私の名を呼ぶまで【26】

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私の名を呼ぶまで:第九話

 ヨアキムとエドゥアルドは他人同士である。
 同じ父親を持つ異母兄弟ではあるが、認識としては完全な他人。
 はっきりとしているはずだが、心情的には曖昧な関係。しっかりとした線が引かれているベニートのほうが二人とも接しやすくあった。仲の善し悪しはさておき――
「ベニート」
 ベニートは「ベニートとして」後宮へ向かう途中であった。
 彼の後宮には五名ほどの側室がいる。名の知れた貴族の娘などは入っておらず、行き場のない町娘を拾ってきて数だけをあわせていた。
 皇帝になる意志が低いことは周知の事実で、彼の両親も皇帝になることを望んでいないので、周囲は完全に好きなようにさせていた。
 それでも偶に足を運び、それなりのことはする。
「エドゥアルド」
「お前、ヨアキムの後宮に出入りしていたな」
「ああ、出入りしているよ」
「ヨアキムの側室について詳しいか?」
「詳しいという程ではないが、ヨアキムが通う数名の女性の名と顔くらいは知っている」
 ”側室リザ”のことを聞きたいのだろうと、笑いを飲み込みベニートは答える。
「リザという側室を知っているか?」
「知っているよ」
 性格が悪いな――そうは思えど、ではこの場で自分が”側室リザ”だと言ってエドゥアルドが信用するか? となれば、やはり会話を合わせて徐々に気持ちを遠ざけたほうが、良い結果をもたらすだろうと。
 もともと女装して夜会に参加しなければ良かったのだが、参加してしまった事実も、エドゥアルドと側室リザが出会ったことも変えられない。
「彼女が冷遇されていると聞いたが、本当か?」
「冷遇……はされていないと思うけれど。ヨアキムが月に三回から五回通っているのだから」
 どこからそんな話を聞いてきたのだろう? 噂話好きな侍女がヨアキムの後宮にいるのか? いるとしたら誰か? とベニートは記憶にある侍女たちの名と姿を思い出す。
「彼女には侍女が付いていないと聞いた。用事があると詰め所から侍女を借りていると」
「……あーそうらしいな」
 噂ではなく事実を告げただけと分かったものの、事実をエドゥアルドにとって「悪く良いように」ねじ曲げていることに、若干の疲労を覚えた。
「特定の侍女を持たず、苦労しているのではないか?」
「さあ……それ程苦労しているようには見えなかったが」
 実際侍女がいなくても、側室リザは困ってはいない。
 下働きに部屋を掃除させ、食堂で食事をして、頻繁に外出し、夜眠るためにやってくるヨアキムを、からかいながら出迎える。
「そんな筈はない!」
「エドゥアルドが私の言葉を信じないのはさておき、ヨアキムの側室を、どうしてそれ程気にする」
「私は彼女を側室にしたい」
 誤魔化すことなく、どもることもなく告げてきたエドゥアルドの視線に、少し罪悪感を覚えたベニートだが続く甘ったれた言葉を聞き、その気持ちは霧散した。
「ヨアキムは許可したのか?」
「断られた」
「だろうな。通っていない側室ならまだしも、通っている側室を寄越せというのは横暴だろう」
「お前にまで言われたくない!」
「誰に言われたんだ? エドゥアルド」
「父上に……父上が命じたら、ヨアキムも言うことを聞くかと」
 好きな女が欲しいから、父である皇帝に協力を仰ぐのは成人として褒められたものではない。
「もしもそれで側室が手に入ったとして、あとで事情を知られたら恥ずかしくないか? 知られたら側室に軽蔑されるかもしれないぞ」
「それは母上にも言われた!」
「あーだから私のところに来たのか」
 事態が面倒なことになった反面、楽しいなと考えてしまった自分に苦笑をしながら、
「じゃあその側室と話したらどうだ?」
「後宮まで押しかけてか?」
「そうなるだろうな。好きなものでも聞いて贈り物でもしたら、少しは興味を持ってくれるのではないか?」
 ベニートは側室リザが好むものを捜す。
 彼は化粧を施し、美しいドレスを着て楽しむことだけを考えていたので、女性らしい趣味や考え方は持っていなかった。
 だから側室リザは欲しいものがない。
「私は贈り物で女性の気持ちが手に入ると考えるような、馬鹿な男ではない!」
「……あ、そう……それは悪かったな。あーでも、彼女、あれ……パンプキンパイが好きだって言ってた」

 甘ったれだがまともに育っていることに心中で拍手し、かなり真剣に側室リザに好意を寄せていることに……やはり心中で拍手をした。拍手の音は同じだが、意味合いは随分と違う。

