ALMOND GWALIOR −69
 デウデシオンはこの浴室では初めて使う湯のもたらす湯気の熱さと、目の前ではらはらと泣き出したザウディンダルに挟まれ、先ほどエダ公爵に噛みつかれた胸が奇妙なほどに痛くなる。
「お前も知っての通りエダ公爵はケシュマリスタ王ラティランクレンラセオと繋がりがある。あの男の動向を知る一つの手がかりだ」
「解った」
 涙を流しながら笑顔を向けてくるザウディンダルの手を引く。
 ザウディンダルもそれに従ってゆっくりと歩き出す。足に付いた土が湯で少しずつ落ち、流れる。
 座れというように手を動かされ、それにザウディンダルは従ってパジャマを着たまま床に座って湯を浴び、デウデシオンも向かい側に座ってザウディンダルの汚れていた足を洗う。
「あのさ、兄貴」
「疲れた」
「え……」
 誰に向けて言った言葉なのか? ザウディンダルは “疲れた” が自分に向けての言葉ではないことだけは解った。
 自分知らない誰かに向けて放った兄の弱音に、自分の知らない誰かが兄の中にいることを知り、寂しく想う以上にデウデシオンの内側を知る事が出来て嬉しさとは違う感情がわき上がってくる。
 “疲れた” のあと、動かなくなったデウデシオンに何を言っていいのか解らないザウディンダルは、傍に近寄りゆっくりと抱き締める。抵抗するわけでもなく、だが抱き返すわけでもなく力無く座り俯いている兄に掛ける言葉を抱き締めながら探し続ける。
「兄貴」
「……」

“デウデシオン、もっと上手にリンゴの皮むいてよぉ。……可愛くない、このウサギ……泣いてないもん……”

「昔のことだから覚えてないと思うんだけど、俺さ子供の頃、体調崩して寝てたとき兄貴に林檎のウサギを頼んで、作ってもらったやつを可愛くないって文句言って泣いたことあるんだ」
「……」
「次の日来た兄貴が上手になってて……嬉しかった。兄貴は何でも出来るんだなあって……後でさ兄貴がわざわざ練習してくれたって知った時嬉しかった反面、その練習している風景見たかったな」
 回想している優しげなザウディンダルの声を遮り、デウデシオンが何時もの声で言い返す。
「見せられる訳ないだろう」
「何が?」
 ザウディンダルの肩に乗せていた顔を離して弟を見つめる。
「お前の前で林檎のウサギ作る練習など……見せなければ殺されると言われても御免だ」
「なんで?」
 何時もの帝国宰相に戻ったデウデシオンに、ザウディンダルは驚と安堵の感情にない交ぜになりながら問い返す。
「私の意地だ。弟に無様に努力している姿など見せたくはない」

 そこにはもう ”疲れた” と呟いた男の姿はない

「だって! 俺に教えてくれたのタバイ兄だよ」
「あれは勝手に……あれの身体能力を使って私に気付かれずに観ていたのだ。気付いた後は……タバイは本当に……私はお前達の兄でいたいのだ。何でも出来る、困ったことは何でも解決してくれる、まずは私に相談してから、そう思われる兄になりたかった。それを目指している男が、弟の前で林檎のウサギ作り練習など見せられるか!」
「でも、でも……」

“ほとんど彫刻の域ですよ”

 ザウディンダルに食べさせる為に、態々両性具有用の小さな果物を持って来て、何食わぬ顔で切ってやる。
 直径が4pにも満たない林檎を八等分して細かく細工を施す練習をしているデウデシオンに、隠れて刃物を持っている兄を心配して監視していたタバイが呆れて声を掛けた。
”み、見ていたのか!”
”はあ。人目を盗んで刃物を持って、人気のない場所へと向かったので心配で……その、もしかしてザウディンダルに?”
”仕方ないだろう。幼いザウディンダルに標準サイズの果物の存在は早い。もう少し成長してからだ”
”はあ……”
”あっちに行け! タバイ!”
”そこまで出来たら充分かと”
”何事も無く、涼やかに、ザウディンダルの視線を感じても何時もと変わらない態度で出来るまで”
”その剥いたの私が食べながら、兄を凝視しますので。どうぞ練習を続けて下さい”

