VANITATUM

 余は白い砂浜から月明かりに照らされた海をみておる。とうぜん夜空には月が浮かんでおる。満月の強い月明かりに照らされている白い砂浜と、海面にはっきりと映る月。
 これは夢であろう。
 あの日、ビシュミエラとラードルストルバイアに会った時と同じ、夢が過去に繋がるようで、決して繋がらない過去の世界。
 あの時と違うのは、周囲に人の気配もなければ、誰もいないことだ。
 話し声一つせず、波の音も聞こえない。音のない夜の世界。余は月の美しさに魅せられて、海へと向かうことにした。
 誰の記憶であろうか? なにかを示唆しているのであろうか?
「――――」
 海へと近付いていたら、なにかが聞こえてきた。なにを言っているのかは解らないが、呼び止めているように感じられた。
 周囲を見回してみる。海以外は左右と背後、どこまでも白い砂浜が続いているように見えた。だが海ではない、確実にこの砂浜のどこかから声が聞こえてきている。
 どちらだろうか?
 解らないが、余は歩き出した。気付いた時には右手に海があった。だが左を向いた記憶はない。
 ふわふわと、砂浜を歩く。
「あれは……なんだ?」
 白い砂浜の上に、なにやら赤いものが見えてきた。

―― 近付きたくはない!

 なんなのか解らない筈だというのに、余は”赤いもの”を見た瞬間、逃げ出したくなった。近付いてはいけないと誰かが叫ぶが、同時に近付かなくてはならないと ―― 余自身―― が思っておる。
 誰かの記憶であの赤いものがなんなのか? 解っておるのだろう。
 余は近付きそれをはっきりと確認せねばならぬ気がする。
「……」
 月明かりに照らされた白い砂浜に、白銀の柔らかな髪が……
「ラバティアーニ?」
 とても小さい。
 体自体は小さくは”なかった”のであろうが、この場にある体は小さい。
 両足が食べられており、腑も抜かれておる。腕もあらぬ方向で……容姿は余たちの範囲内だから、普通であれば見ただけでは解らない。
 だがこの顔は……顔は聞いていた通りだった。
 死んでいるのであろうか?
「ラバティアーニ?」
 もう一度声をかけてみた。
 生きているとは思えない状態だ、もしも意識があったとしても……
「――――」
 口が微かに動き、目蓋がうっすらと開く。瞳に映った銀色の月。余はその瞳に映った月を手で覆い隠した。
「なにか余に言いたいことがあるのか? ラバティアーニ!」
「――――」
「ここは余の記憶の世界だ! その姿ではなくても大丈夫だ! 戻れ! 戻ってよいのだ!」
 だが瀕死のラバティアーニは治らない。
 ここは余にとっては過去であり現実ではないが、ラバティアーニにとっては違うのだろうか。
「なんだ? なにを言いたいのだ?」
 余はラバティアーニの顔に近付いた。
 右半分の皮が剥がされてしまっている顔に。
 ロガを思い出す……ロガは生まれつきだったが、ラバティアーニの顔は……
「う……で……」
 余は耳を近づけて呼吸を止める。
 ゆっくりと動く唇が伝えたかったもの。

う ら ん で な ん か い な い

 音はなかったが、静寂がたたき割られたような。衝撃に似た言葉だった……そうか、ああだから体が元に戻らぬのか。
「ザロナティオンに伝えたいのか?」
 この状態はザロナティオンに食べられた後の状態なのだろう……なぜ? なぜ自分が食べられた姿をそのままに再現……誰かの記憶? ……ああ、考えるまでもなかったな、これはザロナティオンの記憶なのだな。
「ラバティアーニ、伝えれば良いのだろう?」
 ラバティアーニの表情は曖昧だ。
 伝えたいのだろうか? それとも言いたかっただけなのか?
 腕を伸ばして体を抱き起こしてみると、いつしか体が元の形に戻りはじめていた。
 引き抜かれ食われた腑も、足も手も。ただ顔だけは治らない。この顔はザロナティオンではなくラードルストルバイアがやったことだそうだから、今の言葉では治らないのであろう。
 腕の中にいるラバティアーニ。白い肌に白銀よりもやや白さが強い少々癖の強い髪。瞳は大きく、右は銀色で左は真紅。
 白い小さな歯と……体をゆったりと覆うアイボリーの両性具有特有の服。
「立たせてくださいますか?」
 いつの間にか体が元に戻っていたラバティアーニの希望通りに、余は支えて立たせてやった。
「……」
「立つのは無理だ」
 足が弱いと伝えられていた通り、砂の上には立てなかった。
 余はラバティアーニを抱きかかえ、海を向いた。最初に見た時とまったく変わらぬ月が映し出される海を。
「ラバティアーニよ。エーダリロクの中にいる”本物の”ザロナティオンに、先程のお前の言葉を”うらんでいない”と伝えれば良いのか?」
 ラバティアーニは嬉しそうな表情をするが、頭を振り否定した。
「だが伝えたいことはあるのであろう? 遠慮などするな」
 腕の中のラバティアーニは軽い。ここには存在しない体だからであろうが、それにしても軽かった。
 肌と同じ真っ白な唇が震えるように動く。
「ザロナティオンに愛していると……殺されたことは恨んでなんていない。むしろ望んでいたと」
 ラバティアーニはそれだけ言うと、余の腕から降りようと体を押してきた。
 砂浜の上に立たせて腰に手を添えて共に歩く。波打ち際まできたところで、その支えも要らないと言われたので余は手を離した。
 そしてラバティアーニは海へと入っていった。
 寄せてくる漣に足を取られて転び、ザロナティオンのように四つん這いになりながら海へと進んでゆく。
「ラバティアーニ!」
「来てはなりません」
 踏み出した足が濡れた砂に沈む。そのまま余はラバティアーニを見ていた。水深が深くなるとラバティアーニは立ち上がり、沖へと必死に進む。
 胸の辺りまで進んだところで、余は駆け出した。
「ラバティアーニ!」
 走り引き留めてなにをするつもりか? 余の中にある冷静な部分が告げたが、いてもたってもいられない。冷たい海水を押しのけてラバティアーニに腕を伸ばす。
 その細い腕を掴んだ時、ラバティアーニは微笑んだ。
 堪らずその身を抱き締め……

