PASTORAL −181

「迷子になったの?」

 緊張した空気を砕くような陽気な声に、彼女は我に返る。ゼンガルセンですら驚いて振り返ると、そこには、
「ケスヴァーンターンか」
 黄金と見間違うような豪奢な金髪と、緑と白をふんだんに使った着衣をまとったカウタマロリオオレトが立っていた。
「初めましてー。迷子? 迷子?」
 緊張の糸がきれてしまった彼女は、床に崩れ落ちそうになったがゼンガルセンがそれを支える。
 嬉しそうに彼女の顔を覗き込んでくるカウタマロリオオレトに、
「初めまして、殿下」
 彼女はやっとの思いで答えた。
 目の前の男が、自分の助けを無視し、息子を殺した男の息子である事は知っている。それでも彼女はこの “王子” が嫌いではなかった。
「我が案内する。お前は戻れ」
 皇后宮で働き始めた頃、気さくに声をかけてきてくれた王子。
 この王子はどの侍女にも優しかった。
「ヤダ! ねーねー初めましてー」
「バカが露呈する前に下がれ」
「ヤダ! ねーねー初めましてー」
 おっとりとして優しかった王子だった彼の言動に、彼女は違和感を覚えた。彼女の知っている王子は、もう少し “普通” に喋っていた。
「殿下?」
 これを “おかしい” と言ってしまっていいのか? そう考えてみるも、何かが彼女の知っている当時と違っていた。
「早く下がれって言ってるだろうが!」
「やぁだー! ねーねー初めましてー」
「っとに、鬱陶しい男だ」
「……殿下?」
 カウタマロリオオレトの声を重ねて聞くたびに、彼女は不安を感じる。何かが違う、当時と何かが違うと。
 その言い知れぬ恐怖は、隣に立ち彼女を支えている男の一言で表面的に納得ができた
「気にするな。ソイツは、精神的なショックで軽く気が触れた、それだけだ。何を言っても半分以下しか理解できぬようだ」
「ねーねー」
 笑っている “王子” を前に彼女は声が出なかった。
 彼女は “王子” に何があったのかは解らないが、何かあったのだと知り、それが酷く彼女に不安を感じさせた。
「煩い!」
「いーもーん。君は叔母様から用事を言い付かってたんだよね。僕が連れて行ってあげ……僕が代わりに行くよ! 君は帰るんだ! 急いで帰るんだ!」
 あの日彼女は皇后から用を言い付かった。
 部屋においてきた日傘を持ってくるように命じられた。彼女はその部屋が何処か解らなかった。“叔母様の日傘はあっちだよ” そう言って連れて行ってくれたのがカウタマロリオオレト。
 彼女は日傘を見つけた。“じゃあ行こう!” と言うカウタマロリオオレトの背後から人が入ってくる。皇帝クロトロリアと、
『お父様?』
 彼女から日傘を取り上げ、カウタマロリオオレトに日傘を持って行くように言ったケネスセイラ。
 息子の背中を押し、早く皇后の方へと行くように。そして扉は閉ざされた。
 彼女は王子のことなど恨む気はなかった。王子がいようがいまいが同じことが起こったのだと。彼女は王子に関しては何も思ってはいない、それはケネスセイラの息子だと思えば負の感情も湧き上がらないではないが、彼自身に何の恨みもない。
 だが彼女が恨まなくとも、
「ケスヴァーンターン公爵殿下……」
 彼は後悔していたのだ。
「急いで帰らないと! 君は帰るんだ! 僕が代わりに行くんだ! だから、早く帰るんだよ!」
 彼女からゼンガルセンの腕を引き剥がし、必死にあっちに行くんだ! と叫ぶカウタマロリオオレト。
「何言ってやがるんだ……待て! お前!」
「早く帰ってぇ! お父様、だめえ!! やめてぇ! お父様!」
「何混乱してやがるんだ、このバカ。我は似ているがお前の父親ではない」
 ゼンガルセンは知らない。
 彼女の背後に立ち、皇帝に彼女を押して差し出した男がいたことを。男がいた事は知っているだろうが、ゼンガルセンによく似た男がどのように動いたかなど解らない。なぜなら検証もなにもされていない事件ですらない出来事だからだ。
 立っている男の位置と容姿、そして自分と “王子” 立ち位置。
 それがあの事件と同じ立ち位置だと気付いたのは、自分と、
「どいてください、公爵殿下」
 ケスヴァーンターン公爵だけ。
 それ以外の者は既にこの世にはいない。
「なんだ?」
 ゼンガルセンは支えていた腕を離し、彼女の好きにさせる。
「王子。私は行かなくてはなりません。私はそこに行かなければ」

