PASTORAL −168
− 挙式三日前 −

 ギリギリで宮殿に入ったエバカインは、皇帝陛下が御呼びだということで着替え、待っているという皇太子の宮へと向った。
 その頃、既に到着していた皇帝と、
「話がある。座るが良い皇太子」
 宮の主である皇太子が向かい合って座っていた。
「はい、陛下」
「余は配偶者を四人迎える」
 日々、忙しい皇帝は直接皇太子に会い、この会話をするのは初めてであった。
 遅過ぎるような気もするが、挙式に関し皇帝が直接告げることの方が珍しい。
「はい」
「皇太子の後ろ盾は皇帝であり、余はそれに対し、万全の体制を取る。だが、そなたの年齢の頃には、毎日のように接する大人が必要だ」
「はい」
「ザデフィリアが死ぬ前に “ザーデリアの養育を任せたい” と言った相手に任せる。異存はないな」
「勿論ございません」
「皇君エバカイン、良いな」
「はい」
 皇帝の一存で未来の皇帝の人格形成を任されたエバカイン。
 むしろエバカインに皇太子の人格形成を任せる皇帝のほうが問題のようでもあり、遺言でエバカインを指定した今は亡き皇后も問題だろう。
 だが皇后はエバカインの超天然ぶりを知らなかっただろうから仕方ないとしても、この一年楽しく隣で過ごしていた皇帝は、あの天然が娘の人格にどのような影響を及ぼすのか? 考えているのかどうか?
 それとも帝国の伝統、天然皇帝に仕立て上げるつもりなのか?
 謎は尽きないが、皇帝と皇太子の居る場所は程よく緊張が支配している。
 周囲を見回し、
「エバカインが来るまでもう少々時間がかかる様だ。ザーデリアよ」
 エバカインはまだ到着しないという合図を見て、皇帝は別の話を始める。
 何時かは語らねばならないと考えていた出来事。
「はい、陛下」
「余がそなたに皇位を譲る条件を話しておこう」
「陛下?」
「覚えておくが良い。余がそなたにこの地位を渡す時、今のリスカートーフォン公爵はおらぬ。あの男が死んでから位を譲る。そなたの能力ではあの男を制する事は不可能、故にあの男が生きている間は余が在位する。それともう一つ、オーランドリス伯爵が返上される事だ。ただ、あの二名殺すわけには行かぬ、帝国の為に生きて戦ってもらわねばならぬ。譲るまで、少々時間がかかるであろうから、何事もゆっくりと学ぶがよい。焦る必要はない、ザーデリアよ」
 娘の実力は父であるサフォントが誰よりも良く知っていた。
 悪い娘ではないが、ゼンガルセンと対抗する能力はない事、サフォントはこの九年間で見定めた。「九年」短いようではあるが、ゼンガルセンがシャタイアスを与えられたのは、彼が九歳の時。シャタイアスを得る為に、実母殺害を副王である叔母に申し出た八歳当時のゼンガルセンと、九歳の皇太子を比べれば全く相手にならない。
 此処から才能が伸びる事もあるかもしれないが、第三の反逆王と呼び声高いゼンガルセン以上に伸びると楽観視はしないのは皇帝としては当然のこと。
 それと、サフォントは退位し娘に位を譲るつもりであった。
 警戒を怠らず測定寿命を生き切る予定ではあるが、そうなればあまりにも長い在位となる。長い在位は帝国中枢を硬直化させ、臣民にも飽きが来ることをサフォントは理解していた。
 何より年老いた独裁者が明敏であった試しはない。デバラン侯爵をみてれば、何よりも良く解ること。
 自分がそうならないとは限らず、そうなった時に退位できない程権力に妄執を抱きしがみ付くようになっては、帝国の発展の妨げになる。帝国第一に考えるサフォントにとってそれは避けたいことであった。
「……はい」
「気にするなとは言わぬが、焦る必要はない。才能は生まれ持ったものであろうが、経験は如何様にも積める」
 サフォントは娘を “敵” とは比べるが、自分と比べようと思ったことはない。
 己が当時出来たことを娘が出来ない、それは個々の差であって優劣ではない。だが、ゼンガルセンやデルドライダハネと比べ、娘が劣っていると感じることはある。他者と比べるのは良くなかろうが、皇帝である以上「王」を従わせる力量がなくてはならない。
 サフォントは生まれつきの才能でそれを得たが、娘は人よりも努力せねばならない部分が往々にしてある。
「陛下」
 娘も皇帝にとっては “敵” ではあるが、そうであっても彼女に経験を積ませねばならない。それが皇帝としての責任である以上。
「讒言に惑わされるな。甘言誘われるな。己が思考に固執するな。自らの視界を狭めるな。足元を見ることを怠るな。理想を掲げることを忘れるな。余は皇帝とはこのようなものだと、自ら考えそれを実行しているまでのこと。完遂しているとは言いがたいが」
「陛下は完遂なされていると」
「そのような事はない。生涯そのような事はないであろう。所詮皇帝も精神面では “人間” と大差ない」


 サフォント帝は退位したら、大皇となり辺境へと赴くつもりであった。
 帝国の隅々まで見て周り、移民達の生活向上と暗黒時代の終結を目指し、精力的に活動するつもりでいた。
 その時、連れてゆくのはエバカインとも決めていた。


