私の名を呼ぶまで【24】

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私の名を呼ぶまで:第七話

 側室のラトカは皇帝マティアスに、皇帝以外の男性の子を孕んだことを告白し、当時彼女の侍女であった皇后シュザンナに自分の死体の処理を依頼し庭の「境」へと飛び込んだ。

 彼女が身籠もった経緯はいまだ分からず。本人はそれだけは言わなかった。

 身籠もったのが女児であればラトカは生き延びられたが、彼女が身籠もっていたのは男児で、彼女もろとも死することになった。
 残された皇帝マティアスは、まず四散した死体を前にして倒れたシュザンナを介抱する。薄暗がりの中で目を覚ましたシュザンナにマティアスは”あること”を頼んだ。
『シュザンナ。ラトカの死体を演じてくれ』
 四散した死体は不義の証。それが望んだものでなかろうが、外で誰かに心を奪われた真実の結果であろうが死は死である。
 ラトカの兄カレヴァに事実を突きつける勇気はなかった。なによりもマティアス本人も、愛した相手の惨い死を直視するのは耐え難く、できれば死を取り繕い、名誉を汚さずに送り出してやりたかった。

 シュザンナはマティアスの頼み聞き、死者を演じ棺に入った。

 必ず助けるとのマティアスの誓いだけを頼りに、シュザンナが入った棺はクニヒティラ家代々の墓へ埋葬されることになる。完全に埋葬してしまえばシュザンナは助からない。
 マティアスは二人の育ての親であり、修道院に入っていた祖母を葬儀のためと連れだし、拾い集めた遺体を見せて協力を仰いだ。
 カレヴァとラトカを育てた祖母は、四散した肉片を前にしても取り乱すこともなく、
『皇太子殿下、ラトカの名誉を守ってくださったことには感謝いたしますが、代理を立てたことは間違いです』
 マティアスの浅慮を指摘し、だが協力すると約束した。

「彼女はこうも言ったよ、ヨアキム。後宮の女に自由を与えるとは、このような出来事に遭遇する可能性が増えること。ラトカの意見は側面では正しいが、側面では間違っている。こうなることを予見していなかったのだとしたら、ラトカは愚かであった。こうなることを予見しており、それに遭遇してしまったのだとしたら、やはりラトカは愚かであった。心揺らいだ末であったとしても、己の改革を貫きとおした結果であれば本人も満足しているだろうから、気になさらぬようにとも」

 埋葬の際には親族は一人立ち会えばよく、その任を祖母が請け負い、マティアスが望んで同席する形となった。
 死者を演じ、棺に恐怖に震えながら横たわるシュザンナ。板一枚の上にかけられる土の音。それが徐々に鮮明さを失い、厚みを感じさせ、呼吸が苦しくなってゆく。
 シュザンナはマティアスを信じ耐えた。

「シュザンナはその時の恐怖を忘れられないと、今でも漏らすよ」
 皇后シュザンナは暗く狭いところには居られない。
「生き埋めの恐怖は私も想像できません」

 土を盛る途中で祖母が具合が悪いと下男たちに言い、自分を邸まで運ぶように命じて墓から遠ざる。
 その隙にマティアスはスコップを投げ下ろし、用意しておいた梯子をかけて墓穴へと降りて土を避けて棺を開き、死者同様の顔色になっていたシュザンナを助け出し木陰に座らせてから、またマティアスは墓穴に降りて棺を叩き付けるようにして泣いた。
 戻って来た下男たちは、マティアスが墓穴にいることに驚き、皇太子の慟哭が済むのを黙って待った。
 一休みして調子が戻った祖母が声をかけてマティアスは墓穴から出て、何事もなかったかのように埋葬は終わる。
 シュザンナは震えが収まってから、聞かされていたとおり祖母の部屋へと入り、生きている実感を求めることと、恐怖を払拭することに我を忘れてマティアスと結ばれた。

「バルトロを身籠もった」
 バルトロは皇后シュザンナの子でありながら、後宮の規則に照らしあわせると側室ですらない女が産んだ婚外子。
 婚外子である場合、その身分は低く、男児であれば後宮を与えられることはなく、女児であれば一生父親の後宮で生きてゆくことになる。
 マティアスはバルトロを正式な子にするために、急いで結婚した。よって事実を知る者は、当事者の二名だけ。

「シュザンナはこの事実をとても気にしている」
「だから、私を皇帝にと推すのですか?」

 ヨアキムはシュザンナが自分を皇帝に推す態度を、疎ましく感じていた。自分の息子ではなく、側室が産んだ子を推す姿勢は美しく取るものもあれば、裏を感じるものもある。
 ヨアキムは後者であった。
「それも確かにある。……私とシュザンナはこうして結婚し、無事にバルトロが正式な王子として生まれた。そしてバルトロが生まれて一年が過ぎた頃、私とシュザンナは不仲になった」