− 例えそうであっても −

「この手にわが子を抱くことができませんので。お気になさらないで」

− 彼女は行くのだと −

 カウタマロリオオレトがくっついて離れないのと、すっかり気が削がれてしまったゼンガルセンは彼女が自宅に戻るのを許可した。
 用意しておいた車に乗せ「正式な返事はサフォントの挙式の日にもらう。印と貴族認定書類の全てを持って来い、その日に結婚を完成させる」と告げ、彼女はゼンガルセンを正面から見つめて「はい」と返事を返した。
 ゼンガルセンに帰れと何度も言われたが、絶対に帰らなかったカウタマロリオオレトは遠ざかる車に手を振る。気付いた彼女は驚いた表情を浮かべ、そして控えめにケシュマリスタ王に向かい手を振った。
「バイバイ。またね〜」
 手を振り続けるカウタマロリオオレトの隣で、彼女の乗っている車から視線を外さずに話し掛ける。
「アレステレーゼは、お前がクロトロリアに犯されたこと知らんのだな」
 白い道と夕暮れの空の強い色合いに飲み込まれそうな車から視線を離さないで、カウタマロリオオレトは言った。その青く美しい深い海のような声と称される声で。


「彼女には言うなよ、ゼンガルセン=ゼガルセア・ナイサルハベルタ・アーマインドルケーゼアス。例え彼女が君の妃になったとしても、君にそれを告げる自由はない。このケシュマリスタ王 カウタマロリオオレト・テリアッセイラ=リサイセイラ・ザリマティアスタラーザが許しはしない」


「お前、頭の中はまともに動いているって噂は本当らしいな」
「……」
「まあいい。お前の頭の中身がまともであろうがなかろうが、我には関係のない事だ」
「妃は幸せにするんだよ」
「お前に言われる筋合いはない」
「妃を追い詰めてしまえば、私のようになるからね」
 消えた車から視線を外し、ゼンガルセンに向き直るカウタマロリオオレト。それを見つめながらゼンガルセンは笑った。
「知っていたのか……まあ、お前の妃はいい女だった。確かに良い女だった」
「…………あ……ぃ……ああ……」
「もう、まともには喋れんか。戻るぞ、ケスヴァーンターン公爵」
「うん! コキュ! 一緒にかえろー」
「コキュじゃねえって、言ってるだろうが!」

[知っていたのか……まあ、お前の妃はいい女だった。確かに良い女だった]

当然だよ、私の大事なお妃だもの
アイリーネゼン、私はもう少ししたら君の事を忘れてしまうけれども、君の事を忘れたいと思った事は一度もないよ
君が私の事をどう思っていたかは、正確には解らないけれど
愛してる、アイリーネゼン
私はもうじき王ではなくなるよ
君の事を覚えているうちに、私は王をやめる
私の王妃は君だけだから
王妃を忘れないうちに、私は王をやめるよ
王をやめたら私は君を忘れて

ケセリーテファウナーフのところに行く

愛してた、アイリーネゼン
さよなら、私の王妃


− 僕はカウタマロリオオレトって言うんだよ、君は?
− アレステレーゼと申します
− 僕のお妃に名前似てるね! 僕のお妃はアイリーネゼンって言うんだよ
− 似てますか?
− うん、似てるよ!


私が君の事を大事に思っていた気持ちは一体何処へと消えて行くんだろう? この道と黄昏の狭間に消えていった彼女を乗せた車のように見えなくなるのだろうか? ねえ、誰か教えてくれないか? 私のこの気持ちはどこへ消えてゆくのか? 

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