―― これがお前の人生か……ラバティアーニ ――

 抱き締めた腕から記憶が流れ込んできた。
 短い人生の全てが、うねりとなって余の頭の中へと。
海水が顔にかかったと言い訳はするまい。余はラバティアーニを抱き締めて泣いていた。
「ここにいて、抱き締めている感触もあるのに! あるのに! お前を幸せにすることはできぬのだな!」
 もう少し、幸せになって欲しかった。
 傲慢だと言われても、幸せを感じて欲しい。
「それで充分。貴方様が幸せになってくだされば、私は幸せですから」
 細く弱々しい腕で余を抱き締め返してきた。
 いつの間にか増してきた水位に、余はラバティアーニを抱き締めたまま海に沈んだ。重く冷たい海に、ラバティアーニと共に沈んだ。

―― 貴方様は貴方様の両性具有のところへとお帰りください ――

**********

 ラードルストルバイアは白い砂浜へと”戻って”きた。
 白い砂浜に目立つ黒髪。黒夜空を飾る星々ごと奪ってきたかのように輝いている黒髪の元へと近付いてゆく。
「寝てるのか」
 砂浜の上で意識を失っているシュスタークと、
「はい」
 その隣で座りながら、シュスタークの寝顔を見つめていたラバティアーニ。
 ラバティアーニは立ち上がり、また覚束ない足で海へと向かった。ラードルストルバイアは眠っているシュスタークを軽く足で小突いたあと、歩きを覚えはじめたばかりの幼児のような足取りのラバティアーニの後ろをついてゆく。
 波打ち際でラバティアーニは振り返り、細い腕で空を指さす。
「あなただけが、銀の月の傍へ行くことができる」
 ”この”空にある月は月だが、月ではない。ここにある銀の月はザロナティオン。
 ラードルストルバイアは彼の代名詞でもある不均衡な左右の翼を開放した。
 右側に大きな一枚の翼、左側には小さな無数の翼が不規則に生えている。純白の羽が城砂浜に幾つも舞い落ちる。
「俺と一緒にいるのなら、あの月の傍まで連れて行ってやる」
 ラードルストルバイアは手を差し出すが、ラバティアーニは”生前ラードルストルバイアの誘いを断ったときと同じ”表情で、やはり拒否する。
 この拒否のあと、ラードルストルバイアはラバティアーニの顔半分の皮を引き剥がした。
「懐かしいな」
「そうですね」
 互いに言いたいことは無数にあったような気がしていた。互いに同じ一人の男に食われ、人格が残り会うことも可能だったが、両者共々逃げた。
 会って話すことを恐ろしく感じ、裏切ったことを責められることを恐れ。なにもかもが恐れとなり互い避けていた。
 百年を経て再会した二人は、別れた時と同じであり、まったく違う。
 言いたかったはずの言葉はなくなり、最早身を持たぬ存在は恨みも恐怖もなくしてしまった。最後に残っている感情を告げたら互いに二度と会えないのだろうなとも解った。
「そうか。じゃあな」
 翼を広げラードルストルバイアは舞い上がり、月を目指して飛んでゆく。銀の月にもっとも近い男を見上げる。
「愛していた、ラードルストルバイア」
 純白の大きな翼と、羽ばたく度に舞い落ちる羽が月に照らされて輝く。
「でも今はザロナティオンを愛している。もう他の人を愛することはないから永遠に、永久にザロナティオンを」
 そう呟くと、羽が一枚ラバティアーニの元へと飛んで来た。両手で羽を包み込むと

 ―― 知ってる ――

 手の中の羽はなく、月へと向かって飛んでいったラードルストルバイアの姿も光に消えている。―― 知ってる ―― その言葉だけを胸にラバティアーニは再度海へと進み、今度は一人で波の狭間へと消え去る。

 月が美しい景色だけが取り残された。闇夜と海の狭間に佇み銀の光を零す。


ALMOND GWALIOR − 233

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