**********

 カレヴァは娘が幼い頃練習に使っていた剣を、先に眠りについているパウラの棺に入れて、ひっそりと埋葬することに決め、邸の使用人のほとんどを解雇した。
 そこまで人目を避けたのは、カレヴァ自身が懐いた疑念。娘ヘルミーナの死は、娘自らが招いたものではないかと。
 カレヴァが娘の遺体を返して欲しいとヨアキムに懇願したのは、娘のことを思う以上に、自分を納得させたかったのだ。
 内側から爆ぜた遺体でなければ、例えヨアキムが殺害したのだとしてもカレヴァは納得できた。だが確証となるべき遺体はなく、ヘルミーナが死んだとされる日、ヨアキムとベニートがバケツや石鹸を持って走り回っていたと証言もあった。
 お願いですから真実を――
 墓穴を掘り返し、妻の棺を開き遺体に誓おうとしたカレヴァは、ヨアキムが娘の死体と同じほど見せたくなかったものを見てしまった。
 十年以上も前に埋葬されたのに、朽ちていないパウラの遺体。
「旦那様」
 生前のパウラの姿を知っている執事が腰を抜かす。
 カレヴァは”まさか”と思い、パウラの冷たく固い死体に手を伸ばし、目蓋を開いた。
 そこには濁ってはいたが、まだ緑色の瞳が残っていた。

「パウラ、ヘルミーナ。済まん……ヨアキム殿下、申し訳ございません」

 ヨアキムが考えていた以上に、カレヴァは虫について知っていた。

**********

 ベニートはヨアキムの執務室の隅に積まれている、側室希望者の書類に目を通し、誰を入れるのかを選別する。
 時期皇帝の有力候補と言われているヨアキムだけあって、側室希望者は後を絶たない。とくにヘルミーナが居なくなってからは、突出した側室がいなくなったことと、心の隙間を埋めることでヨアキムに近づけるとばかりに書類が届けられる。
 ヨアキムにしてみれば皇帝夫妻の秘密は除外して考えても、第一皇子バルトロが神官の道に進みたいと希望し皇帝夫妻もそれに許可を与えており、第三皇子のエドゥアルドは政務が好きではなく、武芸に精を出してばかり。ベニートはいまにも貴族に戻りそうな生活態度を取っているので、なし崩し的に自分が最有力候補になっただけのことにしか思えなかった。
「エドゥアルドに協力を要請されたのだが」
 男同士の秘密の会話で噂に上ったことのある娘を選んでゆく。
「私は”側室リザはくれてやらない”ときっぱりエドゥアルドに断った。あとはお前がどうにかしろ、ベニート」
 ”側室リザはベニートだ”とはヨアキムも言えなかった。
 はっきりと言って、それでも欲しいと希望されたら、馬鹿な行動の片棒を担いだのだから、ヨアキムは皇后シュザンナに会わせる顔がない。
「はい。ところでエドゥアルドからリザは侍女がいないと言われて、そんな些細なことで目立つのは不本意なので、侍女を城下町から用意したいと思うのだが。いいか?」
「城にいる侍女から選ぶのではなくて?」
「ああ。城の侍女は真面目に侍女の仕事をしてくれるから、すぐに正体がばれてしまう」
「外部の者のほうが余計に正体に気付きそうだが」
「侍女として採用するが、採用条件は”侍女の仕事はしない”だ」
「どういうことだ?」
「他に仕事を持っている女性だ」
「そんな女性が雇われるのか?」
「貧乏だからな。それに、皇子さまに進言したいことがあると息巻いているから、後宮で働いてくれるだろう」
「なんだ、その女は」
「お針子だよ。私のドレスを作ってくれている女性。名はブレンダ」
 ベニートのドレスは沸いて出てきた物ではない。富んでいるものはともすれば忘れがちだが、作製している者は確実に存在している。 
「貧乏な針子な……お前が着ているドレスを見る分には、腕は良いようだが」
 最近王宮では見られなくなった八種の宝石を縫い付け、びっしりと刺繍を施し、大量のギャザーを寄せてたラージュ皇国伝統のドレス。
「職人気質で、自分が気に入った仕事しか引き受けないから貧乏なんだ」
「男のドレスしか作らんのか?」
「違う。ドレスシンプル主義に警鐘を鳴らす、伝統文化の担い手と言えばいいかな?」
「……面倒な女というわけか」

 ブレンダはヨアキムが想像していた以上に面倒であり、また想像もしていなかった程、情熱的であった。


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