「お待たせして申し訳ございません! 陛下、皇太子殿下」
 帽子を片手で押さえ、大急ぎで走ってきたエバカインは二人に礼をする。
「座るが良いエバカイン」
「はい」
「急かせた様だな。紅茶を飲むが良い」
「では」
 温かい紅茶を出されたエバカインはそれを口に運ぶ。
 一息飲んで息をつき、もう一口それを飲もうとした時についにその時が訪れた。



「余の正配偶者たる皇君エバカインよ、皇太子ザーデリアの養育係を命じる」



「ぶほっ!」
 言われた本人の驚きようはなかった。
 ありえない程の驚きと混乱、そしてそれが事実だと知った後の状況。
 九歳の皇太子にして「可哀想な程に混乱していた」と言われる様相。
 あまりの衝撃に暴れ出したエバカインを近衛兵が取り押さえ、医療班の待つ部屋へと運び込んだ。
 それを見送った後、やっと皇太子は口を開く。
「大丈夫でしょうか? 皇君、鼻と口と目から紅茶を噴出しておりましたが。冷たいものならばまだしも、熱い紅茶を涙腺に通すなど」
 天然一族の若き皇太子は、確かにその血を受け継いでいた。熱かろうが冷たかろうが、目というか涙腺から紅茶を噴出させたら色々とマズイのだが、彼女の中では熱い紅茶というのが最も気になる所であった。
 そしてエバカインは彼女が語った通り、目と口と鼻から紅茶を噴出していた。噴出しながら椅子に座ったまま背中から倒れていった。
 サフォントが手を伸ばし倒れることはなかったが、その手を握ってくれた相手に目玉が溶けたかのような涙に見える紅茶を伝わせながら『こ、皇君って?』問い返したエバカインに、サフォントは『そなたは余の皇君であろう。まさか知らなかったのか?』そう言い切った。

 『本当に俺! 皇君なんすか!』

 サフォントは “カウタよ、驚きをありがとう。この驚きを結婚祝いとしてもらっておこうではないか。お前言うの忘れたな、カウタめ。全く……やりおるわ……” 即座に結論まで到達できたが、エバカインには無理。
 『真に皇君よ。三日後の挙式には余の隣に立つ。正式な配偶者ゼルデガラテア大公エバカイン、またの名を皇君エバカイン』
 そうはっきりと言われた後のエバカインの状況。半狂乱とはこのような事を指すのだろうと誰もが思うような状態。
 何時もはおとなしいエバカインが、泣き出し奇声を上げ、むやみに手足を振り回して暴れ出す。
 『俺はどこにいるのぉぉ! 俺を俺が探してきます! 俺がどこかにいる俺を見つけてきますからぁぁ! 逃げてぇぇ俺ぇぇぇ!』
 どこかへ向かって駆け出したかったエバカインだが、それは叶わないまま医療室へと運び込まれた。
 一連の嵐のような出来事が終了した後、皇太子は紅茶云々が不安になり、あのように口にした。
 その皇太子の不安を取り除くべく皇帝は言葉を紡ぐ。
「エバカインが紅茶にジャムを入れないで飲む者で良かったようだな。苺などの果肉が涙腺に詰まったら唯では済むまい」
 全く不安が取り除けなさそうな一言だが、
「そうですね」
 それで良いらしい。テーブルにある苺ジャムを見ながら、皇太子は頷いた。
 二人にとって、エバカインが紅茶を目から吹き出すことになった “事実” は何の問題でもないらしい。
「陛下、様子を見に行かれなくてよろしいのですか?」
「医師が治療に当たっておる、問題はあるまい」
 中庭で二人は椅子に座り、暫く鳴く鳥の声や空を行く雲の流れを、沈黙の中眺めていた。
「皇太子」
 それを破ったのはサフォント。
「はい」
 沈黙に浸っていた皇太子は、皇帝を見つめ返す。
「皇太子よ。リスカートーフォン公爵の人質となった時、恐怖を感じたか」
「いいえ」
 小さく首を振り、視線をカップに落とす。
 飲みそびれた冷たい紅茶が皇太子の顔を映していた。視線を上げない皇太子に、サフォントは微笑み言った。
「ならば言葉を変えよう。人質になって怖かったか? ライバロスト」
「…………」
「私は心配していたよ、ライバロスト。自分で行けと言っておきながらではあるが、心配していたよ、ライバロスト」

 突然の口調に顔を上げ “娘” は正直に答えた。

「…………怖かった……お父様……」
「良くやった」
 泣き出した娘の頭を撫でながら、サフォントは「最後の親子二人だけで過ごす時」を味わった。今までは母親のいない分、出来る限り時間を割き娘に接していたが、これからサフォントは后を迎え入れ、多数の子を作る。
 母が既に逝去しているザーデリアには実弟も実妹も与えてやることは出来ないし、娘にだけ割いていた時間を他の子達のためにも使わなくてはならない。
 泣き崩れた娘を抱きかかえて、優しくなだめるように背をたたきサフォントは目を閉じた。サフォント自身、娘に言いたい事は多数あったが何もいわなかった。
 父と娘最後の二人きりの時間は、小さな泣き声と共に過ぎていった。
 
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