですが)愛情をラディスラーオに向けるべきなのです、それが報われるか? と問われたはっきりと答えられます。

報われています。これ以上望む事が出来ないほど

 私の伯母にあたる国王以下全ての皇族が殺害された。
 無能であったのが大きな原因だったと、人々は言っていました。思えばそうでしょう、父エバーハルトに従っていたヴァルカがラディスラーオに従った。それは王国の窮状を憂いての事であったと、アーロンは私に語りました。
 彼は伯父であるヴァルカに心酔しているので、話を割り引いて聞いた方が良いと、ダンドローバー公もアグスティンも言いますが、それを引いたとしてもヴァルカが従う理由はそれしかありません。
 王国の未来を憂い、かつてエバーハルトという皇子に忠誠を誓ったヴァルカと、自らの上昇志向を満たしたかったラディスラーオ。その中心に丁度私がいたのです。
 皇族を殺害したあと、私を皇帝に就けて摂政の座に収まるべきだと意見した宮殿の知恵者なる者達をも殺害し、ラディスラーオは「皇帝陛下」となりました。
 そして敷かれた治世は、悪いものではないと皆が言います。
 人々がその治世で幸せを享受できるのならば、その治世を敷く為に“インバルトボルグという皇后”がラディスラーオにとって必要であるのなら、私は皇后である意味はあると思います。
 報われているというのは、人々が幸せである事です。私にはこのような治世を敷く事は不可能だと、市民大学で知りました。
 私にはこの王国を、隣接する三国から守りつつ安定させてゆく力はありません。私が人を幸せにする事が出来る唯一の手段、それがラディスラーオの“皇后”である事。別に悲愴な覚悟ある訳でも、自己犠牲に浸っているわけでもありません。
 統治する階級に生まれついた私は、どれかの手段で人々を統治するべきです。残念ながら私は殺害された他の皇族と同じで、全くその手の事には才能がありません。
 ですが、その才を持った男に手腕を揮わせる事が出来るのです、彼の皇后であれば。
 これ程に楽な事はないでしょう、そしてその楽に浸りきっていました。ですからこの先は、少しくらい苦労するべきでしょうね。
「グラショウ。面を上げなさい」
「皇后陛下」
「言った所で簡単に信じてもらえるとは思いませんが、私は陛下に対し怒ってなどおりません。最初の半年程はそれなりに怒っていたかもしれませんが。それはラニエも同様ですが、もう私の中ではそれらに関する事は全て解決されました。言葉を美しく飾れば、あの感情は全て昇華されています」
 嘘偽りのない感情です。これがそんなに簡単に信じてもらえるものではない事は解かります。
「勘違いはしないように。私は陛下の事を無視しているのでもありませんし、ラニエの存在を黙殺しているわけでもありませんよ。クラニスークをもあわせてその存在を認めているのです。陛下の指示の元、私の親族を全て殺害した事もそれらも全てです」
 私はずっと恨み言などを知らなかった。それはそれで良かったのかも知れませんけれど、それを理解できない人もいるのでしょう。
 ラディスラーオがどのように育ったのかは、細かい所までは知りません。
 アグスティンも知らないといいます。その言葉が正しいのかどうかは解かりませんが、第三者が語る事を避けたがるそれ相応の理由がある、それは私の知らない感情をラディスラーオが持っていると考えて間違いないでしょう。
 その感情がある以上、私はどれ程ラディスラーオの過去を聞いたとしても、理解は出来ないという事です。
 一族を殺害し恨むだろうと思いながらその娘を妻にする、位人臣だけでは満足できず主君を殺害する程の感情、それらの渦巻く感情を身の内に飼いながら生きる男の過去など、私は聞いた所で昔に読んでいた歴史物語よりも理解する事はできないでしょう。
「皇后陛下、許してくださる……いいえ、許してくださっていらっしゃったのですか?」
「ええ。それを許せるようになったのは、あの通路を使って外に出た事が原因です」
 例えあの通路が潰された所で、私はもう……大丈夫。
 そして私がする事は、あの通路を使って出会った人達の身に危害が及ばぬようにする事。もちろん、ダンドローバー公やリガルド、アーロンにアグスティンも含めて。

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