 マティアスとシュザンナは耐えられなくなった。

 ラトカの死の偽装、死に直面した恐怖を払拭するために肌を重ね、バルトロという結果を隠すための結婚。どれもこれもが偽りで、秘密を共有しているだけの関係。相手が自分のことをどう思っているのか? 問えるほどの余裕はなかった。
 余裕がなくなったシュザンナは夜を拒否し、マティアスは逃避の感情からアイシャに手を伸ばした。
 後宮にいる女性なので触れることは罪ではない。だがこれの行為でシュザンナが傷ついたら、彼女は自分を愛しているはずだと――
 シュザンナは傷ついたが、それ以上に傷ついたのはアイシャであった。
 マティアスも僅かばかり傷付きはしたが、それは自分が招いた結果。自分たちが秘密の共有以外の感情で結ばれていることを知り、マティアスはシュザンナの元へと戻るが、アイシャの腹には息子が残った。

 ヨアキム・ラージュ・ヴィクストレームである。

 ヨアキムには一切の罪はないが、マティアスはヨアキムを見ると、あの時の愚かな自分を思い出してしまう。
 シュザンナがマティアスを拒んだ時期にアイシャが身籠もったこと、関係を回復させてからは彼女の元へと足を向けなくなったことを知り、シュザンナはまたも苦悩した。

「私はアイシャをシュザンナ以上には扱えない」
「当然でしょう」
「……ところでヨアキム」
「はい」
「次の皇帝に立つ場合、側室ではなく正式な妃を迎える必要がある」
「存じております」
「どんな娘を迎えても構わないが……”爆ぜた”のを目撃した娘は、決して他の男性になびくことはない。もしも妃を誰にするのか悩んでいたら、選択条件に入れてみるといい。シュザンナも他の男を恐怖し、私や息子、ヨアキムとベニートにしか会わない。いまでもシュザンナは後宮で爆ぜたラトカを忘れられないでいる。あれは目撃した女性に対して、絶対の強制力を持つ。それは隷属といってもいい。まさに呪いだ」
「……」
「それと、ヨアキム」
「はい」
「ヘルミーナは本当に病死か? 遺体が見せられないからの行動ではないのか?」
 ヨアキムは表情を変えず首を振り否定する。
 もともと凍えるような容姿だが、その時の表情は完全に凍り付いていた。
「……なんにせよ、代役を立てる真似をしなかったのは賢いことだ」
 マティアスは納得はしていなかったが、それ以上の追求は避けた。
「陛下」
「どうした? ヨアキム」
「時間を下さい。いつか真実を陛下に詳らかにしたいと考えております」
 カレヴァが寄生卵を所持していることは、いずれは話さなければならないのだが、虫師の寄生卵がどのようなものなのか? それを寄生させた国や方法も調べているのだが手掛かりがなく、切欠すら掴むことができないでいた。これらのことを確証なく話すには危険過ぎると判断し、ヨアキムは胸に留めていた。
 いずれは娘ヘルミーナの死と共に明かにせねばと思えど、そうするのには何もかも足りなかった。本人に告げて死なれても困ることもあり、近くにおいて監視することが、いまのヨアキムにできる行動であった。
「そうか」

 ヨアキムは皇帝の元を辞し、自分の執務室へと向かった。

「ヨアキム殿下」
「なんだ?」
 衛兵が訪問者があることを告げる。
「ベニートさまがお待ちです」
 執務室に入ると、白粉の匂いが鼻をついた。化粧を急いで落とし”ベニート”に戻ったベニートが遠くからヨアキムの足元に身上書を放り投げた。

「後宮で爆ぜたのはブリリオート家の長女マリエ。身上書に申込書、提出書類は次女キリエになっている。当日になって変更したらしい」

 ヨアキムは足元に散らばった書類を拾い上げて目を通す。
 ベニートが言った通り、書類はキリエを側室にするものであった。
「マリエは通路の”爆ぜ”を、子供だましだと考えていたようだ。だから妊娠を誤魔化せるどころか、すぐに跡取りを産んで妃になれると考えたようだ」
「マリエ自身は、妊娠しているのを知っていたのか?」
「ああ。私も調べて知っていた……だがあの場で止めるわけにはいかないだろう? ヨアキム」
 ヨアキムは頷き椅子に深く腰をかける。
「陛下はお前になんの話を?」
「安心しろ。お前のことは、ばれてはいない」
「それは良かった」
「……妃にするのなら、爆ぜを目撃した女にしろと。外界と接触しても不義を働かぬし、暴行されたらすぐに身を引くから最良だと」
「なるほど。じゃあ良い女がいる」
「誰だ?」
「お前の部屋に来る途中に会った、ブリリオート卿から渡された身上書。もう一回キリエを側室にと。彼女、通路にいて姉が爆ぜるのを見ていた」


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