水精姫の選択

【24】

「それでどうだったんだ? パルヴィ」
 ヴォルフラムにとっては平地と変わらず、パルヴィにとっては危険な傾斜が続く帰り道。抱き上げたり背負ったりすることなく、手を貸しもせず、パルヴィの歩調に合わせながら二人はゆっくりと進んだ。
 道とは言えない道で息のあがるパルヴィに、イトフィルカとの会話を尋ねる。パルヴィは途切れ途切れに、か細い声で言われたことを包み隠さずにヴォルフラムに告げた。
「……で、どうするんだ?」
 パルヴィは巻き込まれただけ。
 どうして自分の体に呪いと呪いを解く力が備わったのか? 
「……」
 ”運が悪い”で片付きそうな話ではあるが、当事者であるパルヴィは納得はできない。
「生かすも殺すもお前次第だ」
 二人はいつしか歩みを止めて向かい会っていた。
 ヴォルフラムは袖口からパルヴィの手のひらほどの短剣を取り出して刃を自分で握り、柄を向ける。パルヴィは体を一瞬大きく震わせて、両手を握り胸の前に引き寄せてヴォルフラムを見つめる。
「そんな深刻な顔をするな。その程度の刃渡りなら軽い気持ちで刺しても大丈夫だ。ほら、刺してみな。俺のこと好きじゃないだろう?」
 パルヴィはヴォルフラムのことを恐れている。その恐怖はヴォルフラムに対する全ての感情を覆い隠している。二人の頭上の分厚く垂れ込めた曇天が陽射しを隠すように。
 だが絶対に愛していないと言い切れもしなかった。
 黒でもなく白でもない分厚い雲の向こうには必ず日が隠れているように、この恐怖の向こう側に”殺害できる”だけの感情があったとしたら?
  パルヴィにとってヴォルフラムは、塗りつぶされた黒い存在ではない。彼に対して僅かながら希望を持っていた。買われるために――絶望に近いものではある が、それは夜ではなく日はあった。買われなければ絶望となり、空は夜となるであろうが、彼はまだパルヴィをつきはなしてはいない。だからパルヴィにとっ て、彼は恐怖すれども愛して居ないとは言いきることができない。

 彼の心には既に陥れた天族の残り二人のことなどなかった。滅びるのであれば、勝手に滅びるがいいとばかりに。

 ヴォルフラム――それは不実な男であり、人の心を玩ぶ卑劣な男である。
 およそ少女に愛されるに値せず、おおよそ人を愛する男ではない。よって死ねないことを自覚し、ならば少女を最後まで手元に置いて長くなりそうな人生の寸暇を楽しもうと。狩るのとはまた違う追い詰めることを目的とし、抗えぬ少女に声をかける。

 彼はパルヴィの気持ちを知らない。知っていたとしたら、彼はどう動いたのか? 誰にも解りはしないことである。

「俺は一緒にいたら確実に嫌われる自信はある。どうだ? 嫌いになるまで一緒にいるか?」
 曇天の切れ間から差し込む黄金の光がヴォルフラムの持っている短剣を燦めかせる。
「……はい」
 嫌いになれるかどうかなど、パルヴィには分からなかったが、拒むことはできなかった。己の中にある垂れ込めた曇天が消えた景色が、眩しく美しい物であるか、何も無い世界であるのか? それを知るために――

 ヴェーラ王国に買われたビヨルク・パルヴィは、二度と故国の地を踏むことなく家族に会うこともなかった。

◇◇◇◇◇

 蜜を求めて蝶が踊る、以前と変わらない景色を楽しむ。風が吹きイトフィルカの身長よりも長い髪が横に流れ「再生された腕」で押さえる。
 朽ちた最古のマスバの樹の天辺に立ち、二人はそらを見つめていた。イトフィルカが生まれた頃からあったマスバの樹は枯れた。
 イトフィルカは幅の広いマスバの樹の天辺におり、ヴォルフラムはその枯れた木の根もとで作業をしていた。掘り返された土の強い匂いが、イトフィルカの鼻腔をくすぐる。
 それほど待たずして、ヴォルフラムが洞の中を通り抜けてイトフィルカの元へとやってきた。作業を終えたばかりの手は、濡れた土で汚れている。