 胃が弱いタバイは、小さいとは言え七十個も剥いた林檎を食べて、お腹が痛いとベッドで唸るはめになり、デウデシオンが、
”だからもう食わんで良いと言っただろうが!”
”いや、そうなんですが……その……偶には胃の限界に挑戦を……”
”しなくてよろしい!”
 怒鳴っていた。

 ザウディンダルの顔を見ながらそんな他愛のない事を思い出し、デウデシオンは立ち上がりザウディンダルを抱えてシャワー室を出た。
 濡れたパジャマを脱がせながら、
「外出するなら、最低ガウン、出来たらマントを羽織るように」
「はい」
 濡れて体に張り付いた服を脱がされるがままにされながら、ザウディンダルは頷いた。
 体を覆う大きなバスタオルにくるまりながら、二人は肩を並べて部屋へと戻る。
 空は既に日が傾き夕刻を示し始めていた。
 デウデシオンは自分で確認したとおりの天候と、大気状況を眺めながら、皇帝が今何をしているのかを思い浮かべる。
 帝星の年間気象は全て帝国宰相が決定している。生活に必要な細かい気象の移り変わりは専門分野者達が決めるが、それよりも大事な式典の気象を帝国宰相が決める。
 大切な式典は何時も晴れであり、悪天候で潰れる事は無い。
「腹は空かないか?」
「空かない」
 今はどのようなお召し物で、何をなさっていらっしゃる……二十年以上取り仕切っていた式典の段取りが頭を支配するが、それを振り払い、
「そうか。無理して食べろとは言わないが……」
 デウデシオンは言いながら召使いを呼ぼうと、呼び鈴に手を伸ばした。
「?」
 固いはずの呼び鈴、だが己の指先に触れるのは妙に柔らかい。
『布のようだ。特殊仕様ではなさそうだが……? レース?』
 デウデシオンは指に触れている物を隙無く自らの視線の高さに上げる。そこにあったのは、黒を主としたレース地に紫とオレンジ、そして群青で刺繍を施された下着。本当に下着。先ほどまで自分が抱いていた相手の下着だと気付くのに、時間は殆どかからなかった。
「あ、兄貴!」
 そして気付いた所で、デウデシオンは倒れた。
「中身入ってないのに! 下着だけでも駄目なのかよ!」
 くるまっていたバスタオルを投げて、倒れているデウデシオンが床に落ちる前に何とか体を支える事に成功したザウディンダルだが、
「いた……たた……」
 治る途中の体には堪えた。
「タバイ兄じゃなくて良かった……」
 そう呟いて、ゆっくりとデウデシオンを床に置き抱きかかえられるかを試した。あらゆる体勢で持ち上げようと試みたが、試みればみる程に体の痛みが増して、とてもベッドまで運べそうにはなかった。
「何時もなら平気なのに」
 デウデシオンの上に体を痛む体を乗せながら、全裸の兄が寒いといけないと手を伸ばしソファーの背にかけられている飾り用の布を引っ張る。
 これを掛けてから召し使いを呼ぼうとしたのだが、
「え?」
 いつの間にやら無意識のデウデシオンに抱き締められ、とても逃れられない。
「兄貴? ちょっと離して……」
 極度の疲労と意識の喪失が相まって、デウデシオンが声を掛けても起きる気配はない。
「兄……うわ! 寝てるのに、何でこんなに力強い……」
 無意識のせいで、手加減せずに抱き締めるデウデシオンの腕から逃れるのは、
「無理だ……」
 ザウディンダルには無理だった。
 半身が覆い被さるような状態で固定されているザウディンダルは、足などを使いデウデシオンの体を布で覆い隠す。
「声上げたら人来るかなあ……来ないかなあ……」
 そんな事を考えている内に、ザウディンダルも疲労から眠りに落ちた。