「あの娘のことを愛していたのか、ヴォルフラム」

 イトフィルカの言う”あの娘”ことパルヴィが死んだのは、もうずっと昔のこと。
 彼女を売った金で故国ビヨルクの寿命は僅かに伸びたものの、決定的な解決策を得ることはできず程なくヴェーラ王国に併合された。
 故国がなくなった頃、彼女はまだ生きていたが、家族に会うことはなかった。生かされたパルヴィの姉が会わせて欲しいとジークベルトの頼んだものの、彼はその要望を聞くことはなかった。
 侍女であったイリアはそのままフリーデリケの元で剣を覚え、ヴェーラ王国でハイデマリーの侍女を三年ほど務め、充分な給金をもらい故国のサボテナへと帰り幸せに暮らした。
 彼女の元へはパルヴィは何度か訪れたことがあったと言う。

 ヴォルフラムはイトフィルカの問いに、虚ろな眼差しで遠くを見つめながら答えた。

「刺されたら死ぬんじゃないかと思うくらいにはな、イトフィルカ」
「そうか」
 年老いていったパルヴィをヴォルフラムが看取った。最後の時にパルヴィの手に果物篭にあったナイフを持たせて、ヴォルフラムは自分の首筋にあてたが、パルヴィが頭を乗せていた枕の皺の影がかすかに動き拒否を告げた。
 小さなナイフから手を離そうとするパルヴィの皺の深くなった手を掴み続けて、ヴォルフラムは、”一緒に連れて行ってくれ”に似たことを言ったものの、パルヴィは最後まで拒否した。

「             」



「             」

 ”恨んではいない、いままで楽しかった”それに類する言葉を、乾いた口元に少女の頃と変わらぬ笑みを浮かべて告げた。
 パルヴィに会う前にはなかった感情。パルヴィと出会って共に暮らしてから生まれた感情は多数あったが、ヴォルフラムは変わらなかった。そして彼女の死後、感情は乾期を耐える植物のごとく固い殻に覆われ、もう一度彼女に出会うその日まで眠りについた。
 ヴォルフラムはパルヴィの死後もそれまでと変わらずに生き続け、異形を狩りながらいつしか死なぬ己自身も異形と言われるようになり、人々から狙われるようになる。
 その状況を楽しみ魔人の国の狩り人たちを殺害しながらヴォルフラムは生き続け、ヴェーラ王国はなくなった。
 大国なき後小さな国が乱立し、異形たちは減り続け ―― 最後の異形イトフィルカと最後の魔人ヴォルフラムは世界の中心に立っていた。
「これからどうする、イトフィルカ?」
「決めてはいない、ヴォルフラム」
「そうか。俺も決めてはいない。ただ一緒に行く相手は決めている」
 ヴォルフラムは昔イトフィルカの体を切り裂いた時と同じ顔で手を差し出した。違うのはその手が土に汚れていること。この枯れたマスバの樹の根本に乾ききったパルヴィの遺骨の一部を埋めたのだ。道具を使わずに手で掘り土を盛った。
「私か」
 イトフィルカはその土に汚れたヴォルフラムの手を取る。
「そうだ」
 最古のマスバの樹の子孫たちによって作られた森からハイエルフは消え、人々の世界から魔人は消えた。二人の行方は知れず、人々の記憶から魔人という存在もハイエルフという存在も忘れ去られていった。

―― パルヴィの何処を気に入っていたのか覚えてはいないが、愛していたことを忘れることはない。パルヴィの声も姿も曖昧になったとしても ――

 かつてベステーリの中心であった古き森、その古き森はイトフィルカが居たころと変わらず今もフラドニクスと呼ばれている。

【終】