**********

「いい年して、行き倒れごっこですか?」
 しゃがんで自分の顔をのぞき込んでいる、自分によく似た顔に驚き、
「バロシアン……!」
 デウデシオンは目を覚まし体を起こそうとした。
 ふとみると腕にはザウディンダル。
「お二人とも大人ですから、戻ってこなくても心配はしませんでしたが」
 軍の睡眠用のマットと、大きな毛布が二枚。窓は開いたまま、だが風が直接当たらないようにと布製の衝立が立てられていた。どれも部屋には無かったもの。
『来たのなら起こせ、デ=ディキウレめ』
 溜息をつきつつザウディンダルから手を離すと、そこには確りとした手形が残っていた。
「もしかして、ずっと握り抱き締めていたのですか?」
 鬱血しているザウディンダルの腕を前に、言葉を失うデウデシオン。それを前にバロシアンは苦笑する。
「手離したら、どこかに行ってしまいそうですものね」
 ”どうぞ” と薄く味の付いた水を差し出す。視線を合わせずに乱暴に奪い、口に運ぶ照れ隠しの不機嫌さを前に、バロシアンは声を出さないで笑い、デウデシオンはその笑いに何も言わなかった。
 二人の声に、ゆっくりと覚醒したザウディンダルは、
「あの、兄貴ごめん……運べなかった……」
 周囲の変化よりも先にデウデシオンに声をかける。
「構わん。ザウディンダル、体調は悪化していないか?」
 ”その腕の鬱血は悪化だと思います” というバロシアンの声を無視して話続ける。言われて腕をみてザウディンダルは驚くが、
「悪かったな。握ったままで立てなかったのだろう……何故握っているのか、良く解らないが……」
「朝まで離さなかったんだ」
 ザウディンダルは喜びの表情を向けた。
 部屋を移し念のために主治医のミスカネイアを呼び立てる。
 勿論呼ぶ際にバロシアンは 《はい、帝国宰相閣下が握って握って酷い内出血です。鬱血もしているようです》 爽やかに告げ、画面の向こう側から獣の唸り声の方がまだ穏やかだと感じる声と、その後ろからか細い 《落ち着いてくれ、ミスカネ……》 等と言う声が。
 結果として、
「体調不良はありませんが、内出血は大問題です」
 やっぱりデウデシオンは叱られた。
 散々義妹に叱られ、その止まることのない叱責をから兄を助けるべく、タバイが一生懸命引っ張っていった。
「苦労をかけるな、タバイ」
「本当ですね」
 ベッドで再び微睡み始めたザウディンダルから離れた所で、兄弟であり親子の会話は続く。
「……バロシアン」
「何でしょうか?」
「アルカルターヴァを牢にぶち込め」
 デウデシオンが王をぶち込めと言う牢はただ一つ。自らの執務室に備え付けられた、部下達の間違った愛情に飾られた《愛という名の牢獄》
「あの王様、私ごときが連行の責任者では怒りますよ。もっと身分と地位の高い者を派遣しろと顔をまっ赤にして怒って、絶対に連行されませんよ。いや、私も帝国宰相の家臣ですから死ぬ気で頑張りますが、本当に殺されちゃうかも知れません。あの王様の冗談の通じ無さは帝国宰相にも匹敵します」
 さらりと何か言っているのだが、何時ものことなのでデウデシオンは無視しして続ける。
「この帝国宰相、式典の最中は陛下のお側に近寄れぬと、四大公爵のバカ共が決めたのだ。奴等の決めた事に従ってやっている以上、文句も言えまい」
 デウデシオンはスケジュールを考慮し、今の今まで待っていたのだ。此処から暫くアルカルターヴァが参加しない式典が続くので、その間にぶち込んで叫ばせようと。
「解りました。では愛という名の牢獄に放り込んで、室内を真っ暗にしておきますので」
「暗闇は私がつくる。牢に放り込むまででよい」
「はい。では食事を済ませたら執務室まで来て下さいね。あの王様の脳血管が千切れない内にお願いしますよ」

 バロシアンは異父兄で近衛兵団副団長のバイスレムハイブ公爵と、彼の指揮する一小隊と共にアルカルターヴァ公爵の捕獲に向かった。

「あれ捕まえるのかあ……嫌だなあ」
「アウロハニア兄、アレ言っちゃ駄目ですよ」
「男が好みな私だが、あれはなあ……顔綺麗なのに、あれはなあ……」
「アレが好みとか言ったら、兄弟総出でアウロハニア兄を殴って記憶喪失にしますから」
「殴らないでも記憶処理できるだろ」
「痛い目みないと解らないでしょ」
「痛すぎるだろが。それにお前もあれって言ってるし」
「気高い御方ですので、庶子如きがお名前を口に乗せるのも不敬に当たるでしょう。だから ”アレ” で良いんですよ、アレは」

 従っている部下達は ”絶対違う” と思いながら沈黙を保っていた。


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